瀋陽は、一時的に日本関東軍奉天市政府の首都でした。
80年前の今日、日本軍は“柳条湖”事件の謀略を起こします。満州事変です。(1931年9月18日の事変勃発から4日目、奉天市政府による満洲全土の領土化ではなく、辛亥革命で滅んだ清王朝の末裔を担いだ傀儡政権による満州国の樹立化への方針転換を関東軍は図ります。関東軍が満洲全土をほぼ占領した1932年3月1日、満洲国の建国が宣言され、その首都は新京(長春)とされました。)
1931年9月18日夜10時頃、日本関東軍の一部の兵士達は、ひっそりと瀋陽北京大学の大隊以南の柳条湖近くに駆けつけて、日本の敷設した満州鉄道を爆破、これを中国人の仕業だとする関東軍の自作自演を行います。日本関東軍は、これを張学良ら東北軍族による破壊工作「事変」と捏造して中華民国東北地方の軍事的占領行動に移ります。(日本関東軍の石原莞爾中佐と板垣征四郎大佐が中心で計画したと今日では判明しています。爆破工作の指揮にあたった関東軍参謀の花谷正氏の公表手記(1955年)では板垣・石原からの指示があったと述べています。
石原日記では、同年5月には「満州攻撃の謀略」に関する打ち合わせが事前に実施されていました。情報をつかんだ日本外務省の抗議により日本陸軍の中央から武力行使を控えるよう指示さえ出しましたが、謀略は既に関東軍により強行されてしまいました。(世界恐慌下の日本の不景気を打開するため、また日中紛争の火種となった満蒙問題を解決するため、軍部主導で日本国を強引して、満蒙を晴れて日本の領土とするためでしたが、当時の関東軍指導部においては謀略さえも正当化されたのです。)
(先立って1900年にロシアは中国で発生した義和団の乱(義和団事変:列強八ヶ国が制圧)の混乱収拾の際、満洲に軍を侵攻させ占領下に置いたため、日英米はこれに抗議していました。1904年中国旅順港にいたロシア旅順艦隊に日本海軍駆逐艦が奇襲攻撃を行って開始した日露戦争でしたが、朝鮮半島の覇権確保のほか清国からロシアが得ていた満州における鉄道・鉱山開発をはじめとする権益が日本へ引き渡されました。
しかし権益の根源たる清国は1911年の辛亥革命で倒されます。新生中華民国は清国領土を一応継承しましたが、実態は各地方軍閥による群雄割拠の状態になり、満洲は実質的に東北軍族の張作霖の支配下となりました。一方、国の北部には1924年にモンゴル人民共和国がソ連に続き世界で2番目の社会主義国として独立を果していました。そして日本は1894年の日清戦争で琉球の帰属を確定し台湾を植民地化、1905年の日露戦争で朝鮮半島の覇権を確保し満洲鉄道の支配権を得て西欧列強と同様の植民地拡大の帝国主義への道を歩み始めていました。中国大陸に進出した関東軍の次なる侵略目標は満州でした。
1928年に、日本関東軍が張作霖を爆殺する事件を先立って起こした(近年、スターリン謀略説も流されましたが、石原の証言以外にも、当時の日本陸軍の河本大佐の首謀証言や書簡等があり、関東軍の謀略行為であることは、今日の日本史では通説として確定しています。そして、仮に張作霖を爆殺がスターリンの策謀であっても関東軍の満州事変の謀略の免罪にもならないはずです。満州・中国・世界征服を上奏した田中上奏文については、ソ連の捏造であったことがロシアで公開されました。)当時の日本では、その爆殺で、息子の張学良が、その仕返しに起こしたのが「満州事変」だろうと当時多くの日本人は推測したそうですが、全ては関東軍の謀略でした。国際連盟の調査団報告では不戦条約の違反とされ、満州の自治政府化が国際社会から日本に提案されます。(タイのみが棄権し、反対は日本一国だけでした。)孤立した日本は国際連盟の常任理事国でしたが、国際連盟を脱退してしまいました。日本はパリ不戦条約を世界で最初に破った国と非難され、世界の人心も失います。その後、ナチスが政権を取ったドイツが日本に追随して1933年に国際連盟を脱退、イタリアが1935年にエチオピアを軍事支配します。
