
日本でもトップ報道扱いでした。中国では江沢民が弔意を表し、天安門に半旗が掲げられ。翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部にも追悼の半旗が掲げられました。
日本では有名人でした。1978年に日本を訪問しています。新日鐵の稲山嘉寛や松下電器の松下幸之助たち経済界の指導者とも多く会談しました。戦中派達は「戦時中は中国に大変迷惑をかけた。万難を排して中国の近代化を支援する」との趣旨を口々に鄧小平に語っただけでなく、その後、誠実に実行に移しました。(かつて「ジャパン・アズ・ア・ナンバーワン」を書いた エズラ・ボーゲル博士は、「当時、鄧小平の時代、中国の近代化に対して、日本ほど中国を励まし、援助した国は他になかった」とも述べています。
「日中の交流は、漢の武帝の時に始まったといわれるが、それから約2000年、短くみても1500年になる。100年は喧嘩状態だったが、1400年は友好的だったのだ。100年の喧嘩は長い間におけるエピソードにすぎないと言えよう。将来も、1500年よりももっと長く前向きの姿勢で友好的にいこう。今後の長い展望でも当然友好であるべきである」この人間的な言葉に戦中派の日本人は癒され感動さえしました。
園田外相に「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきである、近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、それは社会主義ではなく打倒すべきだ」と語り、スケールを超えたその思想に皆驚きました。
「彼は、侵略戦争を起こしたのは日本政府と軍隊の中のひと握りのものであり、広範な日本国民に罪はないと言明された。私は鄧小平氏のこの言葉を聞いた後「親中派」となった(読売新聞・渡辺恒雄)」等、鄧小平は民間人の心も魅了しました。
1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため訪日した際、昭和天皇との会談では予定になかった陛下からの謝罪の言葉に、鄧小平は電気ショックを受けたように立ちつくしました。率直に感動したことを後で語った鄧小平に反日の影は微塵もありませんでした。(1979年にも訪米の帰り道に訪日し奈良などを訪れました。)
平和の希求も強く、(1978年1月にカンボジアに軍事侵攻してポル・ポト政権を崩壊させたベトナムに同年2月「懲罰行為」と称して侵攻する等の中越国境紛争への介入はありましたが)1980 年からジュネーブ軍縮交渉に、また1982 年と1987 年に中国は国連の軍縮問題特別会議にそれぞれ代表を送りました。1985年 3月4日、日本商工会議所訪中団と会見した際は、平和と発展が現代世界の大きな問題であることを主張しています。そして同年、6月4日、中国中央軍事委員会拡大会議で、中国は人民解放軍の軍人を100万人削減するという世界史的にも最大級の軍縮を発表して世界中を驚愕させました。軍事費ばかり増大させて国民経済が破綻したソ連とは両極端の社会主義政策を示しました。(その後も1997年江沢民政権で50万人削減、2003年胡錦濤政権で20万人の削減が実施されています。)
同時に江沢民の1995年の抗日戦争50周年記念から始まる行過ぎた愛国教育に10年先立ち、中国全土に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立、南京大虐殺紀念館を1985年の抗日戦争40周年に当たる8月15日に記念館をオープンさせたのも鄧小平でした。日本人民も日本軍国主義の犠牲者であるとした周恩来の考えに立ち、軍事費を大軍縮で削減して国民生活を向上させた一方で、日本から学んだ平和教育・愛国主義の学校教育を若者に普及するよう指示を出して最初に中国中に広めたのは実は鄧小平でした。鄧小平氏の訪日後、中国から数多くの視察団が日本に赴き、日本からも多くの研究者が中国を訪問しました。当時の中日の官民の各分野・各レベルの交流は活発となり、経済・貿易・技術での協力が進み、中国に一種の「日本ブーム」が沸き起こりました。
中国は1980年までに行なった核実験で新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)の広い範囲の土地が放射能で汚染され、現地に住むウイグル族ら19万人が犠牲になり放射能被害も深刻と言われています。鄧小平時代、初めて反核を志向し1984 年1月に中国はIAEA に加入し、1985 年にはIAEA の査察を中国の民間原子力設備の一部で行うことを承認し、1986 年中国は大気圏内核実験を行わないとの声明を趙紫陽首相が発表し、1988 年IAEAとの協定が締結され1992年3月に中国政府はNPTに署名します。
1979年中国を公式訪問した大平首相からの質問の中で初めて鄧小平が口にしたと言われるのが「小康目標」(ささやかなゆとりのある国民生活)である」という謙虚な言葉でした。その「小康」の概念は、1981年11月の第5回全国人民代表大会や1982年共産党大会において政府方針として確認され、20世紀末までの努力目標とされました。今日の中国もこの小康路線を引き継いでいます。「我々が今世紀中に4倍の経済成長を実現すると打ち出したのは、大平先生の示唆の下で確定したのです」と鄧小平は述べました。
鄧小平の改革開放政策は、不遇な失脚から何度も何度も不死鳥のように奇跡的に復活した自身の人生と中国の近年の奇跡的な経済成長とが重ねあわせられて認識され中国民衆に多くの共感と希望をもたらしました。
