私は、義父母からただの一言も嫌味を言われたことが無い。
私だけではない。義父母は遠縁の人が病床にある時、
まだ乳飲み子だったその人の子を見たり、
近所の人たちへ晩のおかずを届けたりする親切な人たちだったのである。
私は義父母の優しさに感謝しつつも、なぜそこまで?と、不思議に思うことさえあった。
突然、義父は癌に倒れた。病の進行は早く、わずか四ヵ月後に義父はこの世を離れた。
告知は本人になされた。
それでも襖職人だった義父はわずかな退院期間にさえ、
昔なじみのお客さんの注文に応えようとしていた。
夫はよろめく義父を支えるように配達を手伝った。
私は義父がつらいとか苦しいとか言ったのを聞いたことがない。
病院の前で私が車で義父を降ろす時にさえ姿勢を正し
「ありがとうございました」と出来た嫁とは言いがたい私に笑顔でお礼を言うのだった。
その顔は黄疸で黄色く、
私のような者にさえかけるその思いやりのエネルギーを
すべて今は病魔に打ち勝つために向けて欲しいと思った。
「お義父さんは、苦しいと言いませんね」
義父が薬でうとうとしている時、義母に話しかけた。
義母は少し遠くを見るような目になった。
「おとうさんは若いころ結核をやってね。
周り中から結核がうつると言われて忌み嫌われた事があるんだよ。
それを乗り越えてきたのだから、とても心が強いんだ」
と義母は言った。
義父は若いころ、気性が激しかったらしい。
「今は仏さんみたいだけど、昔は今とは全然違ったんやで。」と夫は私に言っていた。
年齢のわりに丈夫な人で、体も若々しかった義父が
みるみる弱っていくのを見るのはつらかった。
心の中で私は
「なぜ、なぜあなたは助けてくださらないのですか、助からないまでも、
なぜ、あんなに良い人が病にかかったのですか」
と何度もどこか上にいると思っていた存在を罵った。
人のために力を尽くした最後がこれではあんまりだと思った。
義父はクリスマスイブの早朝にこの世を離れた。
危篤の報を受け、前夜親族が病院に集まったのだが
子供を寝かせるために私は一度帰宅し布団に横になっていた。
眠れない中、うとうとまどろんだ私は夢を見た。
白い衣を着た美しい女性が祭壇のある白い部屋にいて、
跪きながらバラの花を一本一本、床に並べていくという夢だった。
その直後、死去を知らせるメールが夫から届いた。
葬儀の朝、まだ誰もいない祭壇の前に安置された義父の顔は穏やかだった。
ルオーの絵を思い浮かべるくらいに。
人さまに迷惑をなるべくかけぬよう、
親族葬にしようと話し合って決めたのだが
葬列に向かう親族の一人を見かけた近所の人を始めに
やってくる人はどんどん増えていき、部屋からあふれた。
お年寄りに椅子をなるべく譲ったが、足りずに申し訳なかった。
気力を振り絞るように立ち尽くしている高齢の方もいた。
義父の棺の前で泣き崩れる見知らぬ方もいた。
その光景を見ながら私は、あの女性が置いていったバラの花は
義父が無償で人々へ与え続けた愛であり、
そしてその人たちがまたその愛を携えてやってきたのだと思った。
葬儀が終わって、雪が降った。
誰かが
「優しい人だったから、私らが安全に山を越えて帰られるように降らせないでおいてくれたんだ」
と言った。
義父母の親しい友人は私が不思議な夢の話をした時
「マリア様が迎えに来てくれたんかね」と涙ぐんだ。
義父は若い頃、結核にかかっていた時キリスト教を信じていた事があると
義母から聞いた。
私はもちろん、主人や義弟たちは驚いた。
義父からそれに関係するような言葉を産まれてこのかた一回も聞いた事が無かったのだ。
ただ、今でも信じていたのかどうかは、わからなかった。
義父亡き後、義母も私たちも呆然としつつ、
書類の手続きや、仕事に使っていた車の処分など後片付けに追われた。
自営業をしていたので、大量の襖の材料をどうするかという話になった。
私は夫や義母、義妹たちにも夢の話をした。
夫は黙って聞いていたが、
「それについて俺は今意味をつけたくない。
俺は親父の死は何だったのかをこれからずっと考えていく」と言った。
