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新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃん姉妹とお父さんの日々。

ろくでもない冗談のように思えてくるわ

2012年02月26日 | 革命のディスクール・断章
 1週間の労働を終えた。
 1934年のシモーヌ・ヴェイユの日記より。
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 「12月19日、水曜--7時から11時まで、仕事待ち。
 11時から5時まで、ロベールと一緒にながい板金から座金をつくり出すために、重プレス。注文伝票は未完了(1時間2フラン、座金1000個で2フラン28)。非常にはげしい頭痛、ほとんど休みなく、泣きながら仕事をする(帰宅しても、次々に泣けてきて、果てしがない)。それでも、3、4個のオシャカを除いて、へまもしなかった。
 倉庫係の忠告は、なかなか名案だ。ペダルを踏むのは、足だけですればよいので、からだ全部を動かす必要がないこと。片方の手でバンドを押し、もう一方の手でそれを支えるようにし、引っぱるのと支えるのを同じ手でしないようにすること。仕事とスポーツの関連性。
 ロベールは、わたしが2つもオシャカをつくったのを見て、かなりけわしい顔をしていた」(『工場日記』)

 
 炭坑夫たちと交わり、失業者手当で生活し、労働運動について考えたり書いたりするだけでは、生真面目なシモーヌは満足できなくなった。一人の女工が生活のなかで感じていることは、教授資格者(アグレジェ)の感じ取るものとは同じではありえないのだ。

労働と労働者の関係を内部から探求するために、シモーヌは1年間の女工生活を送る。彼女が工場に入ったのは、労働者をオルグしようとか、労働者の心情を理解しようとか、いかにもインテリらしい不純な目的からでは、これっぽっちもなかった。彼女は身も心も労働者になりきろうとしたのだ。もちろん、やせぎすで貧血もち、頭でっかちなインテリ女は、工場の親方はもちろん、労働者にも迷惑この上ない存在だったろう。しかし「身も心もこなごなにな」るほどの疲労と、宿痾(しゅくあ)の頭痛とたたかいながら、彼女は克明に記録し続けた。引用した日記は入社して3週間めのもの。

 この日記のエピグラフには、「自分の心にそむいて、冷酷な必然の定めに屈し」という、『イリアス』の一節がかかげられている。彼女が1930年代のフランスの工場に見いだしたのは、人間を奴隷に変えてしまう、冷酷そのもののの抑圧のシステムだった。

 社会や技術がどんなに進歩を遂げようと、それはただ形を変えただけにすぎない。人間は自然の力の前に無力にさらされていた原初の隷属状態から脱していないのだ。圧迫は、あまりに強くなると、反抗ではなく完全な隷属を招く。

 工場生活を始める前年、第4インター結成のためにパリを訪れたトロツキーは、ヴェイユのアパルトマンに数日滞在している(兄が知友だったのだ)。そのとき、シモーヌとトロツキーは激論になった。岩波文庫から刊行された『自由と社会的抑圧』は、当時フランス最高の若い知性による、優れたボルシェヴィズム批判だと思う。

 ヴェイユはこの老革命家を激怒させた。しかしヴェイユ家を去る際には、このお人好しは、「第四インタ-ナショナルが創設されたのはお宅でのことだと言ってもいいですよ」とコメントを残して去ったという。

 しかし当のシモーヌは、こんなトロツキー評を友人に書き送っていた。

 「わたし思うの、ボリシェヴィキの大指導者たちは自由な労働者階級をつくり上げるんだと主張しているけれど、かれらの中のだれも、--トロツキイはもちろんそうだし、レーニンもそうだと思う--たぶん、工場の中に足をふみ入れたことすらないのよ。したがって、労働者たちにとってどういう条件が屈従と自由をつくり出しているのか、その真相はまるでこれっぽちも知っていないありさまなのよ、--そう思うと、政治なんて、ろくでもない冗談ごとのように思えてくるわ」

 「完全な隷属」「奴隷の状態」のなかにこそ、人間の根本的な様相がある。後期ヴェイユを貫くこの思想的回心がなければ、彼女はラディカルでユニークな左翼思想家のままで終わっていたかもしれない。

 現代の悪魔ともいうべきナチズムに命がけの闘争に挑んだシモーヌは、そんな次元に踏みとどまることを、自分に許さなかった。バタイユの『空の青み』には、ヴェイユがモデルの黒鳥のような女社会主義者が登場する。次のことばは、ヴェイユへのはなむけのようにも思える。

 「泣くのはおやめ。だけどきみには狂っていて欲しいんだ。ぼくが死なないためには、そうしていてもらわないとだめなんだ」

(2005年12月19日)

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