四川省で生まれた鄧小平は1920年16才でフランスへ留学しますが、半年で生活費を稼ぐため学校を辞め、鉄鋼工場、レストランのボーイ、清掃など、職を転々と変え田舎町の市立中等学校に一時入学して学び、パリ近郊のルノーの自動車工場で仕上げ工として勤務します。まだ、コミンテルンが世界中で国際共産運動を支援し各国に共産党が次々に結成されていた時代でした、1921年7月には、コミンテルンの主導で北京大学文科長の陳独秀らにより中国共産党が上海で結成されます(結成に参加した毛沢東は北京大学図書館の司書でした。) 鄧小平はフランスの地で20才の時に中国共産党欧州支部に入党します。
同時代のフランスには、周恩来がおり、クロワッサンの店を教えてくれたのは、フランス共産党結成に参加した後の日にベトナム初代主席となる若きホー・チ・ミンと言われています。1974年、中国の副首相として 鄧小平が、ニューヨークの国連総会に出席した帰りフランスに立ち寄り、フランスのクロワッサンを土産として大量に買ったそうです。1981年にミッテラン政権に資本主義国で史上始めて政権参加を果したフランス共産党は根強いソ連派であり、そのソ連への反動からチャイナブームやマオイスト運動がおこったフランス思想界でしたが、鄧小平にとってそんなフランスは青春時代からの憧れでもあったようです。
29才の時にモスクワを経て中国に帰国し、毛沢東らと共に長征に参加します(当時「中華ソビエト共和国」を各地に築いた共産党に対し1930年代、蒋介石の国民政府は攻勢を強め内戦が展開され、共産党の拠点は江西省瑞金から辺地の陝西省延安に移り、長征と称した実質的な軍事撤退・退避の政策を行いました。)
しかし、日中戦争は激化し、戦況は鄧小平らの退避を許しませんでした。日本軍、国民党、そして朝鮮戦争でアメリカ軍と闘うことになります。
日中戦争時代には紅軍の主任として活躍し、日中戦争終了後は、軍事指揮官として国民党軍を撃破して、中華人民共和国の成立に貢献します。そして朝鮮戦争を経て1952年48才の若さで副首相に就任しました。
当時新生中国は国民党との内戦と朝鮮戦争で消耗し、人民公社や1958年の大躍進の経済政策が失敗し、当時の中国の主要産業であった農業の大衰退をまねき、何千万人の飢餓が出る不幸な飢饉の時代(三年自然災害)を迎えます。
ソ連でフルシチョフがスターリン批判をし米ソ平和共存路線採択すると毛沢東は修正主義だとして批判をはじめます。ソ連の平和共存路線で東欧各地でも動揺が発生しハンガリー暴動以降、中国でも知識人たちが自由主義路線を望み始めていました。1957年春、毛沢東は知識人たちに対し、自由に共産党批判をするよう「百花斉放」政策をとります。ところが実際に批判した知識人は1957年から58年にかけて右派闘争の対象とされ、全国で55万人以上が右派分子のレッテルで迫害されました。毛沢東の策略でした。中国政府首脳の劉少奇・鄧小平らが重工業を中心とし工業建設、集団所有制と全人民所有制の強化策を提起したことにさえソ連方式追従なので右派だと批判します。
また1958年から1960年の三年自然災害時では、約2千~3千万の中国人民が栄養失調と飢餓で命を失なったといわれます。毛沢東の指示で中国の鉄鋼生産高をノルマの数字だけカラ増産するため前近代的な全人民製鉄・製鋼運動が全国に展開され、鉄としては使い物にならず需要も考えず、生産量のノルマ数字のためだけの「労働」が浪費されました。製鉄燃料として、大量の石炭が浪費され、農民は、石炭に代わる樹木を伐採し全人民樹木伐採運動が展開され中国全土で環境が破壊されました。粗末な製鉄作業ばかりに農民が従事し、中国全土の農業は衰退しました。
中国全国の農村に人民公社が作られ、家庭生活が統合され集団生活に組織されました。集団生活、集団所有、集団労働で貧しくても平等分配の自給自足の集団生活下で貧困から開放された反面、人民の生産意欲と生産性は低下します。農村では男性は「大躍進」の水利事業や製鉄事業に借り出され、女性が農作業に従事し家事労働や育児労働は、人民公社の公共食堂や託児所に社会化され人民公社に学校施設が建設され教師を雇用し民兵まで組織されました。1958年には「戸籍登記条例」が制定され農村戸籍住民が都市に出かけるには許可が必要となり1961年には農村戸籍住民は都市では職業や食料も自由に得られなくなりました。
(その後、人民公社は解体し、1980 年代後半の都市改革の進展と経済発展で、都市の労働力が不足すると農村戸籍住民は「農民工」として都市部での就業が公認されて農民の出稼ぎ労働が急速に拡大します。しかし農村戸籍住民は都市の公立学校には入れないし、都市の医療保険等も受けられない状況です。2011年に農民工は2.4億人に達し都市部の労働力の3割が彼らに依存しているといわれます。その根源には、農村収入が平均でまだ都市部の3分の1以下と言われる所得格差問題があります。)
飢饉発生にも関わらず人民公社の公共食堂の食事は無料化されたまま大量の食物や貯蔵品が惜しげもなく浪費され余剰物が廃棄されました。毛沢東は衣服等の生活必需品さも無償提供するよう指示しました。やがて公共食堂でも食糧が尽き餓死者が出始めました。統制型計画経済のソ連型経済を口では批判しながら実際はソフォーズ・コルホーズを模倣した無計画な実験政策をとった毛沢東の大失政でした。大躍進政策の結果、工業生産量は異常な水増しで拡大がされた一方農業生産は縮小・衰退しました。また、毛沢東のソ連批判により1960年7月、中国からソ連の技術者が引き上げられ機械部品およびソ連原油の供与が中止されます。建設中のソ連との合同プロジェクトは建設中止に追い込まれ、工業技術と石油をソ連に頼ってきた中国の工業も立ち行かなくなりました。