日本国内では、満洲「事変」と称して自衛権を主張し、宣戦布告なき武力発動をおこないました。実態は日本軍部の暴走でした。1933年のナチスドイツの誕生に先駆けて行ったその日本の軍事暴挙は、その後の第2次世界大戦へと繋がる第一次世界大戦後の最初の世界戦争への挑発行為でした。1927年、田中義一首相は「中国の征服に満蒙の征服が不可欠であり、世界征服には中国の征服が不可欠だ」とまで述べていました。
1928年当時の日本は国内では、戦争反対を取り締まるため治安維持法を強化し最高刑を死刑に改正しますが、1929年には代議士への右翼刺殺や左翼大検挙が発生、1930年には首相を右翼が襲撃し、1931年には、軍事クーデター未遂も発生する等、当時の日本は完全に軍国主義一色の世の中になっていたのです。
日本政府は、事件の翌日1931年9月19日に緊急閣議で南次郎陸軍大臣が、満州鉄道爆破に対して日本関東軍の自衛行為を行ったと報告しましたが、情報を得ていた幣原外務大臣は、それは日本関東軍の謀略だと反論をしました。一旦は外交で事態を収めようとした日本政府でしたが、21日には、日本関東軍の林朝鮮軍司令官が朝鮮軍を応援のため越境させ満洲に侵攻させたため(朝鮮軍の越境を若槻首相は断ったため、日本関東軍は独断で越境命令を発します。)、22日の政府閣議では、事件の事実認定には目を瞑り、これはもう中国側の挑発行為による「事変とみなす」ことにするしかないという、偽りの決定を(天皇さえも承認をしていない戦争開始行為を)事後的に承認するしかなかったのです。
昭和天皇を中心にした当時の日本政治は、軍部の独走に完全屈服しました。(当時、軍部に協力していった、保守系文人の徳富蘇峰は終戦後に「仮に明治天皇の御代であらば、満州事変の如きは断じて起らず」とも述べて日本が戦争の道に進む発端を満州事変と定めて論じています。)
中国側による挑発行為を捏造して自衛行為と偽った軍事攻撃を日本関東軍は独断で決定し実行し、日本政府は事後追認するしかなかったのですが、日本政府は、これを「事変(非常事態)」といわせました。実質的な軍事行動を「事変」と称したのは、当時の国際連盟規約・不戦条約(1928年)で国際紛争を戦争で解決することが、国際連盟加盟国には禁じられていたためで、日本が国内および国際的な批判をかわすための詭弁でした。日本国内では、暴戻品支那(乱暴な中国)を懲らしめる正義の戦いと偽られました。
アメリカのスティムソン国務長官はパリ不戦条約を根拠に日本の幣原外務大臣に戦線の不拡大を要求し、これに同意した幣原大臣は駐日大使を介して張学良が拠点を移していた遼寧省錦州には軍事進出しない旨をアメリカに伝え、スティムソン国務長官は日本の軍事戦線不拡大方針を記者会見しますが、政府の軍事不拡大路線を無視した日本関東軍は、既に錦州の攻撃を開始していました。この「満州事変」を契機に、日本の協調外交路線は事実上崩壊します。中国東北部への軍事侵略を進める日本軍の暴走の前に日本の政治は全く形骸化して行きました
中国東北部では、張学良が日本人や朝鮮人に土地を貸した中国人を処罰する法律を制定したため、各地で朝鮮人農民が迫害された結果、1930年5月中国共産党の指導のもと、間島の朝鮮独立運動派が武装蜂起し、日本の領事館警察官とも衝突する万宝山事件も勃発していました。
