ぽつぽつと書いていた川端同心の物語は
現在、37000文字くらいになっており、
ここでは、一挙に掲載できないのと、
どうも、依頼機器受付後
まったくのわたくしごとすぎて、
つづきをかくのを遠慮してしまったのですが・・・
その後、冠水やら母上の白内障手術やら
他、いろいろ、あり
ここでは、続きを書いていられないなあと
FC2の方に3つくらいに分けて
掲載したのですが
なんのことはない・・・
こちらで、過去記事の中にも
重要なポイントがあると、再掲載を繰り返したり
追記を入れたり
訂正を入れたり
ま、そんなんで、結局、続きを書いていないのですが・・・
そういえば、何文字かいているのだろうとみてみますと
38727文字・・・
う~~ん
あと1万文字くらいで終われるかなあ
などと、みていますと
最後の方
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だとすると、お松の腹の子は疋田の種だったのか?
疋田の本当は判らないが
お松が孕んでいたことを知らせるのは
いずれにしろ、むごくあり
その事実を告げながら
疋田がてて親であるのかもしれないと、
疋田の顔に、浮かび上がる真偽を見つめる自分になる。
それは、川端にとって、
疋田を信じてない自分であるという事実を自分に突きつけてしまう。
―所詮 疑ってみているに過ぎない―
何が罪を裁くでない。人を裁くでない。心の在りようを裁く?
端から、猜疑の目をむけてしまう己でしかない、その心の在りようこそ裁かれるものだろう。
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罪を裁くでない。人を裁くでない。心の在りようを裁く
この言葉ですね。
で、少し、ふれたところはあるのですが・・・
代理の中で、まだ、書いていない部分があるのです。
それが、心の在りようを裁く‥という部分です。
記事は
冷たい言い方かもしれないが
しでかしたことは自分に返ってくる。
と、いう
法則をまのあたりにみせてもらったのだと
それを、ラーニングして
自分に活かすことのほうが、大事なのではないだろうか?
と、外側にふれていますが
実際のところ、
死刑に反対にせよ。
死刑に賛成にせよ。
その理由をあれこれ読むと、
代理が考えていることとは違うところがあります。
賛成している方の多くは
しでかしたことをちゃんと清算すべき
とか
死刑囚を活かしておくために
どれだけ多くの税金が使われるか
社会に貢献しないものになぜ血税を使うのだ・・・
ましてや、死刑にすべきだと考えているのに・・・
と、いうような思いもあるかと思う。
反対の人は、罪より命の方が重い・・
とか
悔い改めよ、さらば、開かれん
とか
あるいは、もっとひどいかもしれないが
生きて苦しめ・・みたいな?
まあ・・・よくわからないのだが・・・
代理は自分が裁判官ではないので
ああしろ、こうしろ という判断を持たないようにしているが
ある意味、
ああしろ、こうしろという判断をもつというのも
オウムがサリンをまかなければいけない・・と好き勝手に判断したのと同じではないかとおもってしまう。
司法の判断に委ねるしかない。と、代理は考えている。
その中でコメントに少し書いたのだけど
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罪を償う・・・と、いう言葉に対してです。
言葉の意味合いですが・・・
しでかしたことを償うことは、ほぼ不可能でしょう。
被害者に対しても、償うことはできないと思います。
ただ、犯人たちができることは、
罪を贖う。
辞書を引くと償うと同じ意味合いになるのですが
代理の記事で言えば
自分のしでかしたことの帳尻をつけることしかできない。と、考えます。
あるいは、それ(死刑)で、救われるのは犯人たちであるとするなら(贖罪的な考え方ですが)
人間の尊厳として考えるのなら(命の尊厳ではなく)死刑は大きな慈悲であるという見方もできます。
被害者の方々、また、遺族の方々
理不尽としか言いようのない事件ではあったと思いますが、犯人を憎み、恨むというような心の地獄に苦しまれることのないことを祈っています。
亡くなった方々もまた、残された遺族の方の心の平穏を願っているのではないかと思います。
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この中の言葉
あるいは、それ(死刑)で、救われるのは犯人たちであるとするなら(贖罪的な考え方ですが)
人間の尊厳として考えるのなら(命の尊厳ではなく)死刑は大きな慈悲であるという見方もできます。
その意味合いについては
もしかしたら、代理の後ろ側の考えを書かなければ、見えないところがあると思っています。
あるいは、それ(死刑)で、救われるのは犯人たちであるとするなら・・の部分で
犯人を救うのが死刑?
