きょう、同志重信房子が出獄した。
《1970年代に国際テロを繰り返した「日本赤軍」の重信房子・元最高幹部(76)が、さきほど、懲役20年の刑期を満了し、出所した。2000年に逮捕されてから、およそ22年ぶりに”塀の外”に出たことになる。
がんを患って、都内の医療刑務所で治療を受けていた重信元最高幹部は、午前8時前、娘のメイさんや支援者らの出迎えを受け、車で刑務所をあとにした。刑務所前で、車を降りて、支援者に挨拶をする場面もあったが、右翼団体が抗議するなどして、一時騒然とした。
出所後、記者会見を行った重信元最高幹部は、開口一番、「やっぱり生きて出てきたなという感じが強くある」と述べた。そして、「私の逮捕によって多くの人たちに迷惑をかけたこと、50年前の闘いによって、見ず知らずの無辜の人たちに被害を与えたことがあった。この機会にお詫びしたい」と謝罪した。》
https://news.yahoo.co.jp/articles/28a0999ed7c3a96a445918ab7acd8fec433dd44b
同志重信については、闘病に専念して、養生してほしい。
彼女に対する批判は、自分自身に対するものとして、私も受けとめていこうと思う。
あのとき、日本赤軍に合流していたらどうなっていたのだろう?と、時々考えることがある。
私は声をかけてくれたその人に感謝しつつ、「日本にもパレスチナはありますから」とその「提案」を辞退していた。
あのころ、私はC派にはすっかり絶望していたが、浪漫あふれる国際テロリズムの世界に生きることは、逃亡にしか思えなかった。そして小労組の指導者として現在に至る。
さて、昨日の続きである。
Twitterでは見つからないので、ググってみた。
「辺見庸ブログ」
作家の辺見庸氏は、私が信頼し、敬愛の念を抱いてきた、数少ない同時代人である。何より、小説がおもしろい。
現下のウクライーナ情勢で、辺見氏がどんな発言をしているのかが気になったのだ。
2004年1月25日、日比谷野音で開かれたWPN主催のイラク自衛隊派兵反対集会に参加した辺見氏は、『世界』にこう書いた(『抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか 閾下のファシズムを撃て』)。
「人数なんか少なくてもいい。せめても深い怒りの表現があればいい。それがない。地を踏む足に、もはや抜き差しならなくなった憤りというものがこもっていない。道は当然、揺れっこない。私は、しかし、道はいまこそ揺れるべきだ、揺するべきだと考えている。昔のように、というのではない。さらに大きな新しい弾性波を起こすべきなのだ。もちろん、懐旧でも憧憬でもなく、そう思う」
「こんなデモ(主催者は、デモの語感は不穏だとでもいうのか、ことさらに『パレード』と称していた)に加わったこと自体、軽率にすぎた気さえしてくる。なぜそんなに平穏、従順、健全、秩序、陽気、慈しみ、無抵抗を衒わなくてはならないのだ。犬が仰向いて柔らかな腹を見せて、絶対に抗いません、どうぞご自由にしてください、と表明しているようではないか」
このWPNは、「非暴力」を強調するあまり、辺見氏が指摘したとおり、権力に対する無抵抗を売り物にし、不当なデモ規制を行う機動隊に「警察のみなさん、ありがとう」などと主催者が一斉に唱和し、デモ規制に抗議した参加者に、集会で「ピースでない人たち」などと揶揄する発言を行った。
実行委員メンバーには、公安と会食を行っていた者たちもいた。WPNのどこがワールド・ピース・ナウだ、「ワールド・ポリス・ナウ」ではないかと、当時批判されたとおりである。
いま、あの辺見さんはどんな言説を展開しておられるのだろう?
