阿太加夜奴志多岐喜比賣と和加布都努志命 – 古代史俯瞰 by tokyoblog (tokyox.sakura.ne.jp)
高野宮
古来、別格扱いのお宮で、杵築や佐陀の支配を受けず、江戸時代には、国内の四祈願所(杵築、日御碕、佐陀、当社)の一つであった
和加布都努志命は、大国主の子であり、出雲国風土記、秋鹿郡大野郷の由来に、
「和加布都努志命が、御狩をなさった時に、郷の西の山に、待ち伏せの人を立てられて、猪を追って北の方にお上りになったところ、阿内谷にくると、その猪の足跡がなくなってしまった。その時、おっしゃったことには、「自然に消えたのだなあ。猪の足跡がウス(なくなった)」と仰せられた。だから、内野という。ところが今の人がやはり誤って大野と言っているだけのことである」とある。また、出雲郡美談郷では、「この世をお造りになった大神の御子、和加布都努志の命が、天と地が初めて分かれた後、高天原の御領地の田を管理する長として、ご奉仕になった。その神が郷の中に鎮座しておられる。だからミタ(御田)をミル(見る)意で三太三という」
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延喜式:内神社
主祭神:和加布都努志命、下照姫命
阿太加夜奴志多岐喜比賣を祀る高野宮
内神社は本村大字大垣にあり。式内の古社にして、出雲国風土記に宇知社と見え、延喜式神名帳には、秋鹿郡十座(並小)内神社と見える。和加布都努志能命及び下照媛命を奉祀せり・・・
御鎮座:当社は風土記に所謂、女嵩野山の山腹にありて、天下造らしし大国主神の御子、和加布都努志命のこの山にて御狩したまへりし、御由緒に拠りて鎮座したまへり。
又、同じ大神の御子高姫命(亦名下照比売亦名雅国玉神亦名阿太加夜奴志多岐喜比賣亦名大倉比売)は素よりこの山に座し、神なるが故に、同じく当社に祀れるなり。
亦この神が座せる故に、古来女嵩野の山塊を総称して、別に高野山あるいは芦高(アタカ)山と呼び、随いて、当社を高野宮または、蘆高宮(八束郡出雲郷村阿陀加夜神社は即ち、阿太加夜奴志多岐喜比賣に座し、明治維新まで蘆高大明神と称せり)よも称し奉る。
島根県秋鹿村誌
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- 続々☆歴史の中の「経緯」(9)
- 続☆歴史の中の「経緯」(105)
- 歴史の中の「経緯」(75)
- 出雲大社の千木(5)
自分でも 探すのがむつかしくなっているのですが
これらの記事から引き出してきた事々と
今回の事々を合わせてみたら
なんとか、整理がつきそうな気がしてきました。
荒唐無稽は 相変わらずですが
こういう(どういう?)視覚もあるかな?と、いう感じで
読んでもらえたら 幸いです。
次回・・まとめてみたいと思います。
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