夫は今でも、義父の死について、納得はしていない。
私もクリスチャンは知り合いにいるが、家は仏教徒で、
クリスチャンというわけではない。
ただ、義父が人に与え続けた愛は、その分、死のとき、義父のところへ帰ってきて
義父を包んだのだと思っている。
義父の苦しみは、比較的、少ないものだったように思える。
そして、義父の近くには、いつも、誰かが付き添っていた。
やり手の事業家の義父の弟さんが、一番見舞いに来ていた。
若いころ、弟さんが無欲な義父をいろいろ言ったことがあるそうだが、
弟さんは、義父が目を覚ましていないときも、
ずっと、義父のそばにたたずんでいた。
長男である夫はよく、無欲で人のためばかりに奔走する義父母を心配していた。
サラリーマンの夫は休日に、義父の遺した仕事場で、
行灯を作り始めた。
木の端切れや、襖に使う丈夫な紙を見ているうちに思いついたと言っていた。
私も、自分にとっての義父と出会えた意味を考えたいと思った。
そして自分の今までの人生を振り返り、
いかに多くの血縁ではない人たちに助けられ今があるのかを思って愕然となった。
義父への感謝の気持ちは、容態がかなり悪くなるまで言えなかった。
死期が近づいていると思って欲しくなかったからだ。
危篤になってから、
やっと感謝の気持ちと義母の事は心配しないでくれという事を言うのが精一杯だった。
義父はすべての愛を出し惜しみせず、力いっぱい生きてこの世を去った。
その苦しみを誰にも言う事なく。
義父に伝えられなかった言葉がある。
お義父さん、あなたが私に教えてくださった事は、
愛とはどういうものなのかという事でした。どうかはるか上、あなたの場所まで届きますように。
あのバラの花は、あなたがわたしたちに置いてくれていった愛だったのだと、
そしてそれを、誰かがあなたの代わりに私たちに届けてくれたのだと
思えてなりません。
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私だけではない。義父母は遠縁の人が病床にある時、
まだ乳飲み子だったその人の子を見たり、
近所の人たちへ晩のおかずを届けたりする親切な人たちだったのである。
私は義父母の優しさに感謝しつつも、なぜそこまで?と、不思議に思うことさえあった。
突然、義父は癌に倒れた。病の進行は早く、わずか四ヵ月後に義父はこの世を離れた。
告知は本人になされた。
それでも襖職人だった義父はわずかな退院期間にさえ、
昔なじみのお客さんの注文に応えようとしていた。
夫はよろめく義父を支えるように配達を手伝った。
私は義父がつらいとか苦しいとか言ったのを聞いたことがない。
病院の前で私が車で義父を降ろす時にさえ姿勢を正し
「ありがとうございました」と出来た嫁とは言いがたい私に笑顔でお礼を言うのだった。
その顔は黄疸で黄色く、
私のような者にさえかけるその思いやりのエネルギーを
すべて今は病魔に打ち勝つために向けて欲しいと思った。
「お義父さんは、苦しいと言いませんね」
義父が薬でうとうとしている時、義母に話しかけた。
義母は少し遠くを見るような目になった。
「おとうさんは若いころ結核をやってね。
周り中から結核がうつると言われて忌み嫌われた事があるんだよ。
それを乗り越えてきたのだから、とても心が強いんだ」
と義母は言った。
義父は若いころ、気性が激しかったらしい。
「今は仏さんみたいだけど、昔は今とは全然違ったんやで。」と夫は私に言っていた。
年齢のわりに丈夫な人で、体も若々しかった義父が
みるみる弱っていくのを見るのはつらかった。
心の中で私は
「なぜ、なぜあなたは助けてくださらないのですか、助からないまでも、
なぜ、あんなに良い人が病にかかったのですか」
と何度もどこか上にいると思っていた存在を罵った。
人のために力を尽くした最後がこれではあんまりだと思った。
義父はクリスマスイブの早朝にこの世を離れた。
危篤の報を受け、前夜親族が病院に集まったのだが
