ついでだから長いけれど、これまでの経過を書いておきます。
私が病気を患い始めたのは、2009年10月ころから。
この時期は全くの無自覚でした。今から思えばこの頃だろうということになります。
【持病:アトピー性皮膚炎・花粉症・慢性じんましん・片頭痛】
慢性じんましんを持っていて、2008年1月から悪化していたのです。何かあればすぐに肌が真っ赤に腫れてかゆくて仕方が無いと。慢性じんましんは何らかのアレルギー症状を持っている人(私はアトピー性皮膚炎や花粉症あり)がストレス等に寄って発症しやすい病気なので、普段からストレスはそれなりにあったのでしょう。皮膚科からアレグラという飲み薬とアンテベートという塗り薬を処方されています。アレグラは花粉症やアトピー性皮膚炎の緩和にもつながるので全部兼用ということになります。
片頭痛は年に2~3回、おう吐を伴い、暑さと寒さの感覚がおかしくなり、身体は暑いのに冷や汗がダラダラと流れます。脳神経外科からイミグランという薬を処方されています。
【無自覚時期:突発性難聴と顎関節症予防】
さて、2009年9月に、それまで13年半ほど同じ部署にいたのだけれど、異動で別部署(と言いつつ隣の部署)に。これは特例処置の一つで辞令無しの異動というもの。当時の上司(部長)の采配一つでできることで、そんなことするなら辞令有りの辞令にしろよ!と不満有り有り。
そもそもその部長とは折り合いが悪かったし、当時の上司(課長)は本当にクズだとしか思えなかった私には、こんな部署には居たくない、関わりたくない、早く異動したい、という気持ちが本当に強かったわけです。
で、異動直後に右耳が突発性難聴に。耳鼻咽喉科でメニエール病を疑われ、イソバイドという薬を処方されたのだけれど、難聴は一向に治らず、薬の味になじめず、仕事になじめずで、うっかりリストカット。夫(MIFさん)に早期に発見してもらったので10日間くらい傷が残ったくらいで、病院にも行かずにいました。
この頃は生きているのがやっとという気持ちが強くて、難聴が治らなかったらどうしよう…と不安が強くて仕方が無かった時です。
2009年12月に耳鼻咽喉科で、治療の中止の意思を医師に伝えました。
医師も薬が効いていないし、本人の意思(飲みにくい薬なのに効果を実感できない)があるから治療を中止しましょうとなりました。
そして丁度このころ、歯科で歯の治療を始めたところ、歯科医から「顎関節症の疑いがあるので、寝ている間にマウスピースを装着してみたらどうですか?」という提案を受けてマウスピースを制作。寝る時だけマウスピースをして寝ることに。
新しい部署や仕事にもだいぶ慣れ始めていたけれど、どうせ春には辞令有りの異動なんだよな~と何とも宙ぶらりんな状況のもとに仕事をしている訳で、将来どうなるんだろう~と不安はまだ抱えているわけで。
2010年2月頃になると、なんか音がハッキリ聞こえ始めているような…右耳の難聴は多少残っていても、以前よりもよく聞こえるようになってきました。歯科にマウスピースのメンテナンスに行ったときに「元々右耳に少し難聴があったのですが、それが改善した気がするのだけれど、マウスピースとなんか関係ありますか?」と尋ねてみました。すると、「顎関節症の影響で難聴だった方が、マウスピースの使用で改善する方もいると思います。あなたの場合は右顎のずれがありましたから影響はあると思います。耳鼻科を受診してみては?」ということだったので、再度耳鼻科へ。
聴覚検査をしたところ「以前より改善していますね。顎関節症の予防が役立っているのかもしれないので、そのまま続けてはどうですか?」ということでした。こういうとき、医師同士が連携していると助かるんだけれどなぁ~総合診療ってしてくれないものだろうか~って内心思っていたりしました。
さてこの頃になると異動先のことを考え始めました。4月には新しい部署に異動だと。そこで、丁度仕事上で関わりの深い部署に元上司2人がいる部署(室)がありました。その室長は2年前まで上司(課長)で、もう一人は定年後に嘱託で働いている方でしたが、4年前まで上司(部長)だった方。この方たちとはチームワークよく働いていたこともあり、自分の身の振り方をちょっと相談したところ「4月からうちの部署においでよ」と言ってくれていました。