「2022年04月13日
ウクライナの犬」
このタイトルに、「辺見庸、あなたまで……」と一瞬思ったが、ウクライーナの戦場を彷徨う野犬の話だった。 ロシア軍に殺された飼い主を待ち続ける犬も悲しければ、路上の屍体を喰らう犬もまた哀れである。
http://yo-hemmi.net/article/486429941.html
「2022年04月11日
プーチンVSオリバー・ストーン」
このOliver Stones :The Putin Interviewsが゙、おもしろいらしいのである。
2017年のこのロング・インタビューで、プーチンはオリバー・ストーン監督をぞっこん気に入り、オリバー・ストーンもプーチンに魅入られているようすだったとか。
プーチンはスターリニストである以上に敬虔なロシア正教徒なのだ、という。
http://yo-hemmi.net/article/486390704.html
このブログで紹介したかったのは、以下のエントリである。
「2022年03月14日
Article 9 of the Constitution
○で、9条を変えろというのか !?」
このエントリが無類におもしろいのだが、無断引用・転載は禁止とのことである。
しかもブログのどこにも連絡先が書かれていない。コメント欄もない。
版元気付でお願いの手紙を書いて、返信用はがき同封のうえ送ろうかと思ったけれど、めんどうなのでやめた。
たしかに、公共放送で陰部をさらすのはよくないよね(と、内容を曲解されるから……そうでもないか……、原文を引用させたほうがいいと思うよ?)。
あと、「チビ」だからどうしたのかとも思う。あの人については、「チビ」ではなく「こわっぱ」と喝破してほしかった。
http://yo-hemmi.net/article/486002143.html
と、いろいろおもしろいのだが、極めつけはこれである。
「 2022年03月10日
ドストエフスキーとプーチン」
http://yo-hemmi.net/article/485948944.html
辺見さんは、夜な夜なドストエフスキーを読んでいるという。
現代にドストエフスキーが生きていたら、プーチンを支持したのではないか。
私もそんな気がする。プーチンの側近には、ロシアの名誉が守られないのなら人類の絶滅も辞さないという、狂信的な民族主義者がいるそうだ。
ドストエフスキーと核兵器。これは最強(最凶)の取り合わせではないか。
こんな記事を読んだ。
現代ロシア作家に広がる「プーチン支持」 ドストエフスキー、トルストイの“文学大国”はどこへ
https://news.yahoo.co.jp/articles/a7864d00ce6bc72e686c0871ee8d79a7bfec17e1
5/9(月) 12:18配信
《ロシアの現代作家の間でプーチン支持が広がっている。スターリン礼賛や領土拡張の訴えなど、愛国主義的あるいは帝国主義的な主張が共感を呼び、人気作品を生んでいる》
と、辺見氏のご健在を確認したところで、Twitterで教えていただいたこんなネット記事を紹介したい。
「今はジャベリンだってぶっ放す覚悟だね」74歳の日本人元左翼闘士が、ウクライナ義勇軍に志願」
https://note.com/tanuki_ukraine/n/n6fadd22a6ec0
《白いひげを蓄え、温和な笑顔を絶やさない。キラキラした目の中には、しかし、確固たる意志が横たわる
土子文則(ツチコ フミノリ)、通称フミさん。御年74歳の日本人だ。
部隊章のついたウクライナ軍の軍服を着込み、毎日基地で働く。たまに外出すると、電車や町中で現地の人々から写真を撮らせてほしいとせがまれる。彼の朗らかな性格は、言葉の壁をやすやすと超えていく》
フォロワーさんが親しげに「フミさん」と呼んでいたから、「界隈」では有名な方なのだろうが、私は存じ上げなかった。
このnoteの筆者は、20代、30代の方だろうか。ご本人も書いているとおり、本やネットでしか左翼運動の昂揚期をご存知ないらしい(それは私も同じなのだが)。
《かつてソ連を理想とする左翼運動に身を投じた彼が、いまその継承国であるロシアを相手に戦っているというのは、なんという運命の悪戯だろうか》
「ソ連を理想」とした左翼が主流派だったのは、1950年代の共産党までだろう。フミさんは、明大闘争の昂揚期にブント周辺にいた方である。ブント(共産主義者同盟)は、ハンガリー革命の衝撃から、ソ連スターリニズム批判が結成の契機の一つになっているわけだから、「ソ連を理想とする」は誤りである。1960年代には、旧左翼の日本共産党でも、ソ連派は排除されている。
《ナショナリズムを否定してきたはずの彼は、まさにナショナリズムの体現に命を賭さんとしている》
というのも、表層的な理解だと思う。
われわれは、朝鮮・中国・アジアを侵略した日本帝国主義のナショナリズムは命がけで否定するけれど、日帝の植民地支配に抗して決起した3・1独立運動の朝鮮人民のナショナリズムは断固支持する。フミさんがロシアからのウクライーナ人民の祖国防衛戦争に身を投じたのも、同じ理由だろう。
第一、私は、ナショナリズムそのものが悪いとは思わない。強盗がナイフを持っていたら凶器だが、護身のためにナイフを構える被害者に何の罪があるだろうか?
