私の音楽のルーツ大詰めの1984年へ行く前にどうしても話しておかなければいけないことがります。
社会人1年目ももうすぐ終わろうとしていた1984年2月の下旬のことでした。
その日私は会社が休みで寮にいました。
管理人のおじさんから会社から電話だと連絡があり、朝から何事かと私は電話のある管理人室へ行きました。
電話は部長からでした。
部長は神妙な声で「お父さんが亡くなったらしい」といいました。その後の話はよく覚えておりません。
その時は電話を切った後、まだ信じられず呆然としていたと思います。
すると続けて姉からも電話がかかってきて話しているうちに涙があふれてきました。涙が止まらなくなりました。
父は私が小学生の頃から単身赴任だったのでほとんど家にいませんでした。
高校生の頃は反発したこともありましたが、大学生になり二人とも帰省する時期が同じ頃になるので、よく飲んだりして話す機会がありました。
思うに、普通に家にいる親子より時間が限られるので逆に会話は多かったかもしれません。
その日の夜、東京にいた兄と一緒に父いる東北の小さな町へ向かいました。
東京駅までがものすごく長く感じました。
結局、着いたのは翌日の朝。
雪の多い年でした。
父のところに着くと母が優しい笑顔で迎えてくれました。
定年1ヶ月前。これから母と第2の人生を楽しもうとしていた矢先のことでした。
私としても社会人にもなり父とも本当の意味で飲めるかな~と思っていたところでした。
もう2度と会えないと思うと言い様のない寂しさに襲われました。
しかし、この出来事が私をまた札幌へと呼び戻すことになるのです。
社会人1年目ももうすぐ終わろうとしていた1984年2月の下旬のことでした。
その日私は会社が休みで寮にいました。
管理人のおじさんから会社から電話だと連絡があり、朝から何事かと私は電話のある管理人室へ行きました。
電話は部長からでした。
部長は神妙な声で「お父さんが亡くなったらしい」といいました。その後の話はよく覚えておりません。
その時は電話を切った後、まだ信じられず呆然としていたと思います。
すると続けて姉からも電話がかかってきて話しているうちに涙があふれてきました。涙が止まらなくなりました。
父は私が小学生の頃から単身赴任だったのでほとんど家にいませんでした。
高校生の頃は反発したこともありましたが、大学生になり二人とも帰省する時期が同じ頃になるので、よく飲んだりして話す機会がありました。
思うに、普通に家にいる親子より時間が限られるので逆に会話は多かったかもしれません。
その日の夜、東京にいた兄と一緒に父いる東北の小さな町へ向かいました。
東京駅までがものすごく長く感じました。
結局、着いたのは翌日の朝。
雪の多い年でした。
父のところに着くと母が優しい笑顔で迎えてくれました。
定年1ヶ月前。これから母と第2の人生を楽しもうとしていた矢先のことでした。
私としても社会人にもなり父とも本当の意味で飲めるかな~と思っていたところでした。
もう2度と会えないと思うと言い様のない寂しさに襲われました。
しかし、この出来事が私をまた札幌へと呼び戻すことになるのです。