新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

さよなら、teacup 今までありがとう

2022年04月30日 | このブログからのお知らせ

ついにこの日が来てしまった。
いつかこの日が来ることは覚悟していたことだけれど(失礼ながら、ちっとも儲かっているようにはみえなかった)、現実となってしまうと、やはりさびしい。

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【重要なお知らせ】teacup. byGMOのサービス終了につきまして※追記あり(2022/3/25)  お知らせ
2022/3/1 | 投稿者: teacup.ブログ | トラックバック(1)

いつもteacup.をご利用いただき、誠にありがとうございます。

長年にわたりご愛顧いただきましたteacup.ですが、2022年8月1日(月)13:00をもちまして、サービスすを終了させていただくこととなりました。

これまでteacup.をご利用いただいた皆様には、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
https://navy.ap.teacup.com/info/960.html


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teacup掲示板を評して、誰かが「インターネッツ老人会の茶飲み掲示板」と揶揄していたことがあった。teacup掲示板の常連だった私は、「それではおれは、老人相手の介護ヘルパーのようなものだろうか?」と、苦笑せざるをえなかった。

teacup掲示板には、アットホームで気持ちがよく、そのかわり一向に儲かっているようにはみえない、常連たちがコーヒー一杯でいつまでも粘り続け、人目もはばからず大音声で語り合っている、そんな昭和な町角の喫茶店のようなところがあった。新規の、特に若いお客さんはいつまで経っても増えそうにない。そんなイケてない、少しポンコツ感もあるteacup掲示板が、私は好きだった。

この常連には、論争マニアや荒らし、粘着ストーカーなどの迷惑客も混じっていた。私がteacupの常連になっていたのも、この迷惑客たちから、この愛すべき町の喫茶店を守りたいという、一種の義侠心のようなものだった。ただし、teacupにとっては、最後に書くとおり、あの事件の渦中の人であった私のほうが、はるかに最悪の迷惑客だったに違いない。

teacup掲示板のサービスが始まったのは、1997年8月だそうだが、2002年ごろにインターネットを始めた私は、当時のことは知らない。

このブログを開設するまでの、teacup掲示板をめぐるあれこれの思い出話について、記録に残しておこうかと思い、文章を書きかけた。しかし当時の関係者のなかには、すでにネット活動を離れてしまった人もいれば、故人もいる。彼らは私が何を書こうが、もう反論することができない。それは卑怯だ。いまなお現役の方々には、議論を蒸し返したりすることになってしまうだろう。すべてはもう終わったことだ。私はそういう不毛なやりとりがいやで、2004年9月3日、このブログを開設して、一人気楽な穴ぐら生活を始めたのではなかったか。

私がこのブログの個人的な歩みについて語るだけなら、誰にも迷惑はかけることはあるまい。以下、「某組長部落格」(某労組組合長ブログ)、「地下のカリエール」、「くろまっくのぼやき。」と、何度かブログ名を変え、何度かの休止期間をはさみながら、18年間続けてきたのブログの歩みを振り返ってみたい。



このブログの最初期の投稿に、『空想大阪少女アリス 水都大阪7000年の歴史』という未完に終わったエントリがある(完成の意志だけはある)。私は政治の話もするけれど、このブログの「習作」というカテゴリに載せているような、文学的な遊びもやってみたかった。C派にいたころも、労組の代表になってからも、私の武器は「ことば」しかなかったのだから。 

こうして始めたブログだが、2007年12月10日を最後に休止してしまう。実はこのころ、勤務先が倒産の危機に直面し、会社再建に奔走した時期である。2007年12月には倒産の危機は去っていたのだけれど、そのかわり失った売上を回復するための仕事に忙殺された。

再開は、2年3か月余りの休止期間をはさんだ、2010年4月5日である。『文学少女五十鈴れんの冒険 『惜別』編』で「夏目かこ」が語る、源氏物語のダイジェスト本に、ようやく着手することができた。私はこの仕事に着手するウォーミングアップを兼ねて、ブログを再開した。本当は源氏千年紀の2008年に出す予定だった。ゴーストライターに徹し、たまに本名で書いても共著しかない私に、単著で本を出してやろうと、気長に待ってくれたスポンサーの親心には、ただ感謝の念しかない。