毛沢東は、1959年国家主席を引退し1960年代には政治の実権を失ないました。1962年中国共産党拡大工作会議では、大躍進の失敗の自己批判さえ余儀なくされました。毛沢東の後継者として第2代国家主席となった劉少奇は、鄧小平とともに市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めます。1962年に人民公社の行き詰まりを議論するなかで鄧小平は有名な「白い猫でも黒い猫でも鼠を捕るのは良い猫」だとの発言をして当時の政策を痛烈に批判します。
しかし、引退しても毛沢東は偉大な革命家として民衆から個人崇拝の対象とされ続けました。やがて林彪と毛沢東とその妻江青をはじめとする四人組(張春橋副首相、姚文元政治局委員、王洪文党副主席)らは、「文化大革命(封建/資本主義文化を批判し、社会主義文化を創生する革命改革運動)」なるものを利用して、毛沢東の権力を復活させる内乱を起こします。
1966年5月以降、文化大革命の推進のため、原理主義的な毛沢東思想を信奉する中学生から大学生までの若者たちによる紅衛兵と呼ばれる団体が結成されました。その後、10代の少年少女の紅衛兵は、文化大革命と証する歌や踊りの大衆運動に熱中しただけでなく、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘さえ繰り広げるようになります。文革中、約1千5百万の学生・生徒が組織され行政機関、企業の現場にまで乗り込み、既存文化を徹底批判し破壊することが改革運動の使命と信じて、無法・無政府状態の闘争運動において、様々な吊るし上げの暴力行動を、大人達に繰り広げます。
飢饉発生にも関わらず人民公社の公共食堂の食事は無料化されたまま大量の食物や貯蔵品が惜しげもなく浪費され余剰物が廃棄されました。毛沢東は衣服等の生活必需品さも無償提供するよう指示しました。やがて公共食堂でも食糧が尽き餓死者が出始めました。統制型計画経済のソ連型経済を口では批判しながら実際はソフォーズ・コルホーズを模倣した無計画な実験政策をとった毛沢東の大失政でした。大躍進政策の結果、工業生産量は異常な水増しで拡大がされた一方農業生産は縮小・衰退しました。また、毛沢東のソ連批判により1960年7月、中国からソ連の技術者が引き上げられ機械部品およびソ連原油の供与が中止されます。建設中のソ連との合同プロジェクトは建設中止に追い込まれ、工業技術と石油をソ連に頼ってきた中国の工業も立ち行かなくなりました。
毛沢東は、1959年国家主席を引退し1960年代には政治の実権を失ないました。1962年中国共産党拡大工作会議では、大躍進の失敗の自己批判さえ余儀なくされました。毛沢東の後継者として第2代国家主席となった劉少奇は、鄧小平とともに市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めます。1962年に人民公社の行き詰まりを議論するなかで鄧小平は有名な「白い猫でも黒い猫でも鼠を捕るのは良い猫」だとの発言をして当時の政策を痛烈に批判します。
しかし、引退しても毛沢東は偉大な革命家として民衆から個人崇拝の対象とされ続けました。やがて林彪と毛沢東とその妻江青をはじめとする四人組(張春橋副首相、姚文元政治局委員、王洪文党副主席)らは、「文化大革命(封建/資本主義文化を批判し、社会主義文化を創生する革命改革運動)」なるものを利用して、毛沢東の権力を復活させる内乱を起こします。
1966年5月以降、文化大革命の推進のため、原理主義的な毛沢東思想を信奉する中学生から大学生までの若者たちによる紅衛兵と呼ばれる団体が結成されました。その後、10代の少年少女の紅衛兵は、文化大革命と証する歌や踊りの大衆運動に熱中しただけでなく、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘さえ繰り広げるようになります。文革中、約1千5百万の学生・生徒が組織され行政機関、企業の現場にまで乗り込み、既存文化を徹底批判し破壊することが改革運動の使命と信じて、無法・無政府状態の闘争運動において、様々な吊るし上げの暴力行動を、大人達に繰り広げます。
1966年8月党の中央委員会全国会議に向け毛沢東の「司令部を砲撃せよ」と題する論文が『人民日報』に掲載されます。権力の再奪回を図るために仕掛けたクーデータ的陰謀でした。劉少奇と鄧小平は「資本主義の道を歩む実権派」の中心として、打倒の標的とされます。文化大革命の開始にあたり、 鄧小平の「白猫黒猫発言」は「主義と方針を持たない実用主義的観点」として厳しく攻撃されます。
1966年8月共産党の中央委員会では、周恩来、朱徳、陳雲といった副主席達は皆地位を奪われれ、人民解放軍派の林彪ただひとりが副主席と決定されます。周恩来、朱徳は政治局常任委員となり、党の権力は毛沢東主席と林彪副主席だけに集中され、劉少奇国家主席や鄧小平は失脚しました。「毛沢東・四人組と林彪」らによる劉少奇政権へのクーデターであり、また、その手段とした毛沢東の文化大革命の洗脳的政策は次第に激化し、無法・無政府状態の大混乱をもたらします。失脚した劉少奇はその後、中国のフルシチョフ、裏切り者、スパイ、スト破り等のレッテルを貼られて、永遠に党から除名されました。劉少奇の冤罪に抗議して刑事処分を受けた者は2万8千人を超えたと言われ、劉少奇は外部との連絡を絶たれた監禁状態のまま1969年に他界します。第11期3中全会において「文革時の死者は40万人、被害者は1億人」と推計されています。