子供を寝かせるために私は一度帰宅し布団に横になっていた。
眠れない中、うとうとまどろんだ私は夢を見た。
白い衣を着た美しい女性が祭壇のある白い部屋にいて、
跪きながらバラの花を一本一本、床に並べていくという夢だった。
その直後、死去を知らせるメールが夫から届いた。
葬儀の朝、まだ誰もいない祭壇の前に安置された義父の顔は穏やかだった。
ルオーの絵を思い浮かべるくらいに。
人さまに迷惑をなるべくかけぬよう、
親族葬にしようと話し合って決めたのだが
葬列に向かう親族の一人を見かけた近所の人を始めに
やってくる人はどんどん増えていき、部屋からあふれた。
お年寄りに椅子をなるべく譲ったが、足りずに申し訳なかった。
気力を振り絞るように立ち尽くしている高齢の方もいた。
義父の棺の前で泣き崩れる見知らぬ方もいた。
その光景を見ながら私は、あの女性が置いていったバラの花は
義父が無償で人々へ与え続けた愛であり、
そしてその人たちがまたその愛を携えてやってきたのだと思った。
葬儀が終わって、雪が降った。
誰かが
「優しい人だったから、私らが安全に山を越えて帰られるように降らせないでおいてくれたんだ」
と言った。
義父母の親しい友人は私が不思議な夢の話をした時
「マリア様が迎えに来てくれたんかね」と涙ぐんだ。
義父は若い頃、結核にかかっていた時キリスト教を信じていた事があると
義母から聞いた。
私はもちろん、主人や義弟たちは驚いた。
義父からそれに関係するような言葉を産まれてこのかた一回も聞いた事が無かったのだ。
ただ、今でも信じていたのかどうかは、わからなかった。
義父亡き後、義母も私たちも呆然としつつ、
書類の手続きや、仕事に使っていた車の処分など後片付けに追われた。
自営業をしていたので、大量の襖の材料をどうするかという話になった。
私は夫や義母、義妹たちにも夢の話をした。
夫は黙って聞いていたが、
「それについて俺は今意味をつけたくない。
俺は親父の死は何だったのかをこれからずっと考えていく」と言った。
夫は今でも、義父の死について、納得はしていない。
私もクリスチャンは知り合いにいるが、家は仏教徒で、
クリスチャンというわけではない。
ただ、義父が人に与え続けた愛は、その分、死のとき、義父のところへ帰ってきて
義父を包んだのだと思っている。
義父の苦しみは、比較的、少ないものだったように思える。
そして、義父の近くには、いつも、誰かが付き添っていた。
やり手の事業家の義父の弟さんが、一番見舞いに来ていた。
若いころ、弟さんが無欲な義父をいろいろ言ったことがあるそうだが、
弟さんは、義父が目を覚ましていないときも、
ずっと、義父のそばにたたずんでいた。
長男である夫はよく、無欲で人のためばかりに奔走する義父母を心配していた。
サラリーマンの夫は休日に、義父の遺した仕事場で、
行灯を作り始めた。
木の端切れや、襖に使う丈夫な紙を見ているうちに思いついたと言っていた。
私も、自分にとっての義父と出会えた意味を考えたいと思った。
そして自分の今までの人生を振り返り、
いかに多くの血縁ではない人たちに助けられ今があるのかを思って愕然となった。
義父への感謝の気持ちは、容態がかなり悪くなるまで言えなかった。
死期が近づいていると思って欲しくなかったからだ。
危篤になってから、
やっと感謝の気持ちと義母の事は心配しないでくれという事を言うのが精一杯だった。
義父はすべての愛を出し惜しみせず、力いっぱい生きてこの世を去った。
その苦しみを誰にも言う事なく。
義父に伝えられなかった言葉がある。
お義父さん、あなたが私に教えてくださった事は、
愛とはどういうものなのかという事でした。どうかはるか上、あなたの場所まで届きますように。
あのバラの花は、あなたがわたしたちに置いてくれていった愛だったのだと、
そしてそれを、誰かがあなたの代わりに私たちに届けてくれたのだと
思えてなりません。
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