女性は、そっと箸をそろえて置くと、軽く手を合わせて頭を少し前に傾けて「ごちそうさま」とつぶやきました。その女性の服装から、出張で県外からやって来て、仕事の帰りにこの小さな居酒屋のカウンターで夕食をとっている様子でしたた。そして、食べ終わった皿を手に取り興味深げに見ていました。耳に入って来た店主との短い会話から、おととしまでは出張のたびにこの店に来ていたようでした。「久しぶりにお魚、おいしかったです。お皿も素敵ですね。」「ありがとうございます。」店主は両手で代金を受け取りながら、マスクの上の目が嬉しそうでした。
その女性から一席あけて向こう側には、70代くらいのご高齢のご夫婦が並んでいました。「久しぶりに街に出たよ。まだ、人は少ないね。大将は元気だった?」「ええ、おかげさまで。仕事休んでたんで、ちょっと太りましたけど。」店主との会話から、月に一度はご夫婦で食事に出ているようで、この店も行きつけの一つのようでした。「今日は、この人の慰労会よ。何かうまいもん適当に出して。」奥様が隣で静かに笑っていました。そして、短い“慰労会”が終わると、「ごちそうさん、お会計して。」「ごちそうさま。」「あっ、いつもありがとうございます。」マスク越しに店主の声が響きました。高齢のご夫婦よりずっと若い店主の方が、元気づけられたように見えました。
私は久しぶりにこんな何気ないやり取りを見ていて、お気に入りの冷酒を飲みながら温かい気持ちになりました。
「ごちそうさま」という食後のあいさつは、漢字で「御馳走様」と書きます。この「馳走」(ちそう)という文字には、次のような意味があるそうです。昔、客人をもてなすには、多くの人が走り回って食材を集めて料理を作ったことを表しているのです。そのような手間をかけて食事を準備してくれた人々への感謝の気持ちを込めて、食後に「ごちそうさま」とあいさつする習慣ができたのだそうです。
今では、物流、加工、保存法なども発達していますから、新鮮な食材を簡単に十分に手に入れることはできます。それでも、この店主は安くて良質な食材を仕入れに、毎日市場へ行きます。早い時間から仕込みをして、料理を切り盛りして、お酒を出し、客をもてなす。客が帰ると片付ける。こういう仕事を何十年も続けています。そして、この店には、市場、生産者、加工業者、卸し業者など、様々な仕事の人との長いお付き合いがあります。このささやかな日々の営みも、人の支えがあればこそ続けて行けるものなのでしょう。
職場においても、仕事を手伝ってくれる人や教えてくれる人、取引先や出入り業者など、様々な関わりがあります。その中には、何かあたりまえにしてもらっていることもあるでしょう。持ちつ持たれつ、お互い様かもしれません。
ただ、誰かに何かをしてもらう時には、自分が思っている以上に頼んだ相手やその周りの人にも手間をかけているかもしれないという想いを忘れないようにしたいものです。見えないところで誰かが、その頼んだ人を通じて自分のために動いてくれていることもあるかもしれないのです。
だからこそ、誰に対してもいい人になれという訳ではありませんが、普段から何気ない会話や気づかいやあいさつで、かかわりのある人に感謝やねぎらいの気持ちを表すよう心がけたいものです。そうすると、職場の人間関係や仕事の味わいも変わってくるかもしれません。