中学生の子供から大学生の青年までの若者で組織された紅衛兵は毛沢東思想宣伝隊として学校や企業の現場に入り、どんどんその組織の指導権さえ握ります。誰もが赤い表紙の「毛主席語録」を絶えず持ち振りかざし造反有理と主張、そこに載っている毛沢東の言葉の記述が「最高指示」であると主張、矛盾論や実践論で否定したはずの教条主義が国を支配し無法の暴力行為が革命無罪と放任され、党自体も統制不可能となります。批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、「批闘大会」のつるし上げが日常的に行われました。知識人のエリートや著名人が三角帽子をかぶらされ町を引き回され、暴行の辱めを受けて自ら命を断つ事例が相次ぎました。「革命委員会」が設立され各地の党からも権力を奪い、上海市や武漢市などでは武力衝突の内戦さえも発生します。1968年以後は秩序回復のため人民解放軍が投入され紅衛兵運動は停止しますが、今度は労働者は農村から学ぶべきである(上山下郷運動)として旧紅衛兵や青年労働者達に大規模な下放(農村での思想矯正)と地方移送が強制され民衆の混乱は継続しました。また、大学等の高等教育は実質的に機能を停止し、大学入学試験もなくなり推薦入学だけになりました。
子供達には毛沢東賛歌と踊りの集団示威行動の文化が強要され、伝統文化や宗教は徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財も破壊され、仏教の盛んなチベットはその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されます。孔子及び儒教も否定されました。伝統や権威が否定され、道徳、倫理は封建・迷信とされ、夫婦は互いの弱点を暴露し、学生が先生を殴り、子が親に反目し、紅衛兵が知識人をリンチして死にも追いやり、造反が正義で物を壊したり殴ったり非人道行為が煽られ、人間性や文化が革命の名で否定されました。
その思想的誤りは海外輸出もされたともいわれます。ポル・ポトは中国からカンボジアに帰国した1966年に農村部での武装闘争準備の方針を打ち出し、カンボジア共産党:クメール・ルージュの思想に修正毛沢東思想の変形を採用し1976年には、中国支援のもとカンボジア政権を奪取します。しかし、カンボジア紛争の内戦に至り大量の虐殺・死者・難民を出しました。(その後ポルポト政権がベトナム侵攻で崩壊した際の1979年のベトナム懲罰の軍事侵攻は復活した鄧小平政権下での失政とも言われます。)
また、内モンゴルでも大量の粛清があったといいます。日本でも1972年2月19日に始まる、あさま山荘事件を起こした日本の連合赤軍の武闘リンチは文化大革命下の修正毛沢東思想がとり憑いた結果ともいわれます。「革命は宴会ではない、文章創作でもない、絵画や刺繍でもない、そんなに優雅で、落ち着き払って、礼儀正しく、優しく、善良で、恭しく、素朴で、謙遜であってはならない。革命は暴動であり、一つの階級がもう一つの階級を押し倒す強烈な行動である!」毛主席語録にも記載された毛の暴動を肯定する言葉は、権威否定のドグマとして平等を求める若者の批判的精神を掴んだだけでなく、多くの集団衝動の暴力の正当化に利用されました。
中国の優れた伝統文化や精神文化が無くなり、形式的唯物論的現実主義、拝金主義、ワイロ主義、個人中心主義等の悪しき慣習だけが残り、文字通り、文化は革命的に変質したとも言われます。例えば、紀元前からの茶の発祥地でもある中国は、お茶文化も豊かで、ジャスミン等の花茶、緑茶(抹茶は明時代に廃れましたが)、紅茶、烏龍茶や白茶青茶黄茶黒茶等の発酵茶など数百種類のお茶が存在していますが、お茶文化は贅沢の象徴として文化大革命で糾弾され茶葉の栽培さえ制限された結果、本格中国茶の伝統文化は中国本土では廃れ台湾や香港が主流となりました。
文化大革命で鄧小平は完全失脚し、1968年64才の時には、全公職を解任され5年間強制労働をさせられます。
鄧小平の家族も文化大革命で迫害を受け、紅衛兵の攻撃目標とされ、鄧小平の長男である鄧樸方は投獄され、取調べ中に4階建てのビルから転落し下半身麻痺となります。鄧小平はトラクター工場で妻と共に工員として午前中は従事し、午後は長男の介護の日々を過ごしました。
しかし、周恩来は、鄧小平の失脚をいつまでも許しませんでした。周恩来に協力して文化大革命後の混乱と闘うことになります。
1970年に文革推進の中心であった林彪と息子の林立果らは秘密組織「連合艦隊」を結成し武装蜂起計画を策定し1971年には毛沢東暗殺を計画します。失敗した林彪はソ連に逃亡する途中にモンゴルで墜落死し、失脚していた実権派の胡耀邦や趙紫陽らが復帰を許されました。1971年国際連合に加盟、1972年から1973年には米中和解や日中国交正常化の準備に活躍した周恩来ですが国内では、林彪の死でさらに大きな権力を握るようになった四人組らに現代の孔子として批判され続けました。周恩来の強い意向で1973年に 鄧小平は遂に批判を受け入れる形で毛沢東に復権を認められ、党中央委貝と国務院副総理の職務に復帰します。
しかしやがて、1976年に周恩来が病死します。追悼で天安門広場に捧げられた献花の撤去に怒った民衆は4月4日の清明節「死者を弔う日」に2万人近くの群衆が集まり、四人組を批判し「インターナショナル」を歌うなど気勢を上げます(第一次天安門事件)。しかし四人組は党中央を動かし、これを反革命行為とみなし、広場を包囲した武装した民兵・警官隊が学生や市民を襲撃します。388人を逮捕し、死者はゼロと発表されましたが、実際の犠牲者や逮捕者は不明とも言われます。
天安門に集まったデモの学生や市民は四人組を批判しただけでなく鄧小平を支持していました。そのため、鄧小平はこの第一次天安門事件発生の責任を問われることになり、全ての党職務を解かれ再度失脚させられます。
しかし、民衆は、鄧小平の再失脚を認めませんでした。改革解放の政策を掲げて中国国民の生活の向上のために闘うことになります。