そううまく辞令が出るとは思っていませんでしたが、その部署に行けたらいいな…とは思っていた次第です。
【下り坂1期】
2010年3月。
異動辞令がでました。やっとこの部署とおさらばです。が、しかし、元上司たちが居る部署ではなく他の部署。まぁ、異動はできたのだから…と思っていた私ですが、その部署の中でも絶対に行きたくなかった課に所属…なんていう不幸でしょう。
その部署(部)は、自分で行きたいと思っていた課があったのですが、同時に絶対行きたくないと拒絶していた課もあったわけです。
一縷の望みをかけていたのですが、その「拒絶していた課」に所属してしまったのです…。
後日談で元上司たちが居る部署の室長が、人事部署にかけあって4月に私をその部署に異動することを内諾してもらっていたとか。どこから茶々が入ったのかは知らないけれど(想像に難くないけれど)、実際には私の異動は別部署になったわけです。
2010年4月。
新しい部署での仕事が始まりました。もうこの部署に来ただけで気持ちガクーンなのに、初っぱなから午後10時過ぎまで残業。これまで1か月でせいぜい10時間くらいしか残業がなかったのに、配属2日目で10時間超。ナニコレ?
しかも上司(課長)が「女子社員が午後10時以降まで残業なんておかしいから」ということで、残業は「午後9時30分」までしか記録させないというもの凄いことを言い始めるわけ。
なぜ、そこまで残業するのか…という理由は以下のループ。
基本情報:上司(課長)は仕事が遅い、理不尽に怒鳴る、自分が正義
上司が昼間出かけていて書類チェックができない→午後5時から書類をチェック→部下に書類の訂正をさせる→書類再チェック→前回とは違うところで再度訂正&やっぱり元に戻して等→書類再々チェック→(このやりとりが約5回)→OKがでるので印刷→「やっぱりここ直す」と言い始める上司→(堂々巡りが…)
そして課長は自分が「部下を育てる」を名目に理不尽に怒鳴り散らす人でした。幸い、私は怒鳴られることはありませんでしたが同僚がどうみても理不尽に怒鳴られているのに対して、自分はどうにも助けられず申し訳なさでいっぱいでした。自分も仕事のことでいっぱいいっぱいで助けられない無力感にさいなまれていました。
ってなことで、しかもこれは内勤仕事なわけで、他にも実務を抱えていて体力仕事もあったりして、1か月後のGWにはボロぞうきんな自分ができあがっていました。
2010年5月。GWが開けたら立派な5月病の自分が居ました。
上司(課長)に退職の意思を伝えました。できれば早く退職したいから今月もしくは来月で退職したいと。
課長にしてみれば青天の霹靂で、考え直せの一言。
でも仕事量は減らないどころかますます不毛なやりとりばかりで、疲れが全然取れません。食欲もどんどん落ちてきます。
MIFさんにも相談したけれど、好きにしろとのこと。これも私には冷たいなぁ~としか受け止められないのです。しかもMIFさん、私が落ち込んでいるとどこかへ連れ出すというのをしてしまうのです。MIFさんにとってはよかれと思ってやっていることだけに、本人には言えなかった、迷惑だなんて。平日の疲れに休日の疲れが追い打ちをかけていて、慢性疲労と片頭痛と慢性じんましんの悪化の一途をたどります。片頭痛の薬、イミグランは高価ですが、1週間で4錠飲んでしまうほど。市販薬のノーシンなどでごまかすものの、1か月で40包入り1箱を飲みきってしまったことで、どう考えても薬物乱用だと自覚する状態になりました。
2010月6月。多少の持ち直しがあったものの、体調は相変わらず悪く、会社の役員から「久々に見かけたらやせすぎ。どうした?」と言われるようになりました。上司(課長)が「私が悪いわけじゃありません。彼女はやせてませんよ」と言い訳しているのを見て内心「お前(課長)が仕事できないのをひっかぶってんだよ!」と思っていたわけです。この頃になると新しい職場の非協力体制にも嫌気がさしていたし、私自身も仕事がうまく回っていない自覚があったのです。もともとの対人スキルはそれほど高くないこともあるけれど、こんな所に居たくないという思いが何しろ強くて毎日やめたい、やめたいって。でもやめたらどうやって生きていけば良いのだろう…とも。経済的な理由が大きな原因かな。今の住まいのローンもあるわけで、どうやって生きていけば良いのかとか考えられなくなっていたわけです。
