このブログ142号に掲載した「創業62年のバー」のマスターご夫婦のことが気がかりだ。今、この店のある繁華街は、時短要請の中で街が死んだようになっている。私は、店の常連でもマスターと親しい間柄でもない。マスターの作るハイボールの旨さと店の雰囲気、そしてバーテンダー一筋の生き様に感銘を受けた多くの客の一人だと思っている。
昨年11月に久しぶりに訪れた際、マスターはいつものように淡々とお酒を作っておられた。奥様は人懐っこい笑顔で接客しておられた。ただ、その日マスターは、手が空くと時々店の片隅の椅子に座り込んでいた。お歳のせいか、少し疲れた様子も見えた。春になって、そろそろお元気なうちに行こうと思っているうちに、世間の状況が変わり行けなくなった。
店を閉めて、どうしているのだろう。仕事が生きがいのように見えるマスターと、長年連れ添ってきた奥様。夫唱婦随で客の憩いと社交の場を守り続けてこられたお二人だから、常連さんらの応援もあって、きっと店を再開されると思う。バーテンダー人生の引き際をこんな状況の中で迎えるようなことにはならないでほしいと、勝手ながら願っている。
最近、「医療には人の命がかかっている、経済には人の首がつながっている。」という、ある元官僚・医師の言葉が胸に響いた。
政治家、自治体や医療のリーダーやトップら、一部メディアは、「命を守ることが最優先」という当たり前のことを今さらながらに唱えるのもいいが、それなら守るべき命の重さは平等であることをどう考えているのか「お示し」してもらいたい。穿ち過ぎだと思うが、誰もが反対できない大義名分の裏には、独善や私利私欲や何か不都合な事が隠されているのではないかとさえ感じる。皺寄せを受けている人たちからは、守られた世界で傷つくことのない者たちが、現場の声も聞かずに一方的に不利益を押し付けているという恨み節も聞こえてきそうだ。
有事にすべての人が納得する施策を打つことはまず無理だろう。優先順位や最大公約数を求める中で、どこかに皺寄せや犠牲が生じるのはやむを得ないことかもしれない。それでも、今度こそ緊急時の医療キャパシティーを増強する対策、金を配るだけではない血の通った具体的方策、バランス感覚のある冷静な報道。国民や住民に負担や不自由を要請するなら、要請する側こそがこれらを命懸けで追求しないと、地域社会や国が弱って行く。事態は自然とおさまって行くかもしれないが、そうして喉元過ぎて熱さ忘れては、今の二の舞い三の舞いだ。弱い立場の人の心はますます傷んで行く。
それにしてもあの店のマスター夫婦はどうしているのだろう。残りそう長くはないであろう人生の生きがいを奪われるようなこの状況の中で・・・。
他にも気がかりな店はある。きちんと対策をして、まじめにがんばって仕事をしていたのにこんなことになって。仕方ないと割り切っているのだろうか。心折れていないだろうか。どんな思いでいるのだろうか。案外したたかに密かにやり過ごしているのだろうか・・・。
早く店に行って心置きなく飲み、うまいものを食べ、楽しく人と話したい。そんな健全な心や行動が、少しでもまた店を元気づける力になればと切に願うこの頃だ。