午前中、午後からのプレゼンに向けて、せっせとカンプ作り。普段の仕事は、コンピュータの画面上で完結してしまうが、ここ一番のとき、勝敗を分けるのは、見えない手仕事をどれだけ積み重ねているか。
このことを学んだのは、若い頃、吉本隆明さんの著作であり、周りの職人さんたちだった。もっとも、私など手だけでは足りない。足技も寝技も関節技も使わないと、とても食っていけない。
15歳の男女を相手に行った寺子屋授業『ひとり』(講談社)でも、吉本さんは同じことをいっている。学校で進路志望を書くようにいわれたけれど、自分にどんな才能があるかわからない。その質問に対する吉本さんの答え。
「誰に才能があって、誰に才能がないとか、そんなことはないというのが僕の考えです。
たとえばいい文章を書くということにしても、才能によるとか、資質によるとか、あるいは感覚はどうだとか、細かく数えるといろんな要素があるわけですが、そういうことは全部、二の次だと僕は思っています。そんなのはたいした問題じゃない。大事なのはしょっちゅうそのことで手を動かしてきたか、動かしてきていないかのちがいだけです。これは物書きに限らず、何でもそうですよ。
要するに手だよ、手の使い方なんだよってね。
何になるにせよ、手をたくさん使えば誰でもなりたいものにちゃんとなれます、そういってもいいくらいです」
(二時間目「才能ってなんだろうね--」)
十年やれば一人前になれる。これは吉本さんの昔からの持論だ。吉本ばななさんがデビューした時も同じことをいっていた。作家なんか十年やれば誰でもなれると。ただし1日でも休んではいけない、と。
全共闘運動の頃、講演に引っ張りだこだった時代から、そんな発言がある。あの頃は吉本さんも若かった。「才能がない? ぶったおれるまでてめえの才能を使い倒したことのないガキが、甘ったれてんじゃねえ!」と「暴力学生」をどつきまわしていたりしたのだ。
この『ひとり』は講談社創業百周年記念の「15歳の寺小屋」シリーズの一冊。表紙写真の15歳男女と吉本さんの笑顔が実にいいのだ。おじいちゃんと孫たちでもなく、教師と生徒でもなく、そこには対等な人間の関係がある。寺子屋開講にあたっての口上がすごくいい。
「さあ、どうぞ。もっとお楽に。
お行儀悪くなさってください。
どうぞ。何でもきいてください。
悪いことでも何でも。
正直にお答えします。
それが僕の唯一の取り柄です」
こんな風に語るおとなを、私は吉本さん以外に知らない。15歳の男女にも驚きだっただろう。
いじめで不登校になったクラスメートの話に始まる一時間目、「ひとりっていうのは悪いもんじゃないぜ」(このタイトルがまたいいね)。
このなかに、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の話が出てくる。この吉本思想のキーワードに関する説明は、この本がいちばんわかりやすいと思う。
15歳という年齢こそ、この話を聞くのにふさわしい。自分が一人ぼっちであることに気づき、恋を知りそめ好きな人ができたり、また将来や学校や社会についても考え始める、今まさに思想やことばが生まれる、そのリアルタイムなのだ。おじさんも、もわかったつもりの吉本思想のパーツが、『シックス・センス』のラストのように、一本の線がつながったような驚き・感動・快感をおぼえた。そして、「理由もなくかなしかったとき きみは愛することを知るのだ」という詩のフレーズがよみがえり、「そうだったのか! そうだったんだよな」と涙があふれてきてしまった。こんな凄い言葉に触れると、もういつ死んでも悔いはないと思う(いえ、とりあえず明日は、日本一おいしい串カツを食べにいきますけどね)。
15歳の男女、4人があとがきに寄せた感想が、どれもすばらしい。思わず全文引用したい誘惑に駆られる。以下、さわりだけ。
「吉本さんのお話をきいて、いちばんに思ったことは、『大人に対するイメージが変わった』ということです。……吉本さんは、直球でした。全部を全力で話してくれるので、とても新鮮でした。(小高さん)
「吉本さんは、一般的な質問に対して、とても特殊な返答をしてくるので、『物事に対する考え方が自分とはちがうんじゃないか』と思いました。……子どもだからと簡単にすませない、難しい表現を使った説明は、最初は理解するのに大変でしたが、回を重ねていくうちに、だんだん話がおもしろくなっていきました」(村松さん)
「吉本さんは、何より、うそをつかない人だと思います。
たいていの大人は、少なからずうそをつきます。知らないことをあたかも最初から知っているかのように話したりします。でも、吉本さんはそうじゃないと、初めてお会いした時から、ずっと思っています。」(小寺さん)
「『アフリカ的段階』というお話をきいた時、自分の考えを土台から崩された感じがしました。吉本さんのお話をきかなかったら、黒人は黒人、白人は白人、自分は自分と区切りをつけて生きていったことでしょう。……いちばんいいたいのは人間の可能性について考えるようになったということです。それは自分自身の可能性のことでもあるし、まわりのことでもあります」(伊藤さん)
近いうちに、職場体験の中学生がまたやってくる。吉本さんのようにレベルを落とさず、ごまかしもせず、中学生に向き合えてきたとは、とても思えない。この「先生役」も10年続けたら、もう少しさまになっているのだろうか。しかし小寺さんもいうように、この社会は結果主義だとしても、それがすべてではないだろう。