四人組を批判した民衆の北京の動きは、しだいに中国全土に広がりました。毛沢東が1976年9月9日に亡くなり、毛沢東の権威を失うことになった四人組は、次第に広がる民衆からの批判に危機感をいだき、党の軍事権力を奪おうと画策しました。四人組が牛耳っていた上海の文革派民兵の武力増強を図かり「反革命暴乱防止実施案」を作成しクーデター訓練さえ行っていました。毛沢東が逝去すると、早速、党中央との連絡を断ち、軍の砲台明け渡しを要求するにいたり、党と対立し、10月に四人組と江青らは、華国鋒首相のもと8341部隊に逮捕されます。翌年1977年党十期三中総会では、四人組の党籍は永久剥奪されます。そして鄧小平の地位の再復活も決議されました。
再復活した鄧小平は中国革命本来の思想に国政を起動修正していきます。1980年2月には故劉少奇国家主席の名誉回復も果たしました。1981年には文化大革命を内乱として総括し、封建思想残存の影響がもたらした毛沢東個人崇拝の弊害も指摘します。また、国内政策では階級闘争路線を否定し、農業に1978年生産責任制を導入、1982年には人民公社の解体を決定、集団農から個別農家経営に切り替えて農業生産性を回復させていきました。工業では国営企業が数を減らす一方で郷や鎮の地方自治体共同所有形態の郷鎮企業は増加し1984年には郷鎮企業に個人や私営企業としての形態も認められ生産性も向上します。また合弁形態で外国資本を受け入れ、1980年には深、珠海、汕頭(広東省)、厦門(福建省)の四つ地域に経済特区が創設される形で市場経済が導入されます。その後、沿海14 都市に対外開放の経済技術開発区や開放区が設けられ地域を限定し市場経済が発展します。
これらの鄧小平の開放改革路線はやがて高度経済成長に中国を導きます。(開放政策は私有財産の保護にも及び(土地は公有ですが)土地使用権の私有(1980年)や有償譲渡(1988年)も認められ「公民の合法的な私有財産は侵されない」「国家は公民の私有財産権と相続権を保護する」(2004年)と中国憲法は規定しました。また、1982年に発布された中華人民共和国憲法では全人代の末端における郷鎮政府制度が復活、各地域各階層の人民代表(人代)を選ぶよう になりますが、農村特有の問題があるため村長の直接選挙が1991年に吉林省の平安村を皮切りに広がり、1998年に制定された「中華人民共和国村民委員会組織法」により、村長レベルでの直接民主主義制度も一応法制化されました。
一方、ソ連では1973年ソルジェニーツインが『収容所群島』を西側で公表し、レーニン革命後のスターリンの粛清政治と虚偽で成り立った国の実態が暴露されていましたが、ソルジェニーツインに愛がないとも批判されたソ連社会は腐敗政治だけでなく経済も行き詰まり(1987年にはソ連のGDPは遂に日本に抜かれ世界3位に落ち込みます。)遂に1985年改革を目指すゴルバチョフが書記長に就任して1986年ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)への改革路線をソ連は打ち出します。中国でも1981年に党主席(主席制度は廃止)1982年に総書記となった胡耀邦が言論の自由化を推進し、ゴルバチョフのように改革路線を打ち出し国民から多くの支持を集めました。鄧小平は第13回党大会で中央顧問委員会主任を引退し、自分のあとは胡耀邦に継がせて政治の世代交代しようとします。しかし、1987年にその胡耀邦総書記は保守派から批判され失脚させられてしまいます。その後、1989年4月15日、失脚した胡耀邦が病死した際の追悼をきっかけに民主化を求める学生たちは天安門広場に集まり、抗議運動を行いました。続く五・四運動の70周年記念日1989年5月4日には北京に学生・市民10万人が押しかけデモと集会を行ない抗議運動は次第に拡大していきました。
(天安門事件の契機となる胡耀邦総書記の失脚には、実は日本の政治が大きく関わっていました。胡耀邦に対する保守派からの追求は、集団指導原則に対する違反と政治的原則で自由化しすぎたことでした。胡耀邦は、1983年11月に日本を訪問し中曽根首相と友好関係を築き日中友好四原則を確立しました。日中間の相互理解を深めるための青年交流事業なども行いました。しかし、中曽根首相は実は右翼政治家で1985年には靖国神社を公式参拝したことが中国で大問題となります。胡耀邦の判断の誤りとして非難される一因となり、日本の青年3千人を中国に招待したことも集団指導原則に反する独断行為として失脚の理由に挙げられました。
(中曽根首相は、1985年に「公式参拝はしないとしていた政府統一見解」を変更して公式参拝(閣僚を引き連れて玉串料も公費から支出)を復活させ憲法の政教分離に反していると日本国内の左派から訴訟が起こされました。)
胡耀邦は学生や民衆の味方でした。温家宝も当時の学生達同様に失脚させられた胡耀邦を「師」と仰いでいた一人といわれます。後に温家宝は毎年旧正月の時期になると胡耀邦の居宅を訪問し、胡耀邦の肖像画を見ることで仕事の原動力になるとまで語っています。
国内の言論の自由化を推進しただけでなく、胡耀邦は民族問題についても人道主義に徹していました。1980年5月29日胡耀邦は中央書記処総書記時代にチベットを視察しますが、中国のチベット政策の失敗を表明して謝罪しました。政府にその責任があることを認め、「中央政府は今まで数十億元をチベットに費やした。チベット自治区はどこに使ったのか。川に投げ捨てたのか。」とチベット自治区政府を批判しただけでなく、「中国中央政府の政策がチベットの現実に合わなければチベット人はそれを拒否し、廃止する権利を持つ」とまで表明し、チベットの惨憺たる有様と歴史に涙し謝罪しています。(文革で破壊されたチベットの寺院は胡耀邦政権の1980年代以後に復興されました。)