ならば、死刑にするのは反対だなあと思われた方もいらっしゃるのではないかと思います。
より、以前に死刑でなぜ、犯人が救われるか
と、いうことを、代理が書いていません。
非常に宗教的な考え方だと思います。
この世の「業・罪」を今生で清算しなければ
そのつけは、来世で払わされます。
つまり、来世で死刑?(清算)になるような
罪を侵すわけです。
今生で死刑になることで
来世で正しく生きられるとなるならば
今生で死刑になる方が本人も救われるし
来世での繰り返しで被害者が出てくることも防げる。
二重の意味で死刑(清算)で救われる。
と、いうような
来世とか前世とか業・宿業というものがあるという考え方をしているのです。
これは、個人の観念であり、思想?であり、真実であるわけですが
あくまでも、個人のものでしかなく
ひと様が同じように考えているものではなく
(あるいは ひと様が同じように考えている場合もあるかもしれず)
その方の観念によって
どのようにうけとめられても、こちらが口をはさんで
こういうことなのよ。
と、いう筋合いではないので、詳しくは説明しなかったものです。
怪談になりますが、
霊能力者さんのブログを覗くと
幽霊の多くは「この世に思いを残しているため上がれないのだ」と書いています。
代理、この言葉も信じています。
生きている人間が良いことをするにしろ、「思い」がエネルギーになるわけですから
死んだ人が思いを残してしまっていたら、思いが重くて、上がれないだろうとおもいます。
実は、この世に生きていて
一番、厄介なのは「思いの在り方」なのだと思うのです。
そこで最初に戻りますが
死刑、賛成。お前らも同じ目に合えばいいんだ。
と、いう思いは
いわば、「呪い」になるわけです。
人を呪わば穴2つ と、言う言葉がありますが
この「呪い」は自分に返ってくるという意味です。
いやな言い方ですが、
被害者でもない人が
裁きができる人でもない人が
「呪う」わけですから、
そのエネルギーはどこにたどりつくでしょう?
こういう自分には無関係(申し訳ない言い方ですが)なことに
いらぬ思いをわかして、自分も「業」を持ってしまうことを
「被り」といいます。
当事者じやない人間は
被害者が苦しい思いで例えば上に上がれないようにならないように
安らかに・・と祈るしかなく
被害者の遺族の方々には、慰める言葉すらかけられないと思いますが
憎しみや恨みなどの思いをもって苦しんでしまったら
他でもない、亡くなった方が一番つらいと思うのです。
それこそ、心配で・・あがれない・・って。
そして、犯人にたいして
死刑になって、ざまあみろみたいな思いでなく
これで来世は同じことを繰り返さないで済む
もしかして、また繰り返しで、自分の亡くなった家族が
生まれ変わって、また被害にあうかもしれないところ(因縁)を防げた。
と、いう「元のところ」で良しでうけとめてほしいのです。
何よりも、大事なのは「思い」
そう考えていたことを川端同心は
罪を裁くでない。人を裁くでない。心の在りようを裁く
と、言いながら
自分の心の在りようを見つめなおしています。
他人の心の在りようを裁く前に
自分の心の在りように気が付いていく。
その考え方が記事の言葉になっています。
冷たい言い方かもしれないが
しでかしたことは自分に返ってくる。
と、いう
法則をまのあたりにみせてもらったのだと
それを、ラーニングして
自分に活かすことのほうが、大事なのではないだろうか?
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