マイナス40度の氷雪原を、ひたすら橇をひいて歩く。風速40メートルの地吹雪の中でキャンプする。ほぼ40年前、著者が南極昭和基地で越冬したときの物語。
エレバス山 3795m
「白瀬氷河」「白瀬海岸」
アメリカ海軍「ハイジャンプ作戦」「ウィンドミル作戦」「ディープ・フリーズ作戦」
若き本多宗一郎は極寒にも耐えるエンジンを開発し無償でこの事業に参加、
また。井深太と盛田昭夫は、寒冷地用バッテリーと小型無線機を開発。
これが後の本田技研である、東京通信工業こと現在のソニーである。
南極大陸の氷の厚さは平均2450m、面積は日本の37倍の広さ。
この氷が一度融けたと仮定したら、地球上の海面は60m以上も上昇。
最大の厚さは4776m
昭和基地・みずほ・あすか・ドームふじ
南極の氷はオンザロックにすると、「パチッ」「パチッ」と音をたてる。
何も味がうまいわけでもなく、この神秘の音が、「南極の氷はうまい」と言わしめる由縁である。
北極の氷にこの響きはない。
ヒナが孵るまで、アデリー・ペンギンは1ヶ月、コウテイ・ペンギンは2ヶ月かかる。
アデリーペンギンは雌雄交代で卵を抱き続けているが、コウテイペンギンはオスが餌もとらずに抱卵する。
営巣地:ペンギン・ルッカリー
アデリーペンギンは小石の巣に卵を二つ産む。
最初はオスが卵を温め、この間にメスは餌を食べに北の海に向かう。
遠いときには100キロ近くも歩いて開水面まで行き、ここで餌のナンキョク・オキアミを食べる。
そしてまた戻りオスと抱卵を交代する。
ヒナの成長は早く、孵化後2週間で体重は10倍になり、
3週間後、1月中旬にはクレーシュ(託児所の意)と呼ばれる集団を自ら形成する。
天敵のトウゾクカモメから身を守るためである。
親子の識別
南極行きが決まったときの「宗谷」の船齢は18才、かなりの高齢で疲れ果てた船だった。
「戦艦大和」を設計した牧野茂の設計によって砕氷船として艤装され、生まれ変わった。
誰にでも組み立て可能な「パネル構造による組立て式建物」
いまでいう「プレファブ建築」の元祖
日本で手に入れることができる最高の木材「木曽ヒノキ」
北海道の「樺桜」
昭和31年1956年11月8日
晴海を出ると宗谷は実によく揺れた
毎日20度以上の横揺れ(ローリング、楯揺れはピッチングという)。
4日目には左に29度、右に28度も揺れた。
どの船にもついている「ビルジ・キール」という揺れ止めが、砕氷に邪魔になるという理由から、取り除いたためである。
このため宗谷は休むことなく実によく揺れた。
出港から7日目、ルソン島でルーシー台風。
38度にも及ぶローリングに加え、24度にも達するピッチング。
予想外の美食は鼓腹撃壌(こふくげきじょう)、この世の極楽かとも感ぜられた。
ケープタウンで遊び過ぎたのか、出港したその日、宗谷はさっそくローリングを始め、最高は30度も揺れた。
このあと宗谷は、吼ゆる40度、狂える50度、絶叫する60度
「高いうねりのために、船体の動揺は激甚を極めるものと推察される」
氷山の第一発見者には、船長からの賞品、日本酒一升がかかっていたのである。
ソビエトの砕氷船「オビ号」による救援
ウォッカとキャビアで乾杯となり「テンノウヘイカニカンパイ」と日本語でやられたのにはびっくりした。
11人の越冬隊全員と、子犬8頭と母犬1頭、それに猫一匹が帰船した。
このときタロとジロを含む15頭の樺太犬は鎖につながれたまま基地に残されたのである。
犬との別れのとき、誰がこの犬たちと永遠に別れなくてはならないことを想像しただろうか。
餌にたくさんの干し魚を置いて「嵐が収まったら必ず迎えにくるからな」
としばしの別れを告げて宗谷に帰ってきたのである。
「我々は、涙をのんで第二次越冬計画を断念せざるを得なくなった。・・・
スクリューが折れ、舵が曲がり、そのうえ燃料と飲料水の欠乏は甚だしく、まさに刃折れ、矢尽きた感深く・・・」
~第三次越冬隊~昭和34年2月1日
いよいよ定着氷についた。昭和基地から160キロの地点である。
「犬だ」北村にはこの犬が「タロ」と「ジロ」であることは、すぐにわかった。
「真っ黒い毛並みはタロ、タロにそっくりながら前足のつま先が一部白いのがジロ」
「無情の飼い主を懐かしく出迎えてくれ、涙がとめどなく流れた」
二頭とも完全な栄養失調であり、死の直前の状態であることもわかった。
極端に痩せてしまったために首輪から抜けることができたのであろうとも想像される。
残ったのは14名の隊員に加え、越冬3年目のタロとジロに、日本から連れてきた子犬、トチ・アク・ミヤがすべて。
2億万年前、超大陸「ゴンドワナ大陸」から分離、3500万年前に現在の姿になった。
昭和43年1968年12月19日、昭和基地から極点までの2611キロの未踏のルートを拓き極点到達。
ここにはアメリカのアムンゼン・スコット基地。
このときの写真が教科書に使われ、アメリカ国旗と日本帝国海軍の軍艦旗が写っていた。
「この写真を指して文部省がカンカンに怒ってね」
氷山に氷取り・・・飲料水・風呂の水
南極の最低気温は、ソビエトのボストーク基地での1983年7月22日、マイナス89.2℃
最大瞬間風速は、1978年6月、フランスのデュモン・デュルビル基地での風速90m
太陽は低い高度のまま地平線を這うように動き、鈍い光を投げている。
オーロラの強く光る地域を「極光帯」といい、昭和基地はこの真下にある。
副食は決まって、ハムとベーコンと乾燥卵のロール焼き、それに梅干と佃煮。
「肉ジャガ」舞鶴が発祥の地
冷凍のフルーツをミキサーでジュースにして飲んだ
濃縮ウイスキーは1/2に、濃縮日本酒は1/3に凝縮されたもの。
昭和基地では夏の間、1ヶ月半太陽は沈まない。また冬は1ヵ月半太陽は地平線から顔を出さない。
風呂は発電機の余熱で沸かしたものでかなり熱く、大きな氷山を抱いて氷と一緒に入る。
7月15日、1ヵ月半別れていた太陽が戻ってきた。
「男たちは美女の周りを廻る電子のようなものだ」
「昔の探検家は、よく食い物の夢を見たが、俺達はまったく見ないね」
「そのかわりよく女の夢を見るよ」
「最近はもう毎晩女房が出てくるしね」
「最近は、尼さんの夢を見るんだってさ」
「やわ肌の熱き血潮に触れもせで
かなしからずや道を説く君」
「南極で退屈のすべてを学んだ。もうこれ以上の退屈はない」
昨日はロシアの観測隊8名が昭和基地に飛来し、一晩泊まっていった。
お土産はキャビアとウォッカで、こっちのお返しは、ガムと味の素と割り箸。
南極大陸の旅行ではクレバスの事故による遭難が最も多い。
ビンビールは帰路南極をあとに、インド洋にさしかかった頃に腐ってしまったのである。
この貴重な体験から、腐らないビールとして缶ビールを開発
「ガーネットは1月の誕生石だからね」
片麻岩の中に真っ赤なガーネットの大きな結晶がたくさん散らばっていた。