Wind of Mind

Wind of Mindへようこそ!^^
自作の音楽や美味しいものなど気ままにアップしていきます!^^ゞ

シャイニン・オン~君が哀しい~:LOOK

2008年03月10日 | 邦楽のルーツ
突然ですが、LOOKです。
1985年、テレビから流れてくる超高音ハスキヴォイスに私は一発で魅了されました。
それがLOOKが歌う「シャイニン・オン君が哀しい」でした。
この1曲ですっかりLOOKが気に入ってしまった私は首を長くしてCDが出るのをワクワクして待っていたものです。
もちろんCDは今でも全部持っています。

しかし20年以上経った今、大変な勘違いをしていたことに気がついたのです。
それはLOOKのボーカルは千田さんだとばかり思っていたのですが、今になって鈴木さんだったということが分ったのです。
そう、あの名曲「シャイニン・オン君が哀しい」を歌っている人の名前を私は20年以上も勘違いしていたのです。。。

なぜ名前を間違って覚えていたのか?
今、あらためてLOOKのCDを見てみると解説というものがまったくないのを思い出しました。歌詞カードだけ。
さらに、メンバー紹介も写真と名前が一致したものがないのです。
あとは写真やテレビで見た感じからかってに名前のイメージを作ってしまったのだと思います。
LOOK自体も「シャイニン・オン・・・」以後はパットしたヒット曲もなく、テレビにもほとんどでなくなってしまったので、特段、この間違いは表面に出ることなく私の中だけで終わっていたのだと思われるのでした。

しかし、今回の事実発覚は私的にかなりショッキングな出来事でありました。
鈴木さんごめんなさ~い!!!

去年、セルフカバー?を出していたようで、この記事を最近見つけ勘違いに気付いた次第であります。。。
復活!シャイニン・オン君が哀しい

歌謡曲編:中森明菜

2007年03月16日 | 邦楽のルーツ
松田聖子が陽のアイドルなら明菜は陰。
聖子がソニーなら明菜はワーナーパイオニア。
といってもデビュー当時のキャッチコピーは「ちょっとエッチなミルキーっ娘」!?ですから、決して暗くはないのですが。。。

「少女A」でのつっぱり路線というか投げやりな振り付けも聖子ちゃんとは対照的でした。まあ、聖子に対抗した事務所の売り出し方だったんだと思いますが。。。
私的にはデビュー曲の「スローモーション」や「セカンド・ラブ」などのバラードの方が好きなんですが。。。
両方歌いこなせるということで、当時から歌唱力は評価されていたようですが、どうも声が前に出ていない感じがして応援しているのですが、聖子ちゃんの方が1枚上手のような感じは否めませんでした。
明菜の歌い方は聖子ちゃんに比べて落ち着いているというか大人っぽいんですよね。

それでも、曲はヒットしていましたね~
「北ウイング」や「飾りじゃないのよ涙は」「ミ・アモーレ」「DESIRE」「Fin」あたりが好きかな。

特に私が注目したのは1984年に発表した「サザン・ウインド」です!
この曲を始めてテレビで聴いた時はぶっ飛びました!
だって、間奏が新生Yesの1983年の大ヒット曲「ロンリー・ハート」にそっくり!
曲的には全く違うのに無理やり当時の洋楽の要素を取り入れるところはさすが日本の歌謡曲!と、思わず苦笑してしまいました。
しかし作成陣を見ると作詞:来生悦子、作曲:玉置浩二!?、編曲:瀬尾一三!????
ふ~む。ロンリー・ハートがどこから混ざったのか・・・やはり玉置浩二でしょうか。。。

当時のザ・ベストテンでは毎回のように登場し「ベストテンの女王」の異名を取っていた時代が懐かしいです。

歌謡曲編:松田聖子

2007年03月15日 | 邦楽のルーツ
松田聖子は1980年デビュー。
デビュー当初はルックス的にも歌もあまり上手いとも思わずそれほど興味はありませんでした。でも、聖子ちゃんカットは結構好きでした。あの頃のアイドルや若い女性はほとんど影響を受けていたような気がします。

