「おい、ナンバギュウって知っているか」
入院中、見舞いにきた愚父に、そんなことを聞かれた。
「難波牛? 和牛の新しいブランドかな」
「ギュウじゃねえ。宮殿のキュウだ」
「ああ、難波宮(なにわのみや)か」
「大阪にも都なんかがあったんだな。知らなかったぜ」
愚父はしきりに感心していた。高額療養費の申請でお世話になった総務のMくんと待ち合わせたとき、道に迷い、うろうろしているうちに、偶然、「史跡 難波宮跡」の石碑を見かけたらしい。そういえば、大阪に移って間もない頃、私も「ナンバキュウ」と読んで人にたしなめられた。しかし、古代史ファンでもない限り、難波宮の認知度はそう高くない。
難波宮は、前期と後期の二回に分かれる。以下は、自分自身のための備忘録だ。
いわゆる大化の改新(645年)の後、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。これが前期難波宮である。
しかし、この前期難波宮は短命だった。孝徳天皇を置き去りにして、政権の実権者である皇祖母尊(すめみおやのみこと・皇極天皇)、中大兄皇子らは、すぐに元の飛鳥に戻ってしまう。孝徳天皇と皇極天皇は、きょうだい(同母姉弟)であり、婿と姑(娘の間人皇女の夫)でもあるという、非常に複雑な関係である。前期難波宮の遷都と廃都のゴタゴタは、里中満智子の『天上の虹』に詳しい。
654年、孝徳天皇が没すると、翌年2月に、皇母尊は飛鳥板蓋宮で再び即位し、斉明天皇となる。史上はじめての重祚(じゅうそ)だった。この時点では、宙ぶらりんの状態でも、難波宮そのものは残っていた。壬申の乱(672年)で勝利を収めた天武天皇は683年、複都制の詔(みことのり)により、飛鳥とともに難波を都とした。しかし、朱鳥元年(686年)正月に難波宮は全焼してしまった。放火だといわれている。
しかし難波宮が焼失したといっても、難波は半島や大陸の玄関口であり、何らかの政庁か施設は置かれ続けたのだろう。奈良時代、神亀3年(726年)、聖武天皇は難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。これが後期難波宮である。
「さまよえる天皇」ともいうべき聖武は、遷都を繰り返し、さらに大仏や国分寺の建立で人民に犠牲を強いた、まさに「暗愚の帝王」であった。神亀元年(724年)に即位した聖武は、天平12年(740年)、平城京から恭仁京(くにきょう・京都府木津川)に遷都したが、天平16年(744年)には、難波京に再遷都する。しかし、翌天平17年には、難波京から紫香楽宮(しがらきのみや・滋賀県甲府市信楽)に遷都する。しかし同年5月には、再び平城京に戻ることになる。
749年、聖武はむすめの孝謙天皇に譲位し、756年に没する。孝謙天皇は一度退位した後、重祚して称徳天皇となるが、彼女が天武系(大海人皇子)の最後の天皇になった。現在に至るまで、その後の天皇は天智系(中大兄皇子)である。歴史は常に「勝者の歴史」だから、聖武が暗愚というのも、その後の歴史家のバイアスが入っているかもしれない。
この後期難波宮の大極殿は、大阪歴史博物館に再現されている。しかしこの大極殿などの建造物は、延暦3年(784年)、桓武天皇が長岡京(京都府長岡市)に遷都した際、すべて長岡京に移築されたという。
難波宮の存在は、『日本書紀』には載っていたが、所在地は長く不明だった。その実在が明るみに出るには、「日本のシュリーマン」ともいわれる山根徳太郎による、戦後の発掘作業まで待たねばならなかった。
前期難波宮は、建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺(くさぶき)屋根であったと考えられている。この草葺屋根の建物は、難波宮の跡地に立つ、大阪歴史博物館の広場に再現されている。
「大阪にも、都があったのねえ」
「あのわらぶき屋根のね。でも、1個だけだし、たいしたことなかったんじゃない?」
歴史博物館の展覧会を訪ねたとき、エレベーターで一緒になった女性客二人が、そんな会話をしていた。
建物のレプリカが1個しかないから、難波宮にも建物が1個しかなかったとでも思ったらしい。さすがにそんなことはない。地下ギャラリーに行けば、たくさんの建物の柱の跡や塀の跡、水利施設などの遺構の一部を見ることができる。しかし、まあ、大阪に暮らしていても、その程度の認識なのだろう。
ふと思う。「大化の改新」とよばれる古代の「改革政治」は、この前期難波宮でおこなわれたものだ。大阪は、その歴史の始まりから、「都」と「改革」が大好きな連中の権力抗争の場であった。しかし、難波宮の歴史は短命だった。明日に続く。