左翼とは、搾取され差別され抑圧され虐げられた人びとと共にある、弱きを助け強きを挫く人間のことなのだ。
ここで、最初の同志重信逮捕の話に戻る。
《最終的に「自衛隊から機関銃を奪ってクーデターを起こす」と仲間が計画を話し始めたところで嫌気がさし、運動から離れた。彼と同じように、あまりの暴力性に幻滅して活動から離れた人々は多い
その後様々な仕事を渡り歩き、成功も失敗も経験しながら、還暦を迎えた。残りの人生をどう生きていくかを真剣に考え、「ナチスの強制収容所をすべて巡り記録する」というライフワークを思いつく》
明大闘争は、1968年6月の明大当局の学費値上げ決定に対する学生の抗議行動から始まる。この学生闘争は、駿河台、和泉、生田の全キャンパスで、バリケードストライキを貫徹する全学的な広がりをみせたが、卒業試験や入学試験の中止も危惧されるなか、学生指導部は当局と妥結の道をとり、1969年2月2日銀座東急ホテルで「暁の調印」と呼ばれる裏取引を行い、「紛争解決」となった。
しかし三派全学連には、中核派、解放派、共産主義者同盟(ブント)の学生組織である社会主義学生同盟の間のヘゲモニー闘争もあった。明大での組織温存を優先したこの政治的妥協の結果、中核派・解放派からこの裏切りを指弾された、明大ブントの斎藤委員長は辞任に追いやられ、後任に中核派から秋山勝行(横浜国立大学生)がついた。
明大ブントの名誉挽回のために記しておけば、この後奮闘した活動家の中には、よど号ハイジャック闘争の立案者の一人となった上原敦男(二部政経学部生)、東大解放講堂闘争・東大工学部列品館守備隊長・米田隆介(商学部生)、日本赤軍創設者の重信房子(二部文学部生)、連合赤軍山岳ベース事件の犠牲者・遠山美枝子(二部法学部生)らがいた。
フミさんが、同志重信や同志遠藤と面識があったかどうかわからないけれど、赤軍派に結集していった人たちと近い場所にいたようである。1969年6月に結成された赤軍派フラクションがさらぎ徳二ブント議長を襲撃したのも、同年7月明大和泉キャンパスのことだった。
《全共闘の頃は機関銃を持つなんてまっぴらだったけど、今はジャベリンだってぶっ放す覚悟だね》
私はフミさんのこのことばがよくわかる。
ただし、フミさんとは逆で、目標を達成するためなら最低限機関銃が必要な闘争なのに、それさえ用意できないセクトのお粗末さを知った、「成田空港突入・占拠・解体」闘争に際してである。
あのスローガンが突然舞い降りてきたのは、1985年7月21日の成田用水現地闘争のことであった。
先ごろお亡くりになった長谷川英憲さんを押し立てた杉並での都議選選挙闘争で敗北した直後だった。
成田(菱田)用水粉砕集会に向かう途中のバス内集会で、常任の幹部さんが、「これからは選挙闘争から空港占拠闘争だ」と突然言い出した。
「つまらんオヤジギャグ(という言葉は、当時まだなかったが)だなあ」と私は思っただけだった。
しかし集会場にたどり着くと、「10・20成田空港突入・占拠・解体」というスローガンを大書した幟が踊っている。
それはあまりに唐突であった。
われわれは集会場の隣の雑木林に続く斜面に張られた横断幕の日陰に寝転がり、タバコを吹かしながら、ぼやきあった。
「集会が終わったら、成田空港に突っ込むのかよ? 菱田からは結構あるぜ」
「武器もなしでどうすんだよ?」
「しかし空港突入まではいいが、占拠して解体するためには、当然、自衛隊か海兵隊と交戦になる。重火器も地対空ミサイルも要るぞ。『サンダーボルト作戦』は見たか?」
「見た。ドイツ赤軍の同志諸君のエンデペ空港闘争の敗北の教訓を踏まえるなら、地対空ミサイルが必要だ」