デビューして1年ぐらいの頃でしょうか、確かNHKの歌番組で八代亜紀の「雨の慕情」を別の歌手が歌うというコーナーがあり、なんと、松田聖子が歌ったのです。私も一緒に見ていたおじいちゃんとおばあちゃんも「歌えるのかね~」と嘲笑して見ていました。
ところが、歌ってみると、これが意外に上手かったのです!私もちょっと驚きましたが、おじいちゃんは「上手い!」と笑い、おばあちゃんも「あら意外に上手いね~」と驚いていた記憶があります。

松田聖子の楽曲は明るいポップスという感じで「チェリー・ブラッサム」から制作陣にチュ-リップの財津和夫を起用、さらに1981年の「風立ちぬ」で大瀧詠一を起用。そして1982年の「赤いスイートピー」から呉田軽穂(ユーミン)を起用!さらに細野晴臣、尾崎亜美、大江千里、井上鑑、タケカワユキヒデetc.作詞も三浦徳子から松本隆へ!この錚々たるメンバーはその後の松田聖子のヒット曲を次々と生み出し、「風は秋色」からの24曲連続オリコン・シングルチャート1位という驚異的な記録の原動力となっていくのです。

私的にも「チェリー・ブラッサム」は好きでしたし「風立ちぬ」も未だに好きな曲です。
そして「赤いスイートピー」でかなりきた~!さすがユーミン!という感じでした。
ファッション的にも「秘密の花園」ぐらいからのショートカット「ガラスの林檎」、アルバム「Canary」のジャケットのストレートなショートカットは好きです。
大ヒットした「Sweet Memoreis」は最初「ガラスの林檎」のB面(両A面だったのかも?)で始めて聴いたとき、聖子ちゃんにしてはちょっと地味目だけど、英語の歌詞で大人っぽくていいバラードだと思い録音しました。まさか、あんな大ヒットになるとは。。。
私的その頃の「瞳はダイアモンド」「Rock'n Rouge」1984年ごろまでが好きな時期です。
翌年郷ひろみとの破局、まさかの神田正輝との結婚。
その後もいい曲も歌っているようですが、あまり聴く気にならないというのが現状であります。
しかし、彼女は間違いなく1980年代を代表するアイドルであり強力な制作陣の元、歌謡曲を良質なポップスに発展させた功績は大きいのではないかと思うところでありす。

青春の影:チュ-リップ

2006年12月11日 | 邦楽のルーツ
1979年。
「虹とスニーカーの頃」がヒットして久々に財津さんの歌声を聞きました。
この曲はなんか切ない青春の胸がきゅんとなるような曲で、その前の「サボテンの花」や今までのチューリップの心地よいイメージとは1線を画しているように思いました。

チューリップを知ったのはやはり1973年の大ヒット曲「心の旅」でした。
その頃のイメージはテレビによく出ていたこととヴォーカルが姫野さんだったこともあり、フォークグループながら女の子がキャーキャー言われていたのでちょっとアイドル的な印象がありました。

大学時代、グリーの先輩がフォークの歌声スナック(昔ふきのとうも出ていたらしい)に出入りしていて私もよく行ったのですが、いつもラストに歌うのが「心の旅」でした。みんなで歌うとまた盛り上がるいい曲ですね。

財津さんがチューリップの本当のヴォーカリストだと知ったのは「青春の影」からかな~
でも、この曲をはじめて聴いたときはビ-トルズの「ロング・アンド・ワインディング・ロード」をすぐに連想してしまいました。(苦笑)でも、この曲は大好きです。
そして、財津さんがビートルズの大ファンだということを知りました。
確かにチューリップのサウンドはビートルズに似ている。(苦笑)
何かの雑誌で財津さんがビートルズに対する思いを熱く語っていて、学校の屋上で「アンド・アイ・ラヴ・ハー」を何度も何度も歌っていたら涙が出てきた
。。。という記事が印象的で、私もそれから「アンド・アイ・ラヴ・ハー」を歌ってみてこの曲がますます大好きになったという思い出があります。

私はチューリップはヒットした曲ぐらいしか知りませんが、それでも財津さんのヴォーカルには少なからず影響を受けていると思います。
大学生になってオフコースの小田さんと財津さんは私の好きなヴォーカリストでしたが、二人は声質が似ていながら小田さんの1本芯が通ったような高音に比べると財津さんは柔らかいというか、つかみ所がなく歌いこなすのが難しい感じがしました。(苦笑)
オフコースもチューリップもフォークからバンドになってロックというかポップスという感じになって行ったような共通点も感じていました。