 

このころ、同じように放置状態にあった別室の非公開ブログ「革命のクロニクル」のコンテンツも、この本家ブログに引っ越しを開始した。「革命のディスクール・断章」である。これが第二期スタートである。

このブログがいちばん活動的だったのは、この第二期だった。2012年3月11日に東日本大震災があり、福島第一原発事故が発生する。過去ログを読んでいると、このころの自分の元気さにはつくづく呆れている。平均睡眠時間2、3時間だったのに、反原発デモに参加し、脱原発をめざして自然再生エネルギーの勉強に打ち込んでいる。仕事では新しいプロジェクトに取り組んでいた。ブログには直接の言及はないけれど、労組の里山再生の農業事業もキックアップしたのもこのころだ。

しかし怒涛のペースだった第二期も、2013年9月24日を最後に、2014年8月19日まで、しばらく記事の更新がストップする。2013年10月公開の『魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』にドハマりしていた時期だ。このころは、特定秘密保護法反対運動、安保法制反対運動が昂揚した時期でもある。私は会社帰りにデモや集会に参加し、その足で『まどマギ』のレイトショーを観に行った。EDの『きみの銀の庭』の「終わらない始まりへ 本当の終わりへ」というフレーズは、糖質制限中の私の胸に、綿菓子のように甘くふわりと溶けた。映画館でのポップコーンとコカ・コーラ、帰りのマクド(それ以外に食事ができるお店が開いてないのだ)で、私の血糖値はたちまち悪化した。

3か月の走り込みと食事制限で、血糖値は一時正常値に戻ったけれど、ブログの更新は再び停滞モードに突入する。2014年は年8回、2015年は11回、2016年は1回、2017年は7本(現在14本のエントリがあるが、うち7本は2019年の再々スタート時に別媒体の没ネタの蔵出ししたものである)、2018年はまた年1回の更新に留まっている。一時は正常値に戻った血糖値も、徐々に悪化していった。

このブログが再び復活するのが、2019年の7月22日である。約1年ぶりになる投稿は、「京アニ放火殺人事件について」と題されている。『ハルヒ』『氷菓』『リズと青い鳥』などの京アニ作品を愛してきた「まどマギ」おじさんには、この事件について発言の義務があるのではないかと思った。この日から11月1日まで、毎日のペースで更新している。

私はこの年4月に脳梗塞を発症し、5月に退院、6月にまた再発して7月に退院と、前後2か月近い入院生活を送ることになった。真剣な顔のドクターや看護師さんを見ながら、「このまま自分は死ぬのか」と思った。死ぬこと自体は怖くなかった。しかし、二度にわたりサバイブしてみると、遺言とまではいかないけれど、労組の若い人たちに伝言を残しておきたくなったのだ。

京アニ放火殺人事件の前日にクランクアップしていた『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』という作品に出会えたことは、2019年、この年の最大の幸福だった。「生きていて良かった」とさえ思った。

https://gold.ap.teacup.com/multitud0/1590.html

こうして、2019年は80件、2020年は18件、2021年は58件、2022年もこのエントリを除き15件と、再びこのブログも再び活性化してきた。第三期のスタートである。

昨年2021年冬、コロナ禍の引きこもり生活のなかで、ソーシャルゲーム『マギアレコード』と、柏木隆雄先生のテクストのロートレアモン的な出会いから、「文学少女五十鈴れんの冒険」がスタートした。柏木先生とそのファンの方々には、本当に迷惑千万だったと思う。心からお詫びしたい。しかし門外漢のトンデモ素人にすぎない私が読んでも、柏木先生のテクストは楽しくて仕方なかった。これぞ「テクストの快楽」であろう。文学で遊んでみたかった、このブログ開設の原点に、ようやく回帰することができたような気がした。


さて、最初に、teacupに迷惑をかけたという話をした。掲示板時代、私が最も精力的に取り組んだ、「市民と自衛官を結ぶホットライン掲示板」の話をしないわけにはいかないだろう。