温家宝は2010年の回想記で「『民衆の苦しみを子細に観察し、直接の資料を把握しなければならない』という言葉が耳に残る」「清廉潔白で親しみやすかった姿が今でも懐かしさとともに思い浮かぶ」と述べています。胡耀邦の死去の際に、入院先に真っ先に駆けつけたのは若き温家宝でした。葬儀ではひつぎを墓地まで運んだ一人でした。)
1989年は5月にゴルバチョフが中国を訪問することとなり、中国はソ連との国交正常化を宣言しますが、民主化と不正是正を求めて天安門に集まる学生たちの行動は日々激しくなりました。経済成長に伴う物価高騰により青年の生活が困窮する一方で「太子党」(高級幹部子弟)達は生活必需物資を隠匿し暴利を貪るなどの不正を行っていることが暴かれ青年・学生の怒りの火に油が注がれました。
1987年に胡耀邦の後任に総書記となっていた趙紫陽も胡耀邦と同じ実権派であり、胡耀邦と同じく学生や民衆の味方でした。1989年の五・四運動70周年記念式典では、天安門で起こった学生たちのデモに対して、学生の愛国心を評価する発言をしました。 翌日の5月4日アジア開発銀行理事会総会でも「我々は学生たちの理にかなった要求を民主と法律を通じて満たさなければならない」「わが国の法制度の欠陥と民主的監察精度の不備が腐敗をはびこらせてしまった」と中国政府が率直に反省している発言を行いました。またカナダ訪問中の全人代委員長万里の「改革を促す愛国行動」との発言が5月17日付新華社に報じられました。
しかし、これらの発言で中国全土の学生達はいっそう加熱し、中国各地の若者が天安門のデモに向かい、天安門の一部の学生は若き命をかけて抗議のハンストを決行することになります。
1989年5月17日夜、ゴルバチョフが中国訪問の公式日程を終えて帰国したことを受け中国政府首脳5人による常務委員会が開かれ「戒厳令」を発令することについて話し合われました。常務委員会で趙紫陽総書記と胡啓立が反対、李鵬首相と姚依林が賛成、喬石が棄権したため結論が出ず党中央は分裂します。李鵬首相ら保守派は党中央顧問委員会主任を既に引退していた長老 鄧小平を呼び出し、鄧小平に事態を誇張して報告したとも言われます。党中央の再会議が行われた結果、ついに5月19日に北京市内に戒厳令を敷くことが決定されました。鄧小平は「犠牲は最小限にとどめなければならないが、多少の流血への覚悟も必要だ」と発言し戒厳令を容認したと言われています。(戒厳令の強行策を導いた李鵬首相は1993年に「日本などという国は20年後には消えてなくなる」とオーストラリア首相に語ったことでも有名です。)
同年3月5日にはチベットのラサ市内で数百人のデモによりチベットの独立運動が発生し、武装警察はこれを鎮圧したものの、その後もデモ参加者は数千人にのぼり、暴動化へ向かうデモの拡大が収まらなかったことから、3月7日に当時まだチベット自治区党委書記の職にあった胡錦濤が、中国現代史上初めての「戒厳令」をラサに布告して軍事鎮圧を図り、暴動の沈静化に成功した実績がすでにありました(しかし、多くの犠牲もあったと言われ、チベット族は中国統治の政策に抗議し最近は焼身自殺する僧侶が後を絶ちません)。
(一方、最後まで天安門の戒厳令発令に反対した趙紫陽総書記は辞意を表明しました。そして5月19日午前5時頃、若き温家宝を引き連れて抗議のハンストを天安門で続ける学生達を見舞っています。「学生諸君、我々はもっと早く来るべきだった。皆さんに申し訳ない。」とハンドマイクで訴えました。(温家宝は当時の行動の自己批判をその後迫られ、趙紫陽総書記については6・4事件と同様に、今日まで再評価されていません。)
しかし天安門のデモは収束しませんでした。5月19日には決定どおりに戒厳令が布告されました。(その後、趙紫陽は、当時の行為が「学生の動乱を支持し」「党を分裂させた」として全役職を解任されその後自宅軟禁下に置かれ、政治の表舞台から完全に姿を消します。後に、 鄧小平から出された「自己批判して政治復帰を」という3回の手紙に対し、趙紫陽は「当時の自分の戒厳令反対行動は信念に基づいたもの」であるとして生涯にわたって政治への復帰を拒否しました。)
戒厳令に反対して辞職表明した趙紫陽は、党はまだ、引退したはずの鄧小平が絶対的な決定権を掌握していると5月20日に、戒厳令決定の経過を暴露し、5月23日には戒厳令布告に抗議した学生・市民は、ついに北京市内で100万人以上と言われた最大規模のデモを行ないました。戒厳令で自体は益々悪化しました。中国政府からの戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとした西側諸国の政府は、武力衝突や国の崩壊さえ予測し在中関係者に国外脱出を促しました。
1989年6月4日に戒厳令に基づき中国人民解放軍は暴走するデモ隊に対し、武力介入を行います(第二次天安門事件)。当時は、市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺したとのうわさが出ました。しかし、当日最後まで現場に残っていたスペイン国営放送の記者、レストレポ記者は、撮影した映像を証拠に「少なくとも天安門広場内では、人民解放軍による虐殺はなかった」と主張しています。一昨年ノーベル平和賞を受賞した劉暁波氏も、「広場内で、人民解放軍が学生にむけて発砲したり戦車でひき殺したりしたのは全く見ていない」と断言する一方、中国で障害者アスリートとして活躍した方政氏は「戦車に轢かれたとは言うな」との口止めを大学側に当時されていたとアメリカ亡命後に証言しました。