財津さんは俳優としても一時期活躍していて、いい味を出していたと思います。

それから、大学時代付き合っていた彼女がサザンとチューリップファンので「2222年ピクニック」(写真)のテープをもらったことがあります。
そういう意味では私にとってチューリップは青春の1ページでもあります。

SONG IS LOVE:Off Course(後編)

2006年12月10日 | 邦楽のルーツ
オフコースはその後も「Yes – No」、「時に愛は」「I LOVE YOU」「言葉に出来ない」「YES-YES-YES」などヒットを飛ばします。
しかし、サウンド的には段々シンプルになり、小田さんと鈴木さんのサウンドの違いがはっきりと別れていくような気がしました。
アルバムで言えば「We are」「over」(写真)「I LOVE YOU」までが私的オフコースでした。
本当にあくまでシンプルに無駄のない楽曲は小田さんの求めていたものだったのかなと思ったりもしました。

そして、ついに鈴木さんがオフコースを脱退します。

1982年6月10日間にわたる日本武道館でのコンサートが5人のオフコースの最後のステージとなりました。
このコンサートで小田さんが「言葉に出来ない」を涙で歌えなくなったシーンが印象的でした。

この後オフコースは活動を休止。
1984年に鈴木さん抜きの4人で活動を再開しますが、私はその音に以前のオフコースの魅力は半分ぐらいしか感じられませんでした。

そして1989年解散。

その後の小田さんの活躍は、1991年「東京ラブストーリー」の主題化「ラブ・ストーリーは突然に」の大ヒットをはじめ記憶に新しいところです。
昨年の12月には全国20ヶ所で50公演、この模様はテレビでも放映され年輪を重ねた小田さんがステージ観客席を駆け巡り汗だくになって歌う姿に好感が持てました。
また、鈴木さんは元赤い鳥、ハイファイセットの山本潤子さん、元ふきのとうの細坪さんと活動をともに。ここに細坪さんが出てくるところに私としては喜びと不思議な縁を感じます。
オフコースとふきのとうって全然接点がないと思っていましたから。。。

SONG IS LOVE Off Course

あの日楽屋で鈴木さんが書いてくれたサインはもうありませんが、このシンプルな響きの中にオフコースの魅力の全てがあると思います。

SONG IS LOVE:Off Course(前編)

2006年12月09日 | 邦楽のルーツ
さて大学2年目1979年のミュージックシーンからオフコースです。

私がオフコースに興味を持ったのは、例のアルバイトからですが、コンサートを一緒にやったメンバーの中の2人がオフコース好きでアルバム「THREE AND TWO」に入っている「思いのままに」の導入部などを一緒にハモッたりして楽しんでいました。
忘れていましたが、あのコンサートのラストではみんなでオフコースのアカペラ曲「いつもいつも」を合唱しました。小曲ですがこれが一番良かったかも。

また、卒業した先輩にもオフコースのファンがいて「愛の唄」や「老人のつぶやき」などを編曲してくれた方もいました。
2年目の定演ではアンコールに「愛の唄」をやり、我が団の売りであるセンスのよさ?を発揮できたのではないかと思います。

オフコースの結成は1970年。
その前年にヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場し第2位。
このときの第1位があの「赤い鳥」で外に出場者はチューリップも!何とレベルの高い大会だったのか。
この大会で優勝して音楽にけじめをつけようとしていたところが2位に終わったことで、小田さんと鈴木さんはプロになることを決意。ポプコンで音楽を終われなくなってしまったのです。

その後、フォークデュオとして「眠れぬ夜」などのヒットを飛ばしますが、高校時代の私は小田さんの綺麗過ぎる声とメロディがいまいち馴染めませんでした。

ところが、5人のバンドになり発表した「愛を止めないで」は今までの曲と違いスケールの大きな曲だな~と思っていましたが、79年に発表された「Three and Two」(写真)は素晴らしい出来でした。もうフォークというよりはロックに近い感じでしたが、小田さんの声が非常にマッチしていてすんなりと受け入れることが出来ました。
思いのままに、恋を抱きしめよう、その時はじめて、歴史は夜つくられる、愛を止めないで、SAVE THE LOVE、汐風のなかで、愛あるところへ、生まれ来る子供たちのために・・・
すべての曲がよかった。