そして、仕事中に職場の社員に「お前にこの仕事ができるわけ無い」と耳元でささやかれました。この社員は人格に多少(?)問題を抱えていて、その社員と関わったせいで退職に追いやられた方も1人や2人ではないと知っていたし、顧客にものを投げつけたこともある人と聞いていました。
その一言が頭の中がグルグルといっぱいになってしまい、その日の午後、電車移動中に駅のホームでフラフラと線路に近づいてしまいました。気がついたら、ホームには電車が入ってきたところで、私はホームに尻餅をついていました。知らないサラリーマン男性が私のバッグの肩紐を引っ張って止めてくれたのです。その男性は「何があったか知りませんが、何やっているんですか!」と一言残してその電車に乗って去って行きました。彼が助けてくれなければ、私は今頃、後遺症が残るような大けがをしていたか死んでいたことになります。
当然、その日は仕事をする気にはなれなかったのですがそれでも仕事をしなければなりません、何事もなかったかのように。
悪いことは重なるもので、次の日、課長から「仕事続けるの?やめるの?」と聞かれました。私は「やめます」と答えると、課長は「今から退職届を出しても、早くても8月だから。でも人が足りなくなるから9月ね」と言われます。
死にたくない、と必死に思う私には「今すぐやめたい。がんばっても6月末。それでないと生きていられる自信がない」と。どんどん身体が重くなる自覚と同時に、頭痛と食欲減退で気力が持ちません。早く退職届を出せという課長。自分にはその退職届を書く気力もなく、白紙の便せんを前に何をどうしたらいいのかも分からない混乱をきたしていました。
たまたま人事部門に知り合いが勤務していたので、その方に電話をしました。その方は「負けるな、がんばれ」と2時間ほど電話で励ましてくれたのですが、意外とそれがダメージにもなりました。そして鬱病から復職していた方が3月まで居た部署に勤務していたのでその方にも相談していたのですが彼女はそのつらさを知っているからこそ励ますことはせずに「私の主治医、紹介しようか?」と言ってくれていたのですが、私自身は自分が鬱病だと診断されるのが怖かったのだと思います。彼女と少し距離を置こうと思いつつありました。
【鬱病診断】
そして6月25日。とうとう朝、会社に行けなくなりました。その日は体調不良を理由に溜まっていた振休をもらいました。
1か月ほど前、MIFさんから「こういう病院が近くにあるぞ」と精神科の病院の地図をプリントした紙を受け取っていたのですが、それも見つからず、自分のPCで調べようとしたらPCがうまく立ち上がらず、パニック状態に。MIFさんに電話してどうしたら良いのか電話しても涙と震えが止まらずどうして良いのか分からず…という状態でしたが、どうにか病院を探して、予約して当日中に受診もできました。
初診で担当したM医師は、アモキサンを中心に食欲増進の漢方薬などを処方するとともに、3か月の休養を要する診断書を書いてくれました。それでも私は薬さえもらえればいいと思いつつ、これで人生が積んだ、と思いました。今までがんばって支えていた柱が折れた気持ちがしました。と同時にホッとしたのです。でも、薬を飲むと人生が変わるんじゃないかと本当に怖くて、家に帰っても薬を目の前にどうしたらいいのか…と思っていました。すると午後に休みをもらったMIFさんが帰宅しました。MIFさんのもとで薬を飲みました。そして人事部門に電話して診断書が出たことを知らせました。その日の午後、課長をはじめ課の社員が全員出張だったのでとりあえず、人事部門に連絡したのですが「それは上司に報告してください」との対応でした。
週が明けて6月28日。朝、課長に「お話があります」と伝えたのですが、放置されて、その日の午後6時頃。再度課長に「今朝のお話は今してもよろしいですか」と尋ねてから、精神科で診断書をもらったこと、休養が必要で休みたいことを伝えました。これまたこの課長は青天の霹靂だったようで、「早く言わないから今日1日働かしてしまったじゃないの!」とのこと。
