父の代までは、大学に入るか、漁船に乗るかだった。高校進学の時点で、進学校か水産高校かに分かれる。漁師組が大学に進んだ兄弟を支えた。
父は大学進学組である。子どもの頃は、たまに帰国した船乗りの伯父たちに、外国の珍しいコインや紙幣、土産などをもらうのが楽しみだった。
人生いろいろなことはあるけれど、いざとなれば海があると思う。アラフォーを迎えた頃から、そんな思いが強くなってきた。国が滅んでも山河があれば生き残っていけるのだ。
もちろん、港町の現状は、都会で考えているほど楽なものではない。引用は、宮城県気仙沼市の市民活動「世界一の港町をつくる会」に関わってきた建築家・石山修武(おさむ)氏のエッセイより。一昔前まで、地方の漁港に行けば、こんな「げた履きの国際人」が大勢いた。いや、今だってほんとうはそうだ。
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東京-焼津間に近い150キロメートル以上のはえ縄を引き、アフリカのカナリア諸島や北米・南米の沖合まで出かけていく漁師たちは赤裸々で正直、「げた履きの国際人」である。世界中の海の民の暮らしぶりや経済感覚について、まるで自分の庭での出来事のように語るのを、酒を酌み交わしつつ何度聞いたことだろう。
彼らは合理主義的なビジネスマンでもあった。海流や気候の変動、国際政治や金融情勢が生活と直結しているので、常に風向きを読み、最大の利益を生む漁場、水揚げをする港やマーケットを決める。そんな才能を持ち、世界にアンテナを張り巡らせたエース級の扇動が港を出ると、近隣諸国の船が急いで後を追ったそうだ。……
私が気仙沼と付き合ったおよそ四半世紀の年月は、漁業の衰退と軌を一にしていた。数え切れないほどの市民集会に加わり、のべ千人単位の住民と顔を合わせ、町づくりの方策をあれこれと考えたけれど、港の活気が失われていくのを止めることはできなかった。その大きな要因は、日本の政治の怠慢にあったと私はいま思っている。3月11日、弱体しきった町に大地震と大津波が襲いかかった。
(日本経済新聞 3月28日)
父は大学進学組である。子どもの頃は、たまに帰国した船乗りの伯父たちに、外国の珍しいコインや紙幣、土産などをもらうのが楽しみだった。
人生いろいろなことはあるけれど、いざとなれば海があると思う。アラフォーを迎えた頃から、そんな思いが強くなってきた。国が滅んでも山河があれば生き残っていけるのだ。
もちろん、港町の現状は、都会で考えているほど楽なものではない。引用は、宮城県気仙沼市の市民活動「世界一の港町をつくる会」に関わってきた建築家・石山修武(おさむ)氏のエッセイより。一昔前まで、地方の漁港に行けば、こんな「げた履きの国際人」が大勢いた。いや、今だってほんとうはそうだ。
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東京-焼津間に近い150キロメートル以上のはえ縄を引き、アフリカのカナリア諸島や北米・南米の沖合まで出かけていく漁師たちは赤裸々で正直、「げた履きの国際人」である。世界中の海の民の暮らしぶりや経済感覚について、まるで自分の庭での出来事のように語るのを、酒を酌み交わしつつ何度聞いたことだろう。
彼らは合理主義的なビジネスマンでもあった。海流や気候の変動、国際政治や金融情勢が生活と直結しているので、常に風向きを読み、最大の利益を生む漁場、水揚げをする港やマーケットを決める。そんな才能を持ち、世界にアンテナを張り巡らせたエース級の扇動が港を出ると、近隣諸国の船が急いで後を追ったそうだ。……
私が気仙沼と付き合ったおよそ四半世紀の年月は、漁業の衰退と軌を一にしていた。数え切れないほどの市民集会に加わり、のべ千人単位の住民と顔を合わせ、町づくりの方策をあれこれと考えたけれど、港の活気が失われていくのを止めることはできなかった。その大きな要因は、日本の政治の怠慢にあったと私はいま思っている。3月11日、弱体しきった町に大地震と大津波が襲いかかった。
(日本経済新聞 3月28日)