この1枚で私はすっかりオフコースの魅力にとりつかれてしまうのでした。
シングルではこの79年12月に「さよなら」が大ヒット。
今でも冬のスタンダードナンバーとして多くの人の心に残っています。

1979年はオフコースにとっても大きなターニングポイントとなった年だと思います。
後編へつづく

貴方が生きたLoveSong:高橋真梨子その2

2006年11月01日 | 邦楽のルーツ
アルバム「Dear」からは出る度にCDを買うようになりました。

そして1984年「桃色吐息」が大ヒット、それ以降もコンスタントにヒットを飛ばし「ジュン」「はがゆい唇」「Sincerely」「涙の街角」などは記憶に新しいところです。
さらに「貴方が生きたLoveSong」では玉置浩二とのデュエットで大人のラブソングを歌ってくれました。
もちろん私のカラオケのレパートリーにすべく練習に励んだことは言うまでもありません。しかし、この曲は難しい。今ならもう歌えないかもしれません。
この「はがゆい唇」「貴方が生きたLoveSong」の入った92年のアルバム「Lady Coast」は中期では好きなアルバムです。

私的には大ヒットした曲よりも「貴方が生きた・・・」や「祭りばやしが終わるまで」のような曲の方が好きでした。「祭りばやし・・・」は1980~83年までNHKで放送していた「御宿かわせみ」(真野響子、小野寺昭)の主題歌で番組の雰囲気にとても良くあっていて安らげる曲でした。

また、1989~90年のカバーアルバム「紗」Ⅰ、Ⅱでは「色づく街」「SWEET MEMORIES」「恋するカレン」「悲しい色やね」「Little Tokyo」「ダンシング・オールナイト」「時の過ぎゆくままに」「いっそセレナーデ」などを彼女ならではの世界で表現。このカバー2枚も私のお気に入りのアルバムです。

ここ数年はあまり目立ったヒットはないように思いますが、今年「僕の嘘」がテレビから流れて変わらぬ彼女の歌声に安らぎをおぼえます。

彼女のコンサートは今までなかなか行く機会に恵まれなかったのですが、今年ようやくそのチャンスがやってきました。
テレビ出演よりもコンサートを大切にするという高橋真梨子。
念願のステージはいよいよ、秒読みです!

Dear:高橋真梨子その1

2006年10月31日 | 邦楽のルーツ
1972年ペドロ&カプリシャスに2代目ヴォーカリストとして参加。
この時はどうしても初代ヴォーカルの前野曜子「別れの朝」のイメージが強くて、線の細さを感じましたが、不思議な爽やかさを持った声でした。
ルックス的にも長い髪と切れ長の瞳が神秘的な感じでちょっと年齢不詳の女性でした。
「ジョニーへの伝言」、「五番街のマリー」は雰囲気のあるいい曲でヒットが続きましたが、ペドロ&カプリシャス自体が只者ではない的な雰囲気を持ったバンドでしたし「別れの朝」の濃いイメージもありそれに比べると爽やかな高橋真梨子で大丈夫かなと思っていたのが正直な感想です。
ですから、ソロデビューを果たしたときも、ソロでやっていけるのかとちょっと疑問でした。
とはいっても、ソロになったときは大学1年生、気になるアーティストではありましたがレコードを買って聴くにはまだ若い!?

しかし、そんな高橋真梨子に興味を持ったのが1982年でした。(またこの年!?)
この年、「for you…」で第11回東京音楽祭世界大会、金賞受賞。
そして名盤「Dear」リリース!
1曲目の「STOP MY LOVE」を聴いた時の感動はいまだに忘れません。
さらに「for you・・・」「漂流者へ」と珠玉のバラードや「SAMBA MAGIC」のような軽快な曲も今聴いても十分通用すると思います。

ビッグヒットを連発するのはもう少し後ですが、私的にはこのアルバムが一番好きです。

思い出は美しすぎて:八神純子

2006年10月29日 | 邦楽のルーツ
八神純子といえば1978年のデビュー曲「思い出は美しすぎて」が印象に残る曲でした。
また、デビュー当時はなかなかキュートな感じで今までにないハイセンスなメロディと張りのあるヴォーカルに魅了されました。
POPCON出身なのは知っていましたがシングルは74年にすでに「雨の日のひとりごと」(デビューアルバム1曲目に収録)を出してるんですよね。これは意外でした。