中国政府発表の319人の犠牲とは決していえないような大混乱でした。死傷者がどれだけでたかは実際のところ不明です。(一方、ウィキリークスが2011年8月に公開した米外交公電では発砲で1000人以上の学生の犠牲が出たとの通報があり。当時のソ連共産党政治局報告では犠牲者は3000人と推定しています。学生側発表では約1万名とされます。)虐殺の有無に関わらず多数の死傷者や逮捕者や亡命者を出した大事件であることは中国政府も否定できない事実でした。人権無視の暴挙として西欧諸国は一斉に中国を批判し、経済制裁を加えました。また、(1959年のチベットのラサ市民武装蜂起の時にインドに亡命してインド北東部ダラムサラにチベット亡命政府を樹立し中国政府と対立を続け)中国の人権政策を批判し続けるダライラマ14世に対して1989年のノーベル平和賞が授与されました。
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1989年6月4日の悲劇(第二次天安門事件)の責任を踏まえた11月の共産党13期五中総会において、 鄧小平は中央軍事委員会主席辞任の求めに同意し、翌年1990年 3月、第七回全国人民大会で、辞職が承認され政治から完全に引退します。そして天安門の学生運動が波及した上海市で平和裏に運動を収束させた江沢民が中央軍事委員会主席を鄧小平から引き継ぎました。(上海市を流血から回避させた功績は江沢民に代わって上海市を取り仕切った朱鎔基と言われます。終息にむけテレビ演説で「歴史的事実は誰も隠せない。事実の真相はやがて明らかになるだろう」との発言が朱鎔基からありました。)
民主化運動は挫折しましたが、中国の学生・青年達が「インターナショナル」や「一無所有」を歌い自由と民主主義を求めた魂は東欧共産諸国に引き継がれました。天安門広場付近の発砲時、多くの青年は、落ち着きを取り戻すと、また「インターナショナル」を歌って次々に表に出ていきました。銃弾の惨劇にも戦車にも、自由を求める共産圏の青年達が立ち向かって行った天安門のニュース報道は、東欧における民主化運動の火に油を注ぎ、同時に非暴力の理性さえ東欧諸国の共産党に確保させたと言われます。
1989年の天安門事件から、東欧における民主化運動は無血の勝利を次々結実して行きます。中国の天安門の民衆の犠牲は当時、西側社会では非難報道と経済制裁を起こしただけでしたが、東側社会に大きな精神的影響を及ぼしました。民衆が自由に目覚め始めていた東欧諸国では、多くの東欧の共産政権は中国の民主化革命挫折にも触発された結果、理性と平和を堅持し、様々な形で民主化が急激に実現しました。
天安門悲劇の直後の1989年6月18日のポーランド選挙では統一労働者党(共産政党)がついに敗れ、複数政党制の新生ポーランド国家が誕生しました。
1956年に民主化を求めた動乱がソ連の軍事介入で潰された歴史を持つハンガリーでは、既に政治の自由化・改革が一定程度進んでいました。1989年5月にはオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網の撤去を行なう等、開放政策が進み、ハンガリー社会主義労働者党(共産政党)政権下で民主選挙も実施されていました。選挙で勢力を失い続ける共産党は1989年8月に政権を放棄します。同年10月に多党制の非共産政権がハンガリーに誕生します。
その、ハンガリーで1989年8月19日に「汎ヨーロッパ・ピクニック」事件(ハンガリーのショプロンの民主化政治集会に参加した1000人程の東ドイツ市民が、西ドイツに大量亡命を果たした事が契機となり、ハンガリー経由での東ドイツ出国が公然化「=ベルリンの壁が有名無実化」してしまう事件)が起こり、対応策の東ドイツ旅行自由化法案を背景に同年11月10日には、東西ドイツ民衆の手によりベルリンの壁が破壊される様子が世界中に報道されました。中国政府の天安門の武力弾圧に公式に支持表明さえした東ドイツのホーネッカー政権(ライプツィヒの10月反政府運動「月曜デモ」への武力介入を回避しましたが)は完全失脚します。ホーネッカーの退任後にベルリンでは天安門にも負けない程の約100万人規模での反体制・民主化デモが発生します。そして1990年3月に実施された東ドイツ初の自由選挙では、東西政府の統一政策案が支持され、同年10月、西ドイツに吸収される形でドイツの平和的統一が成し遂げられます。
チェコスロバキアでは1989年12月のゼネストを背景にチェコ共産党が複数政党制の自由選挙を実施した結果、非共産党新政権が発足します。
天安門事件の1989年、東欧革命とも呼ばれた共産国家内での政権交代や民主化運動が東欧共産主義諸国に相次いで発生し、戦後長く続いた、プロレタリアート独裁の政治を東欧の民衆は自ら終焉させ、自由選挙による(共産党も含めた)多党制の民主国家に急速に生まれ変わります。
アジアでもモンゴルで1990年に複数政党制による自由選挙の大統領制と議会制が導入され人民革命党(共産政党)は非共産野党と連立する共和国へと平和移行しました。
(しかし、急速な自由化・民主化が必ずしも、評価されない国もありました。1989年12月ルーマニアのチャウシェスク政権は、東欧で唯一、中国と同様に戒厳令を敷き、武力・流血の民主化運動鎮圧を強行し独裁政治を維持しようとしました。チャウシェスク首相はワルシャワ条約機構軍による軍事介入をソ連に要請さえしました。しかしゴルバチョフはこれに応じませんでした。結局、チャウシェスクの武力弾圧に対してルーマニア民衆と軍隊は救国戦線を結集して、古典的な流血革命的手段で民主化革命を起こし新政権が樹立されました。しかし、民主化革命10周年に当たってのルーマニア国内の世論調査では、6割を超える国民が「共産党政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答える程、流血革命後のルーマニア経済は停滞しました。
