「大阪の橋」から、大阪ばなしが続いている。二、三回のつもりだったが、話があちこち飛んでしまった。これも「大坂幕府構想」のインパクトが大きい。大久保利通の「難波遷都論」は知っていたが、まさか家康がそんなことを考えていたなんて。長生きはするものだ。
大坂冬の陣に先立つ近畿圏の築城ラッシュも、今までとは違う見方もできるようになるかもしれない。なぜわざわざ丹波亀山や篠山に城を造るのか。そこまでしなくても、楽に勝てそうなのに? それが豊臣滅亡後の「首都」大坂の防衛ラインをめざしたものであったと考えれば、納得もいく。そして、この戦いは、徳川にとって絶対に負けられない戦いだった。関ヶ原の敗者やキリシタンたちが、一発逆転をめざして大坂に結集したのも、それが家康にとっても危険な「賭け」であったことを知っていたからだろう。徳川の優勢は揺るがなかったが、家康は「寿命」という爆弾を抱えていた。
難波宮のむかしから、この地を「都」にすることは、「改革」を旗印にする権力者のちゃぶ台返しのような悪あがきだったのかもしれない。清盛の福原遷都=「摂津都構想」も、神戸や阪神間の住民の顰蹙を買った「広域大阪都構想」の如きものであったのだろう。
前期難波宮について、ちょっと書きたいことがあったのだけれど、今日はいろいろあって疲れた。またあした。しかし、「なにわのみや」って、「のみや」(飲み屋/ノミ屋)が入っているところが、大阪らしいよな。
篠山城址。天守閣は築かれなかったが、天守台の規模は二条城並みだという。