ファーストアルバム「思い出は美しすぎて」は好きで聴き込みました。
ソナタのような「追慕」のような曲に憧れて、パクったこともありました。
その他の曲も「雨の日のひとりごと」「時の流れに」「思い出の部屋より」などいい曲が揃っていました。
その後も「みずいろの雨」(1978)、想い出のスクリーン(1979)、ポーラー・スター(1979)、甘い生活(1980)、パープル・タウン(1980)Mr.ブルー~私の地球~(1980)、I'm A Woman(1981)とヒットを連発します。

この頃は音楽番組にもよく出演し売れたということではピークだったと思います。
私的にはパープル・タウンぐらいまででテレビで見るほかはそれほど熱心ではありませんでしたが、I'm A Womanの入ったアルバム「夢見る頃を過ぎても」はなかなかいい曲が揃ったアルバムだと思いました。

しかし、1983年宇宙戦艦ヤマト完結編の主題歌ラブ・シュープリーム~至上の愛~が注目を浴びるも、翌年「恋のスマッシュヒット」でアメリカデビューを果たし、そのときのプロデューサーと結婚。今はロス住まいとすっかり向こうに定着してしまったようです。最近の曲は聴いていませんが、HPの写真は非常に元気そうです。 やはり彼女の夢は本場アメリカだったのでしょう。

実は、同じ下宿に住んでいたT君が彼女のファンで1枚目のテープを持っていたので、聴かせてもらったと言う訳です。
彼とは気が合い2年目から4年目まで2人で共同生活をしました。彼は音楽的には日本の女性シンガーが好きだったようで、八神純子のほかにも笠井紀美子、丸山圭子なんかを聴いていた覚えがあります。

歌謡曲編:榊原郁恵

2006年10月25日 | 邦楽のルーツ
歌謡曲編というよりは、アイドル編なんですが(苦笑)
シンシアの次に胸がきゅんとなったのは郁恵ちゃんでした。
デビュー当時はそれほど可愛いとは思わなかったんですが、だんだんとそう、髪がショートになった頃から可愛いと思うようになったようです。
しかし、ずーっと年下だと思っていました。幼い感じがしたのですがなんと同い年なんですよね。

曲で言えば「夏のお嬢さん」あたりからでしょうか。私が大学1年目のとき1978年の夏でした。
はっきり言って郁恵ちゃんはあまりいい曲に恵まれなかったと思います。
私的には「微笑日記」が唯一好きな曲でしょうか。
「微笑日記」は自分でギターをアレンジして練習しました。
そして、T女子短大の学園祭で歌わせてもらったことがあります。この話はまた後ほどグリーの中で。

曲は「ROBOT」あたりからあまり売れなくなったのではないかな。
テレビドラマはなんと言っても「ナッキーはつむじ風」!
はつらつとした演技が実際の郁恵ちゃんにダブってよかったです。

本当に見るからに性格のよさそうな女性ですが、実際に人格者のようでとても嬉しいです。
その後の舞台ピーターパンは当たり役立ったようですが、シンシア同様まだ一度も生で見たことがありません。是非一度会ってみたい女性です。

サザンオールスターズ②

2006年10月25日 | 邦楽のルーツ
1985年アルバム「KAMAKURA」を発表。このアルバムは完成度が高くサザンの最高傑作とも言われているようです。翌年、原由子の産休もありサザンは活動停止、その間桑田さんはロックバンドKUWATA BANDを結成。これがなかなか良く「BAN BAN BAN」等のヒットを飛ばしました。

この時は洋楽のカバーをやってましたが、とくにディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」がよかった!衣装も全員黒でまとめかっこよかったです。
サザンとしても桑田佳祐としても絶頂期にあった時期だったと思います。
KUWATA BANDとしてLIVEアルバムを1枚出していますがこれがまた良い!
ジャケットもサザン、桑田さんらしいのですがまた違う味でなかなかよかったです。(写真)