翌29日に引き継ぎをして30日から特別連休(5日間)・積立休暇・有給休暇を組み合わせて休むことになりました。
休むに当たって、休養とはいえども規則正しい生活リズムを崩さないように気遣いました。先にも書きましたが、以前の部署で一緒だった女性で鬱病での休職体験者(K姐さん)の体験談で、生活リズムが崩れるとリズムを戻すのが大変だと聞いていたからです。だから、朝はMIFさんが起きる時間に私も起きて、昼寝はなるべくしないで、夜もMIFさんと同じくらいの時間に寝ていました。それでも昼寝は習慣になりつつありましたけれど。
【休養1回目:3か月】
大好きな手芸をやったり、本を読んだり、テレビを見たり、自分の好きなことのために時間を使うことでかなり癒やされたと思います。
でも、アモキサンを飲み始めてからめまいがひどく、家から1分のコンビニに行くにも途中で倒れそうなことが多かったです。家の中でも掃除機をかけながらフラフラしてしまったり。原因は副作用で、頻脈になったせいです。M医師には再三副作用を訴えましたが、薬が変わったのが1か月経ってから。その後パキシルに替えたのですが、今度は吐き気がひどく2週間で終了し、サインバルタを飲み始めました。
パキシルを飲み始めた頃からだんだん夜眠れなくなってきました。寝ても活動量が少ないせいか眠りが浅くて、MIFさんの寝息(イビキではないです)でも眠れないのです。するとデパスが処方されました。数日経った頃にはだいぶ眠りも改善してきました。
すると、今度は暇を持てあまし始めました。そのため、また働けるかな?と。この気持ちが持ち上がったところで復職が決まったのです。
今から思えば、このときは錯覚していたと思うのですが…。
【復職1回目】
季節は流れ2010年10月。
まだまだサインバルタとデパスを含め8種類の薬を処方されていましたが、仕事に戻りました。部署は同じ部署でした。待っていたのはつらすぎる現状でした。課長の感覚としては「復帰したからには、休む以前にもましてがんばれ」だったのです。でもM医師から「あなたの職場は従業員1,000人を超える会社の対応ではない」を理由に「薬を飲んでいる限り車の運転も許可できない。そんな会社ではもしも事故をしたときにあなたのせいにされてしまうから。それに残業も3か月禁止」とのこと。
そんなわけで課長からは「早く薬を飲むのはやめろ」という圧力の元、車の運転必須の部署で車運転不可の状況で働かざるを得ず、もの凄く制限をされる状態でした。
また私が休養している3か月の間に同じ部署の後輩女性がやはり鬱病で2か月半休養していたそうです。彼女は隣の課に異動となりました。私は同じなのになぁ…という不満を少々抱きました。
また休養している間に、同じ部署の後輩女性が初めての妊娠&流産をして1か月ほど休みがちだったそうです。そりゃあこの部署はハードだからね…と思いつつも、もしも私が休んでいなかったらこの方は幸せな出産をしていたかもしれないと思うとやりきれない気持ちでした。
3か月休養は休職にはなりませんでしたが、部署に迷惑をかけたという理由で、ボーナスの査定が一気に5ランク落ちました。ボーナス額がガクーンを信じられないくらい減ったので、預貯金をかき集めて家のローンを返済することを決意します。
2011年3月。東日本大震災の発生で、地震の群発で不安が強くなったのでしょう、また不眠がひどくなり始めました。それと同時に家のローンのうち、2,000万円ほど一気に返済してしまおうと。それでもまだ数百万円は残っていたのですが気持ちはだいぶ楽になりました。あと5年以内に完済しようという気持ちにもなれた頃です。
2011年5月にはサインバルタの減薬も始まりました。
【下り坂2期】
2011年9月。前年に流産した後輩女性が再び妊娠しました。そのため彼女が担当していた行事に出席できなくなり、代わりに私がいくことになりました。3日間連続日帰りに富士山5合目のトレッキングツアーのガイドです。もともと気圧の変化に弱い私、体力がない私、ガイドとか人を引率することが苦手な私…。苦手ながらもがんばりました。ところが、疲労の蓄積がつらくて、2日目からどうも雲行きが怪しく、3日目にはとうとうバス酔いでおう吐しました。とうぜん食事も食べられません。しかも悪いことにトレッキング中に参加者が転んでしまいケガをしました。