また、東欧の中では、唯一、反ソ親米で西欧と交流も盛んで、国際社会でも非同盟中立運動を牽引するなど独自の政治力を発揮し、経済でも優等生と言われたユーゴスラビアにおいては、ユーゴスラビア共産主義者同盟(共産党)が1990年に、理性的な自由選挙を実現した結果、各民族別の非共産国の共和国に分裂しました。1991年から、分裂した共和国同士の民族戦争の悲劇が発生し、その後10年に渡って共和国間で、流血の内戦悲劇が繰り返されました。ユーゴスラビアでは多民族統一を指導した英雄チトーが他界し、さらに共産党による統一までも放棄して国の求心力が失われた結果、多民族間の対立が復活し、民族戦争の内戦の悲劇を招いたとも言われました。)
東側諸国の相次ぐ民主化の動きを受けて1989年12月3日にかけて地中海のマルタでソ連のゴルバチョフとアメリカ大統領のブッシュが会談し、東西冷戦の終結が宣言されます。
しかし、ゴルバチョフ政権のソ連は、バルト三国に発生した民族主義の独立要求に武力鎮圧をしますが、東欧の民主化の影響を受けて、ソビエト連邦からの自立を求める各民族の15の共和国ではソ連邦脱退・独立の要求が一層高まっていました。1990年7月に開催されたゴルバチョフ政権のソ連共産党大会では、長年に渡りプロレタリアート独裁の名の下で人民が所有と権力から阻害され、専横と無法状態と自然の乱開発がもたらされたと自己批判し、ソ連の国家と共産党による過去の誤りを認めました。そして「ソ連共産党は政治的・思想的独占体制、国家・経済運営の機能の代行を断固拒否する」として共産党と国家を分離する原則も宣言し、ソ連共産党自ら、政治独裁体制の放棄を宣言するにいたりました。危機感を抱いた保守派のソ連共産党主要幹部は、反ゴルバチョフのクーデターさえ起こしますが、失敗に終わります。1991年暮れに、ついにゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任すると同時にソ連共産党中央委員会自体の解散を勧告します。
ソ連共産党を中心としたソ連の各共和国体制が自己崩壊するに至り、米ソの2大覇権国の軍事競争も完全に終わりをつげます。
1990年から香港では、天安門の悲劇の記念追悼デモが毎年6月に実施されていますが、東欧に波及した自由と民主主義を求める変革のうねりは、中国の天安門には遂に戻ってきませんでした。1989年六四騒動の後、西側諸国は中国の悲劇を人権侵害と非難して経済制裁しただけでなく中国など東側政権は崩壊させるべきとしました。実際に東欧諸国は民主化で混乱し、ソ連も自己崩壊して解体しました。更に次は中国だとも言われましたが、中国は崩壊しませんでした。
天安門事件で疲弊した中国は、経済制裁を乗り越え(実は当時の最大の援助国は「日本」で中国への経済制裁を1992年秋に真っ先に解除した国でした。)東西冷戦時代の終焉の中で、その後、中国は日本などの支援で高度経済成長をつづけます。
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2009年6月4日15万人キャンドルデモ
その後、政治からは完全引退した 鄧小平でしたが、1990年代初期に保守派は改革開放路線政策に対して「姓資姓社」(中国は社会主義なのか、資本主義になるのか)と疑問を提起して権力闘争が画策されました。そしてソ連が1991年末に崩壊した1カ月後、1992年の初め、その年の秋に予定されていた第14回党大会では、共産党内では保守化路線回帰の人事さえ予定されました。
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2009年6月4日15万人キャンドルデモ
その後、政治からは完全引退した 鄧小平でしたが、1990年代初期に保守派は改革開放路線政策に対して「姓資姓社」(中国は社会主義なのか、資本主義になるのか)と疑問を提起して権力闘争が画策されました。そしてソ連が1991年末に崩壊した1カ月後、1992年の初め、その年の秋に予定されていた第14回党大会では、共産党内では保守化路線回帰の人事さえ予定されました。
情勢は、 鄧小平の引退を許しませんでした。
引退した当時87才の老兵は人生最後の闘いとして改革開放路線の啓蒙活動を展開します。
ソ連崩壊の翌年1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて突然、 鄧小平は南部の経済特区など各地を視察訪問し、各地で南巡講話を実施します。各地で「発展が絶対的道理だ。」と語り、経済特区の反対者達や保守派を批判し「改革開放に反対するものは誰だろうと失脚する」として痛烈な保守派批判を加えて、たとえ社会主義下でも市場経済を発展させることで改革開放は成功すると展望を示しました。この突然の啓発活動は、ソ連崩壊で動揺する党内で、改革開放派の巻き返しをはかり、保守派を押さえ天安門事件後に尚続いた党内の路線対立も収束させ、改革開放路線を継続・確定するために決定的な役割を果たしました。
引退しても闘い続ける 鄧小平は中国民衆にとってはなお英雄であり、その講話での発言は影響力を発揮しました。(そして、改革開放路線の確定した中国に対して1993年頃から日本を先頭にして香港や西側諸国に対中投資ブームが始まります。南巡講話後の10年で中国の経済規模は3倍以上拡大し、世界貿易機関にも加盟し、その後の10年間で5倍以上にも拡大したと言われます。 )
1997年、死去にあたり「告別式は行わない。遺骨は海にまく」との遺書が家族から公表された結果、当時の中国各地の市民生活は平常どおりに平和に営まれました。主席や首相には一度もならなかった 鄧小平でしたが、実質的には毛沢東にも劣らない権威を持った中国の現代史上最後の英雄の死に多くの民衆が静かに涙しました。