Kaさん。60代後半の男性。時々行く日帰り温泉施設でたまに会う。先日、半年ぶりくらいに湯舟で会った。湯気でよく見えなかったのだが、白髪筋で肉質の男性が軽く右手を挙げて「おっ、久しぶり」と声をかけてくれ、湯船に入ってきた。少し離れたところに体を沈め、すぐに目を閉じた。私も目を閉じてしばらくすると、いつの間にか先に出ていた。Kaさんは、確か7,8年前に、設備工事関係の会社を定年退職し、再就職のために職業訓練を受けに来られていた時に、私がその訓練生の就職支援を担当していたことから知り合った方だ。それ以来、会うこともなかったのだが、数年前にソバ屋で偶然声をかけられて以来、時々温泉施設で会う程度だ。風呂の中ではマスクをしないので、今はお互いに気を使って、あいさつ程度で会話はしない。
Naさん。来年から後期高齢者。首都圏在住。サラリーマン時代に世話になった取引先の社長。長く掛けている保険に関しておよそ30年ぶりに電話がかかってきた。声も話し方も変わっていなかった。当時は、気性が激しい面もあったが、いつも前へ前へと、上へ上へと向かおうとされていた記憶がある。かと言って、決して順風満帆だったわけでなく、いろいろな衝突や挫折もあったように思う。ただ、一つ言えることは、今も仕事をしているということだ。そして、Naさんは、いまも勉強してチャレンジしようとしている仕事の話を、あの頃と同じような口ぶりで話してくれた。まさにリカレントだ。そして、「私に言わせりゃ、60、70歳なんて小僧だよ」と喝破して笑った。あの頃の生き方を今も貫いているのかと思うと、胸が熱くなった。
Kuさん。身近なところの後期高齢者の知人Kuさん。大手企業を定年退職した後も、自力で再就職先を次々と見つけ出し、一昨年まで働いていた。そこを辞めるときには、もう仕事は疲れたからしないといって、たまに会うと認知症予防パズルの話などを聞かされたものだった。ところが、最近になって家にいても暇だからと再就職先を探し始め、今度私が講師をする再就職支援のセミナーにも参加されるという。仕事が見つかるかどうかわからないが、それでも何かできる仕事を探そうという心意気には敬服する。
他にも、おととしこちらに遊びに来られた大都市圏に住む古希を過ぎたMiさん。(当ブログ109.再会)大変な時期なのに、年賀状には「お元気ですか?また行きます。」とひとこと書き。一回り以上も年下の私に、離れて何年たってもこの気遣いだから、若いころは結構モテた。
Moさんは、60代後半で小さなシステム関係の会社を経営されながら、日本各地を飛び回っておられる。それだけでなく、四国八十八か所巡礼ももう何週も繰り返し、もうすぐ「先達」の資格が得られるそうだ。服装には嫌みのないおしゃれ感がある。
私の年齢で、キャリア支援や研修講師などの現場で仕事をしていると、自分より年下のスタッフや関係者と協働したり連携したりすることが多い。だが、最近、時節柄「特に高齢者に配慮を」と言われていることに、どこか違和感を感じることがあるのは、周囲に元気なシニアが少なくないと感じていたからだろうと思う。確かに、医療・介護や福祉の支えや、自立した生活や経済面での配慮が必要な高齢者は今後も増えるだろうが、「配慮」という点では相手の年齢は本来関係ないはずだ。シニアに「高齢者」というレッテル貼りをして、配慮が遠慮になったり、敬意が敬遠になったりしては、時代の流れに逆行するのではないか。社会が息苦しくなるだけではないかと思う。
人生の先輩方の中にもいろいろな人がいて、様々な生き方をされている。元気なシニアでも、同じ人間である以上、個人差はあれ誰も老いには逆らえない。若い頃にできたことでも、できなくなることもある。ミスや時間がかかることも増えるだろう。最近のニュースを見て感じたことだが、仮に相手が社会的地位があって嫌いなタイプの高齢者だとしても、本人の悪意や故意がない一部の失言や態度を敵意を持って非難したり、その人格や人生までも容赦なく否定したりするようなことを、それが正義であるかのように振る舞うのはやり過ぎで、誰も何も得るものはない。おそらく、そういうことをする人物の方が、いずれ「迷惑老人」とか「勘違い人間」と批判されるべきはないか。
「多様性」という言葉が注目されつつある現在、高齢者が社会のマイノリティーだった時代は終わっている。日本の高齢化率(65歳以上)は、約28%。地方では3人に一人以上が高齢者という現実もある。サザエさんが生まれた時代、磯野波平は54歳という設定らしいが、現在、54歳で波平のようなキャラクターやイメージ人はどのくらいいるのだろうか。
上記の私の周りの人生の先輩方は、今は昔の肩書や地位がなくても、失礼な言い方だが、世間周知の功成り名を遂げたと言われなくても、地に足つけて自分の人生を生きている市井の人々だと思う。皆に共通しているのは、ご苦労を乗り越えられたこと、そして年を重ねることで他者に寛容になったことではないかと思う。お顔にそう書いてある、声にそれがしみ込んで
いるような気がする。