この時にやはり、自分はこの仕事に向いていないしできることなら早く異動したいと強く願うようになりました。
この頃になると、サインバルタの減薬も終わって、向精神薬を飲まずに生活していました。車の運転も許可されて、仕事をがんばろうという気持ちが強くなりました。残念ながら、いまだボーナス査定は低いまま。車を運転せずに仕事に支障がでているからという理由でした。でも、家のローンが少ないだけに経済的負担にはかなりストレスフリーになっていました。
2011年10月。妊婦になった後輩女性から仕事を引き継ぎました。自分としては、まだ卒薬したばかりでもう少しの間同じ仕事をしたかったのですが、新しい仕事になった途端、これまでの知識とはまた違うことを覚え治しになり、分からないことだらけ。自分の仕事の方法に不安を抱えることになりました。一方で同僚の仕事の失敗をひっかぶることもたびたびありました。
翌11月の受診の際、主治医のM医師に状況を説明したのですがそのまま処方薬もなく、診療が終わりました。今回の状況では薬再開もやむなし…と考えていただけになんだか納得いきません。
さらに12月。自分の確認ミスで仕事に大穴を開けてしました。そしてそのことを家に帰ってMIFさんに伝えたところ「好きにしろ」とのこと。またもやのリストカットに走る私でした。MIFさんに突き放されたと思ったんです。そのとき泣きながら鼻血(人生で2度くらいしか出したことないのに、これまで一番出ました)を出しながらの大泣きです。その鼻血の出方もあったのですが、このまま死んだらどんなに楽だろう…と考えている私がいました。それでもがんばって通勤はしていたのです。
次の通院日、12月20日に病院に行くと、主治医のM医師がいません。先生自体が入院してしまったのでいつ復帰するか分からないとのこと。ああ、だから前回の通院の時先生のやる気が見えなかったのか…と納得です。で、このときは、MIFさんも病院に付き添ってきたのですが、新任のS医師が診察してくれたのですが「リストカットしてしまったということだし、入院しますか?」といきなりのお言葉。もう八方ふさがりだなぁという状況になりました。
職場では課長に「入院を勧められまして、薬は受け取りましたが、まだ飲んでいないので運転はできます。できれば入院しないで済む方法考えます」と報告しました。
丁度この頃、鬱病休職経験者のK姐さんが再婚することになりました。と同時に来年3月末で退職することを決めたのです。私にとっては一生の友達と思っていた方の再婚は嬉しいものの、退職でションボリです。退職を引き留めたいものの、同じ鬱病患者としてムリな引き留めが強いストレスになることも体験から分かっていることなので、軽く引き留めたものの、友人のお祝い事を祝う気持ちを優先しました。
【休養2回目:初めての休職】
年が明けて2012年1月。
1日だけ通勤し、あとはリフレッシュ休暇等で休んだのですが、この休んだのもいけなかった。リフレッシュ休暇で大阪に行ったのですが、海遊館で大阪港に落ちる夕日を見ていたら、死にたくなりました。このまま消えてしまいたいと。でもそのままどうにもできなくて、ただただ夕日を見ていたのです。
そしたら、もう会社に行けるだけの気力がなくなってしまいました。S医師が診断書を書いてくれて、また休養することになったのです。
休み明けに職場に行って、診断書を提出すると、課長から「完全に治るまで復帰しないで」と言われました。いやいや、基本的に寛解したら仕事するでしょ、普通…と突っ込みたいところをこらえました。でも休養することで心置きなくサインバルタを再開できました。
翌2月。有給休暇を使い切ったため、2月から欠勤となりました。当然お給料は出なくなるのですが、社会保険料等の振込は必須となるため、無収入なのに支払いだけはチッキリやるため、節約しなければ…という気持ちが起きました。でもって、預貯金をかき集めれば家のローンを完済できることに気がつきます。よし、これで完済してしまえ、と。とりあえず、目先の借金を返せば、気持ちも楽になるだろうと。それと同時に、バスに乗るのがとても苦手になっていることに気がつきました。バスに乗っていると、昨年9月の富士山に行ったことを思い出してしまうのです。軽いパニック状態を持ち始めました。
