前回のブログでほろりさんから、ものみの塔 2009年11月15日号の第一研究記事 6ページ 19節についてコメントがありました。
その節では、集会で祈るときに夫婦が手をつないだり抱き合うことは慎むように、あります。
日本ではあまりこういった光景は見られませんが、僕がアメリカに滞在していたときはホストペアレンツは家の食事前はもちろん、王国会館での祈りでも手をつないでいました。
向こうではそれが当たり前の光景だったので、手をつなぐ理由を聞いたことはありませんが、単なる習慣かもしれないですし、意味があるとしたらお互い夫婦で神に近づこうとか、お互い信仰を深めようとか、そういう気持ちの表れだと思います。
それを「エホバに対する恭しい気持ちを抱くよりも,自分たちのロマンチックな関係に心を向けている」とか「集中できない」「当惑する」「つまずく」などと感じるとしたら、それはひがみか心が貧しいのでしょう。
愛の神に愛を持って近づいて何が悪いのでしょうか。
そもそも祈りの時は目を閉じるものです。
そういうことでつまずくのなら早めに目を閉じたり、一番前の席に座るべきではないでしょうか。(協会は一番前の席から座るよう勧めている)
ある人は、もしかしたら生活上の問題で悩んでおり、祈りの間に夫の支えが必要かもしれません。
こうした些細な習慣を「慎むべき」といちいち研究記事にするのはどうかと思います。
記事として取り上げていただいてありがとうございます。
協会のオススメは、一番前の席から、ですか。
一番前ががら空きのときもあるのに。笑
夫婦は一体となる、と神が規定しているのに、一体の二人が祈りの際手をつなぐことで他の人をつまづかせるなんてこと神も思っていないと思うんですけど。
この記事によって今後夫婦で手をつなぐことがきっと非難されたりするのでしょうか。
どんどん形式的に、そしてパリサイ人のようになっていって、行き着くところは楽園・・・
“公の祈りがささげられている時に、そっと手をつなぐ夫婦もいるかもしれませんが、もし抱き合うとしたら、それを目にした人はつまずくかもしれません。”
とあったので、手をつなぐ夫婦は特に問題なくて、祈りの最中に抱き合う夫婦が問題と言うことと思っていました。
海外でも、最近の若い夫婦でも、手をつないでますから、微笑ましいと思って見ているのです。
水に入るのはよくないというのもありましたね。
まあ、この記事は、手をつなぐな。ではないですよね。
とはいえ、基本的に祈りの時は目をつぶるものなのに、その最中のことを言うのは変な話だよなあ。
ちゃんと目をつぶっていれば、躓くこともないのに。
初めて知りました!!
手を繋ぐて。。。
私の家族は基本的に前に座ってますよ^^
前の会衆でも前ががら空きだったんで!
こないだ前の会衆の方から電話で
「前が寂しいですょー」
て言われました^^
どうしてそこまで入り込むのでしょうね。
『偽善的な握手はやめましょう』と言えば、大会中の『余分な』握手がかなり減るでしょうに。
などと、言えばどうなるのだろう?
所詮、人の勝手なのだ。組織は、どんな質問にも答えられるとか、答えねばならないなどと考えているのだろう。あるいは、祈りの最中に他人と手を組むかどうかについては何とか答えられそうな気がしたので、そういう指針をねつ造したとか、、、