このことを学んだのは、若い頃、吉本隆明さんの著作であり、周りの職人さんたちだった。もっとも、私など手だけでは足りない。足技も寝技も関節技も使わないと、とても食っていけない。
15歳の男女を相手に行った寺子屋授業『ひとり』(講談社)でも、吉本さんは同じことをいっている。学校で進路志望を書くようにいわれたけれど、自分にどんな才能があるかわからない。その質問に対する吉本さんの答え。
「誰に才能があって、誰に才能がないとか、そんなことはないというのが僕の考えです。
たとえばいい文章を書くということにしても、才能によるとか、資質によるとか、あるいは感覚はどうだとか、細かく数えるといろんな要素があるわけですが、そういうことは全部、二の次だと僕は思っています。そんなのはたいした問題じゃない。大事なのはしょっちゅうそのことで手を動かしてきたか、動かしてきていないかのちがいだけです。これは物書きに限らず、何でもそうですよ。
要するに手だよ、手の使い方なんだよってね。
何になるにせよ、手をたくさん使えば誰でもなりたいものにちゃんとなれます、そういってもいいくらいです」
(二時間目「才能ってなんだろうね--」)
十年やれば一人前になれる。これは吉本さんの昔からの持論だ。吉本ばななさんがデビューした時も同じことをいっていた。作家なんか十年やれば誰でもなれると。ただし1日でも休んではいけない、と。
全共闘運動の頃、講演に引っ張りだこだった時代から、そんな発言がある。あの頃は吉本さんも若かった。「才能がない? ぶったおれるまでてめえの才能を使い倒したことのないガキが、甘ったれてんじゃねえ!」と「暴力学生」をどつきまわしていたりしたのだ。
この『ひとり』は講談社創業百周年記念の「15歳の寺小屋」シリーズの一冊。表紙写真の15歳男女と吉本さんの笑顔が実にいいのだ。おじいちゃんと孫たちでもなく、教師と生徒でもなく、そこには対等な人間の関係がある。寺子屋開講にあたっての口上がすごくいい。
「さあ、どうぞ。もっとお楽に。
お行儀悪くなさってください。
どうぞ。何でもきいてください。
悪いことでも何でも。
正直にお答えします。
それが僕の唯一の取り柄です」
こんな風に語るおとなを、私は吉本さん以外に知らない。15歳の男女にも驚きだっただろう。
いじめで不登校になったクラスメートの話に始まる一時間目、「ひとりっていうのは悪いもんじゃないぜ」(このタイトルがまたいいね)。
このなかに、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」の話が出てくる。この吉本思想のキーワードに関する説明は、この本がいちばんわかりやすいと思う。
15歳という年齢こそ、この話を聞くのにふさわしい。自分が一人ぼっちであることに気づき、恋を知りそめ好きな人ができたり、また将来や学校や社会についても考え始める、今まさに思想やことばが生まれる、そのリアルタイムなのだ。おじさんも、もわかったつもりの吉本思想のパーツが、『シックス・センス』のラストのように、一本の線がつながったような驚き・感動・快感をおぼえた。そして、「理由もなくかなしかったとき きみは愛することを知るのだ」という詩のフレーズがよみがえり、「そうだったのか! そうだったんだよな」と涙があふれてきてしまった。こんな凄い言葉に触れると、もういつ死んでも悔いはないと思う(いえ、とりあえず明日は、日本一おいしい串カツを食べにいきますけどね)。
15歳の男女、4人があとがきに寄せた感想が、どれもすばらしい。思わず全文引用したい誘惑に駆られる。以下、さわりだけ。
「吉本さんのお話をきいて、いちばんに思ったことは、『大人に対するイメージが変わった』ということです。……吉本さんは、直球でした。全部を全力で話してくれるので、とても新鮮でした。(小高さん)
「吉本さんは、一般的な質問に対して、とても特殊な返答をしてくるので、『物事に対する考え方が自分とはちがうんじゃないか』と思いました。……子どもだからと簡単にすませない、難しい表現を使った説明は、最初は理解するのに大変でしたが、回を重ねていくうちに、だんだん話がおもしろくなっていきました」(村松さん)
「吉本さんは、何より、うそをつかない人だと思います。
たいていの大人は、少なからずうそをつきます。知らないことをあたかも最初から知っているかのように話したりします。でも、吉本さんはそうじゃないと、初めてお会いした時から、ずっと思っています。」(小寺さん)
「『アフリカ的段階』というお話をきいた時、自分の考えを土台から崩された感じがしました。吉本さんのお話をきかなかったら、黒人は黒人、白人は白人、自分は自分と区切りをつけて生きていったことでしょう。……いちばんいいたいのは人間の可能性について考えるようになったということです。それは自分自身の可能性のことでもあるし、まわりのことでもあります」(伊藤さん)
近いうちに、職場体験の中学生がまたやってくる。吉本さんのようにレベルを落とさず、ごまかしもせず、中学生に向き合えてきたとは、とても思えない。この「先生役」も10年続けたら、もう少しさまになっているのだろうか。しかし小寺さんもいうように、この社会は結果主義だとしても、それがすべてではないだろう。