さて、私はサザンのコンサートに1回、札幌で行っております。確かFM北海道開局記念のコンサートだったと思いますが、そうするとまた1982年頃!?
いろいろ思い出すにつれ、この年は私のキー・イヤーのようです。(苦笑)
このときすでに洋楽のカバーやロックのメドレーをやってたような気がしますが、記憶が定かではありません。
ただ、まさにライヴバンドに恥じないノリノリのステージでした。
桑田さんのヴォーカルにはキーがどうのとか、そんなレベルを超えたものを感じました。

また、奥さんの原由子さんはサザンの中でキーボードだけでなく、ハーモニーにおいて非常に重要なポジションを占めていると思います。
サザンオールスターズがここまでビッグなバンドに成長したのは桑田さんの天才的かつ狂人的音楽センスに他ならないと思いますが、妻であり当初からのメンバーである原由子の存在も大きく、まさに、内助の功的な役割だったと思います。

最近は少し落ち着くどころかますますクレイジーなサザンですが、これからも日本を代表するロック・バンドとしていい曲を作ってくれることでしょう。

サザンオールスターズ①

2006年10月23日 | 邦楽のルーツ
今や、日本を代表するモンスターバンドになってしまったサザンですが、1978年のデビュー当時はコミックバンド?と思った方も多いかったのではないでしょうか。
「勝手にシンドバッド」という曲のタイトルもそうですが、桑田さんの たたみかけるような早口のヴォーカルは何を言ってるのかよくわからないし、サウンドも何か懐かしいような歌謡曲かグループサウンズのような感じでした。

すでに世良公則とツイストは爆発的な人気を博していて、その正統派のロックと比べるとあまりに違うタイプのバンドでした。
しかし、「いとしのエリー」の大ヒットでツイストと肩を並べるロックバンドに追いつくもののシングルヒットが続きませんでした。

そんな中でもサザンはコンスタントにアルバムを発表し1971年のアルバム「ステレオ太陽族」は「Hello My Love」、「MY FOREPLAY MUSIC」「栞(しおり)のテーマ」といい曲が入っていた良いアルバムでしたがシングルのビッグヒットは生まれませんでした。
しかし、翌年「チャコの海岸物語」が予想外の大ヒット?で再びブレイク。
この後ヒットが続くようになります。

サザンは多作ではありますがアルバムの中には駄作も多く、その辺の力の抜きどころというかムラがあるところが桑田さんの天才的なところなんでしょう。
ツイストがそのまま下降線を辿っていったのに対し、サザンはスランプを乗り越えると桑田さんのメロディメーカーとしての才能はとどまるところを知らず次々とヒット曲を産みます。
栞のテーマ (1981)、チャコの海岸物語 (1982)、匂艶 THE NIGHT CLUB (1982)、Ya Ya (あの時代を忘れない) (1982)、ボディ・スペシャルII (1983)、ミス・ブランニュー・デイ (1984) 、メロディ (Melody) (1985)、みんなのうた (1988)、真夏の果実 (1990)、シュラバ★ラ★バンバ (1992)、涙のキッス (1992)、エロティカ・セブン (1993)、あなただけを ~Summer Heartbreak~ (1995)、愛の言霊 ~Spiritual Message (1996)、太陽は罪な奴 (1996)、LOVE AFFAIR ~秘密のデート~ (1998)そして2000年ついにあの名曲TSUNAMIを発表。記録的な大ヒットを記録しました。
ほかにも夏をあきらめて、OH!クラウディアなどいい曲がたくさんありますね。

ロック編:世良公則&ツイスト

2006年10月21日 | 邦楽のルーツ
1977年に第14回ヤマハポピュラーソングコンテストでグランプリを獲得。
最初に「あんたのバラード」を聴いたのはラジオから流れてくる世良さんの声でした。ポプコンではなくて「世界歌謡祭グランプリ」といっていたと思います。
その時は、なんかバタ臭い歌だな~というのが第一印象であまり好きにはなれませんでした。

しかし、ある日テレビで「あんたのバラード」がCMで流れ、熱唱する世良さんの姿が映し出されると、私のイメージは180度変わりました。
かっこいいバンドだな~!ハスキーな声で派手なアクションでセクシーに歌う世良公則にはすごい魅力を感じました。
デビュー曲の「あんたのバラード」はその後もロングセラーとなりました。
ロックバンドでこれだけメジャーになったのはツイストが初めてだったと思います。
それはやはり世良公則の魅力だったのだと思いますが、アイドル視されていたのも事実かもしれません。当然、その頃から始まったザ・ベストテンなどの歌番組にも出ましたのでロックバンドとしては露出度が高かったのです。