そしてこのころから、会社の指示で産業カウンセラーのF先生と会うことになりました。月に1~2回ペースで会いそれは8月まで続きます。
翌3月。まだまだ欠勤状態。K姐さんの結婚式に出ました。久々の結婚式でしたが、こぢんまりとした結婚式で職場の人もほとんど居なかったため、気分が楽でした。そしてこの頃、以前の同僚にも会えるようになり気持ちもだいぶ楽になって来たのですが、やはり不眠がでてしまいデパスも再開です。
翌4月。この月までが欠勤です。翌月から部署も異動することに伴い、荷物の整理のためにも職場へ行きました。まぁ、周囲の視線がきついこと…と思いつつ、この人たちに自分の気持ちは分からないのだろうということは十分承知です。
そして翌5月。この月から3か月の欠勤を経た私は休職となりました。欠勤になると、傷病手当が出るのです。労働者の権利というものですね。でも、この頃にはだいぶ気持ちも落ち着いてきて、「これなら7月に職場復帰できるかも」という気持ちになれたのも事実です。
【急転直下】
2012年6月。昼間からちょっと肩こりがするなぁ…と思っていたら宵の口にいきなりの片頭痛が襲ってきました。初めてではないから慣れているし、イミグランもあるし…と思っていたら、イミグランは飲みきっていたんだっけ!?やばい!という状態です。パニックがパニックを呼ぶ状態。おう吐、視野狭窄、頭痛、下痢…すべてどうしたら良いのか分からない、暑いとも、寒いとも分からない冷や汗は止まらない。4時間ほど激烈な症状を発症しました。その後、10日間ほど何かあると同様の症状をすぐに起こしました。すっかり気持ちは落ち込んでしまいました。7月には復職したいという気持ち萎えてしまいました。
【復職まで】
7月の復職は延期となりました。延期については気持ちがズドーンと落ち込むとともに、またもや乗り物に乗ることに不安が強くなりました。バスは見かけるだけでも胸が苦しくなる状態だったのですが、少し落ち着いてからバス停2つくらいは乗れるように訓練を始めました。
8月には9月復職に向けて、毎日MIFさんと同じ時間に家を出て、午後まで図書館やマクドナルドで時間を潰すという出勤訓練を始めました。規則正しい生活に戻すのはそれほどつらくなく、やはり休養・欠勤・休職時期を通じて生活リズムを大きく崩すことがなくて良かったと痛感しています。
それと同時に、8月から減薬を始めました。
【復職後】
2012年9月に復職しました。
初めての支店勤務となりました。その支店には10年以上前に本店に居た先輩女性、1年ほど前まで本店にいた後輩女性が勤務していました。他に顔見知りの社員が2名いたので、まぁなんとかなるかなと。問題はバス通勤。復職までにバスに乗れるようになっていましたが、あまり長距離はムリだったのです。でも、ターミナルから6つ目のバス停とのことで、もしも苦しくなっても歩いていける距離なので安心しました。
担当は、今までやったこともなかったことでしたが、オペレーターの仕事でした。まぁ、失敗だらけの1か月でしたが、教えてもらいながらどうにかこなしていました。
翌10月に本店から異動で顔見知りの後輩女性が来ました。そして1か月間でしたがお世話になった後輩女性が異動で他の支店勤務となりました。
そして、同じ月に出納担当になりました。これも今までやったことがないことで全然分からないながらも現在までどうにかやっております。
それと、10月から主治医がM医師に戻りました。先生は4月くらいに復職していたのですが、それまでのS先生のままでとりあえず復職までおつきあいしたいと思っていたためです。今日現在、サインバルタ20mgを毎日飲んで居るのですが寛解というか、今のところ、死にたいとも思わない元気な自分を取り戻しつつあります。ちなみに体重もだいぶ増えました。10キロは増えてるなぁ…。
以上、長々と書きましたが、私の闘病の状況です。
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