スティーヴン・ギャロウェイ/著
あなたは戦争に関心がないかもしれない。
しかし、戦争はあなたに関心を持っている。
レフ・トロッキー
17世紀のベネチアの作曲家 トマソ・アルビノーニ
「アルビノーニのアダージョ」
彼女は人が人であることの核心と向き合っていた。
人生は素晴らしく、しかし、それが永遠に続くものではないと気づくことは、
天から送られたたぐい稀な贈り物以外のなにものでもなかったのだ。
そして弾丸は音速の壁を突破するやいなや、繊維、皮膚、骨、肉、臓器をどろどろに融かすこと、
瞬時に動きあるものが肉塊へと変じるプロセスが始まることだけだった。
頭を撃たれて死ぬまで、どれほどの時間がかかるのかはよく分からない。
一瞬のことなのか、それとも数秒間、意識は残るのだろか。
それを正確に把握している人などいるはずがない。
銃弾は証拠を残すが、迫撃砲はすべてを消し去るだけだ。
殺鼠剤(さっそざい)「ええ、これにはヒ素が少し入ってるの」
今日のように殺しをしなかった日など、彼女は喪失感のようなものを覚える。
それはほとんど欲情に近いものだった。
「あなたの赤ん坊はよく泣くわね。あなた方ご夫婦もあんな大声は出さないようにしてね」
「あの人はだれのために弾いてるの?」
「たぶん、その人は自分のために弾いてるんだよ」
チェリストの望んでいることは変化ではなく、物事をもう一度正しい軌道に乗せようとしているのでもなくて、
世界がこれ以上悪い方へ行かないように歯止めをかけようとしているのだ。
悪くならないように歯止めをかけるには、人それぞれが自分のできることをやるしかない。
聴いているうちに、彼女は悲しくなる。
重たくて緩慢にやってくる悲しみだ。
涙を誘うのではなく、叫び出したくなるような悲しみだ。人間が抱く感情の中でも、これは最悪だと、アローは思う。
それは明らかで、見間違いようがない。
彼は音楽に聴きいっているのだ。
アローは彼が狙撃を行わなかった理由を理解した。
彼女は同時に二つのことを思っている。
この男を殺したくない、それでも殺さなくてはならない。
そのとき、左右の目の中間に小さな穴が開き、それがはじける。
スナイパーの後頭部が粉砕され、灰色の脳漿(のうしょう)が背後の壁へ飛んでぺっしゃっと貼り付く。
砲弾の直撃を受けて死ぬ人間は、それが落ちてくる音を聞くことはないという話を聞いたことがある。
もうじき死ぬと知ったときに必ず感じるはずの恐怖を正視してもなお、
この世の名残にもう一度、世界を見回してみたいと思うだろうか?
心の中は周波数の合わないラジオみたいに雑音だらけだ。
死んだ人の体には、それがどのように生きたかを語るものはなにもない。
ほとんどの人は死体についてなんの感想も抱かない。
「そうね、ケーキとおいしいブランデーほど相性のいいものはないものね」