第2弾「宿無し」は「あんたのバラード」に比べるとコンパクトなおとなしめのロックンロールという感じで、ちょっと肩透かしという感じがしました。
そして、ついに名曲「銃爪(ひきがね)」が出ます!
この曲を初めて聴いたときは最高にかっこいい曲だと思いましたね~
曲とヴォーカルが見事にマッチしたメチャクチャかっこいいロックでした。
当然、この曲は大ヒット!ツイスト最大のヒット曲となりました。
しかし、その後は「性」「燃えろいい女」といまいちパットしない。(苦笑)
世良さんの派手なアクションも少し飽きられてきたのかもしれません。

1980年発表の「LOVE SONG」がランクインしたのを最後に翌81年解散。
世良さんはその後俳優、ソロミュージシャンとして活躍していますが、最近はあまり見かけないような気がします。
いつか「あんたのバラード」をしっとりと歌ってみたい。人気がピークの頃そんなコメントを目にしたことがあります。
何年か前にテレビで「あんたのバラード」をしっとりと歌っている世良さんを見て、こういう歌い方が出来るようになったんだな~と思いました。

フォーク編:松山千春「季節の中で」

2006年10月03日 | 邦楽のルーツ
1978年「季節の中で」が大ヒット。一躍全国区になりますが、当時はフォークシンガーは陽水をはじめほとんどテレビには出ない時代でした。

印象に残っているのは「ザ・ベストテン」で、コンサート会場(終わった後だったか?)から自分の言葉でメッセージをして「季節の中で」を歌ったことです。
このことは去年でしたか、「ザ・ベストテン」の裏舞台のような番組でも取り上げられていました。千春が時間を使い過ぎたため、山口百恵が歌えなくなったというエピソードもあったようです。

初~中期の曲は「旅立ち」をはじめとして「かざぐるま」「銀の雨」「大空と大地の中で」「初恋」「貴方のことで」「時のいたずら」「恋」「窓」「卒業」「夜明け」「旅の空から」などいい曲がありました。

しかし最近は政治家との関係のほうが目立ち、ヒット曲も「長い夜」からほとんど記憶にないような気がします。
また、コンサートにおいては10曲しか歌わないと豪語、その理由は「お客さんに満足して聞いてもらえる完璧な唄を生で歌えるのは10曲が限度」、要するに後はトーク?仲のいいさだまさしもコンサートのトークは面白いので有名ですが彼もトーク長めかも(苦笑)。
しかし、実はこれを聞いて私は妙に納得してしまいました(苦笑)。

最近の曲はほとんど聴いていませんが、フォークというよりはかなり演歌っぽい感じがします(苦笑)。
何はともあれ、北海道が産んだ名シンガーであることは自他共に認めるところでしょう。

フォーク編:松山千春「旅立ち~君のために作った歌」

2006年10月02日 | 邦楽のルーツ
高校時代に影響を受けたアーティストもう一人はやはりこの人です。

因幡晃と同時期にデビューし、北海道足寄町の名前を一躍有名にしたフォークシンガー。
松山千春は1975年の全国フォーク音楽祭の北海道大会で落選するも、その才能を認められ77年に「旅立ち」でデビュー。

この頃の千春人気は北海道ではすごかった。
デビュー当時は長髪にサングラスにロングブーツといういでたちで、同じ北海道出身のフォーク歌手蓑谷雅彦はまったくといっていいほどそのファッションスタイルを真似ていました。さらに、彼は千春の物まねも得意としているらしい(苦笑)。

初期の松山千春はわかりやすいコード進行とメロディで、比較的真似はし易かったが独特の太い声質の高音は千春にしかできないものでした。
私的にはG,B7,Emとスリーフィンガーというところが初期の千春らしいかなと思っております。ようするに「旅立ち」の世界かな。

ラジオの公開ライヴのようなものを録音したことがありますが、その中でやっていた「貴方のことで」「初恋」(だったかな)まだ、レコード発表する前だったと思いますが弾き語りで歌い、なかなかよかった記憶があります。
そしてファーストアルバム「君のために作った歌」(写真)は北海道を感じさせる素朴で味わいのあるアルバムでした。