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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

沖田総司伝私記

2020年10月28日 13時15分58秒 | 読書・歴史


現存史料を再検証した、沖田総司「伝記」の最終決定版。謎多き新選組最強剣士をめぐる「謎」のすべてを解明

第1章 江戸1 沖田惣次郎の日々(専称寺と墓碑
沖田家の系譜
沖田家の記録 ほか)
第2章 京都 沖田総司の日々(浪士組の結集と編成
浪士組、入京する
清河の画策と浪士組の分裂 ほか)
第3章 江戸2 沖田総司の日々(最後の手紙
発病の記録
危機一髪 ほか)


一石は一両とされており、一石は150キロ。

労咳(ろうがい)に冒された総司

総司が得意としていたのが、突き技だった。
「この突きは必ず三本に出る」
三度にわたって突きを繰り出す様が、一本の突き技に見えたという。

彼らは壬生浪士組を会津藩の外局ととらえて「局」と称し、長を「局長」とした。
そして、局長に次いで「副長」、その次に「副長助謹」、会計を担当する「勘定方」を設けた。
平野屋の100両で夏用の衣類を整えるとともに、袖口を白く山形に染め抜いた浅葱(あさぎ)地の羽織を、大丸呉服店であつらえた。これが新撰組のトレードマークとして知られる、ダンダラ羽織である。
平野屋での金策を知った会津藩は、彼らの窮乏を察せずにいたことを恥じ、芹沢を招くと平野屋に返済するよう百両を立て替えたという。この出来事を機として、会津藩は幕府に浪士金の支給を申し入れたものと思われる。
月額三両、年額三十六両

それにしても、芹沢鴨たちの大和屋焼き討ちは暴挙にすぎた。
「会津侯、かかる乱暴を憤り、近藤勇・山南敬助・土方歳三・沖田総司・原田左之助の5人を呼び出し、その所の処置を命ず」
芹沢の「処置」とは、つまりは排除であり、具体的には殺害を意味している
ここに極秘の「芹沢グループ一掃プロジェクト」がスタートするのである。
その第一歩が新見錦の切腹。
芹沢鴨は神道無念流の達人であったことはいうまでもなく、平山五郎もまた免許皆伝の腕前であり、
どちらかに反撃の機を与えさせないためには、このふたりを同時に討ち取る必要があった。
そのためには、芹沢と平山が行動を共にすることが第一条件となる。
総会での形ばかりの会議が終わり、やがて芸妓たちを呼んでの大宴会が始まる。

東海道の京都から江戸までは通常、12日間の行程である。



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