「政治局はブントあがりのくせに、ハガチー事件でハガディーを救出したのが米帝海兵隊だったことを忘れたのかね」
「やはり政治局はアホだな」
声が大きかったのだろう。「おまえら何さぼっている。降りてきて集会に参加しろ」と幹部に怒られた(それは毎度のことであった)。
機動隊装甲車奪取という誰もが予想しなかった「戦果」を7・21戦闘のことは、また別の機会に書くこともあるかもしれない。
10・20の丸太に火炎瓶に鉄パイプという原始的な武装に、「北京原人かよ」とわれわれはぼやいたものだ。本当にやる気があったのか。10・20戦闘も11・29浅草橋戦闘も、労組委員長を含む公然組織の要となる人をはじめ、有為の人びとをむやみに獄中に放り込み、労働戦線や学生戦線、各戦線での後退を招いただけであった。
しかし同志永田を獄中で死なせてしまったのは今も慚愧に堪えないけれど、同志重信を生きて奪還できたのは何よりである
ささやかな祝杯をあげる。
れんちゃん、おそばおいしかったね!
元ノラ猫タマの飼主です。
何日か前、コメント欄に書かせて頂きました。この場合、読者側からのコメントは表示されるのでしょうか。teacup時代の記事には定期的に目を通させてもらっていたのですが。コメントがブログに反映されるのかどうかよくわからないので教えて頂けたら幸いです。
これからもよろしく。
数日前のコメントはこちらの履歴には残っておらず、今回のコメントが初めての履歴になっています。何が起きているんでしょうね。
このブログの主人は、飼い主さんのお相手をするのが辛くなった時期がありました。Aというテーマついてサラリと触れたかっただけなのに、文中にあった副次的なBやCについてコメントを寄せられ、その対応に疲れてしまったのです
その後、脳梗塞で入院もして、麻痺も残り、当時よりちゃんと対応しきれない面もあるかと思いますが、なんとか元気です。
こちらこそ、今後ともどうぞよろしくお願いします。
貴重なお時間なのにこちらの乱暴な態度ゆえ傷つけてしまっていたようです。まことに恐縮いたします。ごめんなさい。
>重信房子
>永田洋子
このお二人を並列的に述べることは決してできないと思っています。そもそも論になってしまいますが、赤軍派はどこから発生したかという事情を踏まえてコメント投稿させてもらったのでした。赤軍派の旗揚げ組(大菩薩峠派)の人々から聞いた話がちょっと面白いかなと思ってのことです。重信・永田両名を学生時代から知っている人々の証言なので。
>今はジャベリンだってぶっ放す覚悟だね
そういう人々は一九八〇年代後半一杯を通して大学(関西大学)教授の中にもおられました。もはや故人です。
>辺見さんは、夜な夜なドストエフスキーを読んでいる
六〇年安保闘争国会突入でデモ指揮をやった西部邁も獄中でドストエフスキー(全集)を読んでいたと「朝日ジャーナル」で見ました。ただ、西部邁の場合、ドストエフスキーだけでなく夏目漱石(全集)も読んでいたようですね。その中で西部邁は「スタヴローギン」の気持ちがとてもよくわかると述べています。
傷ついたというまでではなかったような。もう少し大人になれたら、いんふるえんさーにもなれたかな? でも、そういうのに興味なかったので。
私もぞんぞいな対応をお詫びします。
また弊ブログを再訪していただき、こころより嬉しく思います。
>重信房子
>永田洋子
>このお二人を並列的に述べることは決してできないと思っています。
おっしゃりたいことはよくわかります。私もかつてそう思っていましたから。
優先順位は低いのですが、いずれ何かまたエントリを立てるかもしれません。
そのときまた批判してください。