先立つ1928年、張作霖爆殺事件(1929年ソ連は国交断絶を宣告し満州に侵攻(中東路事件)したため、スターリン関与説もありましたが、関東軍の河本大作による犯行が判明しています。)により、中国東北一帯は息子の張学良の奉天軍閥が支配していました。昭和天皇と同年生まれで、20歳の時に日本に来日した張学良は、皇太子であった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれた話などもありますが、大変な親日家でした。満州事変勃発時、日本軍侵攻の報告を受けた張学良は何故か日本軍への不抵抗を現地の東北軍に指示しました。「応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断」「平和解決を望んだということの他に、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろう」等、日本のことを考えたと後日に、日本の報道機関の取材に応じて述べています。
実は、当時は最強といわれた張学良の(瀋陽)奉天軍の警備司令の将軍は実は日本人でした。日本名を荒木五郎といい、もともとは日本・関東軍の陸士27期卒の軍人でしたが、中国大陸での制覇を夢見て張作霖の軍事顧問になっていました。「奉天省では何人といえども戦わしめてはいけない。日本軍はおそらく機会をねらっている」のだとして、日本軍の満州事変に際して無抵抗を指示し、日本・関東軍への発砲を一切禁じたと言われています。
1933年5月31日、河北省塘沽において日中の停戦協定が結ばれるまで戦闘は続きました。その満州事変での戦闘の残虐さについて、日本国内ではあまり報道されませんでしたし、戦後も1937年以降に本格化した日中戦争での残虐行為ほど紹介はされていませんが、わずか5ヶ月の間に満州全土を占領した関東軍の強引な軍事拡大行動には、無数の民間人への無差別虐殺行為も含まれていました。。
例えば、日本では東北部のゲリラ掃討事件としてしか報道されませんでしたが、同年1932年9月16日、連寧省の瀋陽市の隣の撫順市にある撫順炭鉱の近郊、平頂山村において、関東軍は村のほとんどの住民・約3000人を一ヵ所に理由も告げずに集合させ、いきなり機関銃掃射と刀により、その住民の多くの虐殺しました。虐殺死体は、その場で焼き埋めました。その結果、平頂山村は壊滅する事件がありました。この事件の、一部の生存者の訴えにより、事実が明らかになり、国際法違反の残虐行為だ。日本軍による見せしめ虐殺だと、国際非難さえおこりました。
しかし、近年日本は、これは(匪賊(抗日ゲリラ)が満州鉄道の経営する炭坑を襲撃し5名の犠牲がでた事件があったため、その匪賊と通じたとも見られる、平頂山村民達に報復するために、日本軍は発砲しただけで、しかも村の人口は当時1369人であり、約400人を掃討したに過ぎないので、400人程の掃討は虐殺行為と言えなかったと、日本の一部の論者は反論しています。しかし、当時のジュネーヴの国際連盟理事会に、中国側の被害者は死者700名と推定されるとした事件報告がありました。何れにせよ、近年の日本の一部の論者の主張は南京虐殺否定と同様に詭弁のロジックのようです。
終戦後1948年の中国国民政府の戦犯法廷では、平頂山村事件に関して、中国側の日本軍への協力関係者が処分されていますが、虐殺行為の実行当事者であった日本軍の関係者はすでに、全員中国から引きあげ、日本に逃げ伏せてしまったため、日本軍への責任追求は、偶然にも免れてしまった事件でした。戦後の生存者が日本政府に国家賠償を求めた訴訟があり、2006年5月16日に日本の最高裁は国家賠償については棄却したものの、当時の日本軍の虐殺行為についての事実認定を行いました。無抵抗の女性・子供・赤ん坊を含む満州の平頂山の村民達を日本軍が機関銃掃射や刀で無差別に、牛や豚など家畜同然に大量虐殺し、かつ焼き埋めたことは事実でした。
9月18日は日本にとっては、満州軍事「進出」の契機となった日としか戦後日本の日本史では教わりません。P
しかし、中国にとっては屈辱の歴史が開始した国恥日なのです。日本軍の中国大陸への「侵略」の開始日です。J