私のかつてのハンドルが「ジュニア」(ほんとうは『じゃりン子チエ』の「小鉄」を名乗りたかったのだが、それは不遜に思えて、アントニオJrのジュニアを名乗ることにした)であり、このホットラインの掲示板の常連であったことをご記憶の人もあるだろう。

当時もいまも、私は叛軍戦線の再建こそ新左翼運動再生の核心中の核心だと考えている。しかし、イラク戦争の危機の最中、まずはこの人権ホットラインが、自衛官とそのご家族の信頼を得ることが最優先の課題であった。議論はいつも水平線だったけれど、現役自衛官氏と対話したり、キャバクラ通いで作ってしまった借金の返済のためにイラク派兵に志願した自衛官の妻の相談に乗っていた。誰かの考えを変えるなんておこがましい。私はただ、自衛官やご家族にとって、信頼に値する相談相手でありさえすればよかった。普段の労組の活動と変わらないし、私にはそれ以上のことはできない。

たまにネトウヨの荒らしが来襲することを除けば、1日のアクセスは20人から30人という、のどかで平和な掲示板だった。状況が変ったのは、5人の日本人がイラクの武装勢力に拘束された、いわゆる「イラク人質事件」からである。5人のうちひとりが、このホットラインのスタッフである元自衛官のWさんだったのだ。

私達のホットライン掲示板のURLも、巨大掲示板に転載されて、一晩明けたら1日3万5千アクセスが集中し、炎上状態であった。掲示板は「国益」を損ねる「反日極左」に対する罵詈雑言で埋め尽くされていた。1ページの投稿記事数は30で、27ページ遡った記憶があるから、700本以上あったのではないのか。しかしその大半は、botによる自動投稿であると思われた。私が「日本会議」という民間右翼団体の名を聞いたのは、あの荒らしの容疑者としてである。記事は700本以上あったが、テキストのパターン構成をみるに、実行犯は数名規模だと思われた。

「ジュニアさんはなぜ荒らしを削除しないのか」

teacup運営の人が首を傾げていたと、後になってある人から聞いた。常駐していたので、管理人と思われていたらしい。ホットライン主催の管理者サイドは、「荒らしは放置」が基本方針だった。しかし、会社員生活を送り、広告・広報の仕事に関わってきた私の立場では、当時はまだ「コンプライアンス」という言葉はまだ知られていなかったけれど、差別発言を含めた迷惑投稿を放置することは、法的・道義的に管理責任を問われても仕方ないことだと思われた。私は、機械投稿、コピペでない、「肉声」と思われる発言を選んで、レスを返し、対話を試み、炎上した掲示板の鎮火活動に励んだ。

無事解放されたWさんたちの帰国報告集会には、殺害テロ予告があり、当日は右翼の街宣車が訪れた。私も有休をとって、東京の中野の集会会場に駆けつけ、反戦自衛官の皆さんと一緒に防衛隊を務めた。

私はこの集会の成功をもって、しばらくホットラインの活動を休むことにした。四六時中掲示板を監視し続ける日々にも、体力的に限界が来ていたし、仕事も溜まっていた。ホットライン主催では、私に掲示板の管理権限(削除キー)を与えようということも話し合われたようだけれど、残念ながらそのご厚意と信頼に応えることはできなかった。その後、主催者の周辺でもいろいろなことがあったようで、体制も変わり、結局私はお休みしたままである。

あのころは、teacup運営の皆さんに多大なるご迷惑やご心配をおかけしたと思う。私を許容もしくは黙認してくれたteacup運営の皆さんに、遅ればせながら心から御礼を申し上げる。

昔話はこれまで。

読者のみなさんには、gooブログへの移行作業が完了したら、また移転先のお知らせします。何の力にもなれなかったけれど、teacup、今までありがとう。インターネット黎明期、teacup という掲示板文化があったことを後世(!)に伝えていくためにも、このブログもしばらくがんばるつもりである。

「teacupのみなさん、いままでありがとうございました…!はぃ!」
(引っ越し蕎麦です…!)



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