いまさらだが、「生きる力」という表現はやはりおかしいのではないだろうか?
この言葉が出てきたとき、変な表現だなと思ったのだが、普通に使われるようになってしまって、だんだんその違和感は麻痺してしまったのだが、やはり考えてみるとおかしいと感じてしまうのである。
「生きる」というのは、もともと生命を保っている状態を指す言葉ではなかったか。当然、ここから生計を立てるといった意味が派生してくるのだが、「生きる」というのはもともとは、自分の力でどうこうできるものではなく、なにか人間の力を超えたものによって、それは自然かもしれないし、神と言う人もいるだろうが、そのようなものの力によって生かされているというのが、本当のところではないだろうか。
私が中学校の時の校長先生が、しきりに講話などで「生かされる身の尊さ」というお話をなさったが、当時はその意味がはっきりとは理解できなかったが、歳をとってくるとその言葉の重みが理解できてきたような気がする。
日本では、昔から生死は無常であり、人の力ではどうしようもないものと考えてきたように思う。だからこそ、生きていることに感謝し、命を愛おしむべきだと考えてきたように思う。
だから、「生きる」という言葉と「力」という言葉をつなげる感性にどうも違和感を感じてしまうのである。
「生きる力」という言葉が使われだした頃、通勤電車のなかで二人のサラリーマンが「生きる力っていったってなあ、力があろうがなかろうが、生きていかなきゃならないんだよな」と話しているのが聞こえてきたが、まさにそのとおりなのである。
「生きる」ことと「力」を結びつけるべき状況としては、瀕死の人が命の火を保ち続けているような状態のときであって、教育の世界にはふさわしくないのではないか。
教育は「生きる」ことには関わってはいない。西洋の先哲の言葉を借りれば、「よく生きる」ことにこそ関わっているのである。そして、「よく生きる」ために必要なのは「力」ではない。「徳(アレテー)」である。
そして、現代日本のような格差社会においては、自助努力ではどうにもならぬ部分が増えるばかりで、一方的に自助努力を促すのは、自己責任論の暴走が想起されて不愉快に感じています。
現代は、むしろ後者の他力論を教えた方が生きやすくなるのかもしれませんね。