これは、「日の丸」のピンバッジです。 先日、霧島からの帰りに鹿児島市の仙巌園(磯庭園)に立ち寄り、
隣接する、尚古集成館で買い求めたものです。
このような話題は、本来「タブー」なのでしょうが、史実として紹介します。
わたくし、偏った思想の持ち主ではありませんので、誤解無きようお願いします。
日の丸は太陽をデザイン化したもので、古くからいろいろな場所で使用されていました。
その日の丸が、日本の国旗となったのは、幕末の薩摩藩主 島津斉彬(篤姫の養父)が、
日の丸を日本の総船印にしてはどうかと提案したのがきっかけでした。
嘉永4年(1851)、薩摩藩主に就任した斉彬(なりあきら)は、西欧列強のアジア進出に
危機感を抱いていました。このままでは日本も植民地にされてしまうと考えた斉彬は、
西欧の科学技術を導入して近代化事業を興しました。それが集成館事業です。
集成館事業の中で最も力を注いだのが大海原を自由に航海できる洋式船の建造でした。
外見だけでは日本の船か外国の船か判別することが困難になるため、日本の船であることを
示す旗が必要であると考え、日の丸がそれにふさわしいと思ったのです。
嘉永6年、斉彬は白地に朱丸一つの日の丸を日本の総船印にしてはと幕府に提案しました。
幕府もその必要性を認め、翌安政元年(1854)日の丸を日本の総船印と定めました。
そして、万延元年(1860)、これを国旗に昇格させたのです。
隣接する、尚古集成館で買い求めたものです。
このような話題は、本来「タブー」なのでしょうが、史実として紹介します。
わたくし、偏った思想の持ち主ではありませんので、誤解無きようお願いします。
日の丸は太陽をデザイン化したもので、古くからいろいろな場所で使用されていました。
その日の丸が、日本の国旗となったのは、幕末の薩摩藩主 島津斉彬(篤姫の養父)が、
日の丸を日本の総船印にしてはどうかと提案したのがきっかけでした。
嘉永4年(1851)、薩摩藩主に就任した斉彬(なりあきら)は、西欧列強のアジア進出に
危機感を抱いていました。このままでは日本も植民地にされてしまうと考えた斉彬は、
西欧の科学技術を導入して近代化事業を興しました。それが集成館事業です。
集成館事業の中で最も力を注いだのが大海原を自由に航海できる洋式船の建造でした。
外見だけでは日本の船か外国の船か判別することが困難になるため、日本の船であることを
示す旗が必要であると考え、日の丸がそれにふさわしいと思ったのです。
嘉永6年、斉彬は白地に朱丸一つの日の丸を日本の総船印にしてはと幕府に提案しました。
幕府もその必要性を認め、翌安政元年(1854)日の丸を日本の総船印と定めました。
そして、万延元年(1860)、これを国旗に昇格させたのです。