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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

秋田・庄内戊辰戦争

2020年10月18日 15時41分35秒 | 読書・歴史


慶長4年1868年7月6日
大隊長・酒井吉之丞(きちのじょう)
味方からは名将・智将の名をほしいままにし、敵の新政府軍から「鬼玄蕃」と恐れられた。
この時、26歳の若武者
代々玄蕃を名乗り
維新後に東京で会った庄内藩討伐の参謀・大山綱良
「鬼玄蕃の勇名を欲しいままにした足下が、実は容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年(よかちご)であろうとは」
明治7年には西郷南洲とも会った。
惜しくも明治9年2月、肺病のため東京で逝去。享年34歳、墓は上野谷中霊園にある。

藩主・酒井忠篤(ただずみ)
金100両

二番大隊の紋章、紺地に金の「北斗七星」を描いた「破軍星旗(はぐんせいき)

しゅうそう-れつじつ【秋霜烈日】
★ 刑罰・権威・節操・意志などが厳しく、また、厳かなことのたとえ。秋の厳しく冷たい霜と夏の強い日差しの意から。
或あるいは却かえって一段秋霜烈日の厳を増したのではないかと思った。<石川啄木・雲は天才である>

庄内藩軍目覚

東北一の華麗な山車(だし)が練り歩く真夏の風物詩「新庄まつり」
この祭りは宝暦6年1756年、大飢饉の犠牲者を慰霊するために始められた。
新庄藩戸沢家六万八千石。
新庄は藩主戸沢正実(まさざね)の実母・桃齢院貢子が薩摩藩島津家出身という影響もあり、
藩論は早くから勤皇恭順に傾いていた。

鎮撫副総督・沢為量(さわためかず)

庄内藩家老・松平権十郎(ごんじゅうろう)
「その鉄砲を以って味方を打たると思えば、恨み骨髄に徹す」と激怒。

一番隊激戦地:鳥越神社

城下にはほとんど西兵は見当たらない。各隊は城下に一斉に突入し、火をかけた。
城下3000戸はたちまち延焼した。

佐賀藩自慢の後装式七連発・スペンサー銃:床尾(ていび)弾倉式
佐賀藩は大砲アームストロング砲を国産化し、彰義隊の殲滅に一役買ったのは有名だが、
やがてこの奥羽戦線でも威力を発揮する。
アメリカ南北戦争で活躍した新型スペンサー銃を1挺37ドル80セントで2000挺購入

庄内藩標準のミニエー銃とスペンサー銃の性能の比較 ★( )はミニエー銃
口径12.5ミリ(14.5)
全長1187ミリ(1410)
重量4.6キロ(4.5)
照尺900ヤード(500)
単発と連発も切り替え可能。

ミニエー銃の原型は1846年、フランスの歩兵大尉ミニエーが考案。
戊辰戦争末期になると、シャスポー銃・スナイドル銃・エンフィールド銃など
すべてミニエー式の弾丸を使用する銃はミニエー銃と呼ばれた。

ナポレオン「戦いは最後の五分間にあり」

庄内藩重役:菅実秀(すがさねひで)
博学多識・頭脳明敏「カミソリのごとし」
庄内藩において、最も影響力がある人物だった。

大将の心得
「食の乏しいときは、まず兵に二椀をあたえ自分は一椀を食う。その心得であれば兵士は死力を尽くしてくれる」
「地の利を知るのは大切である。行く所の地形をよく察知すること」

いかに日頃から秋田藩佐竹家が苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行い、住民に深く恨まれていたかがよくわかる。
土工兵に命じて西軍兵の死骸は全部集めて、地元の寺に埋葬した。

戦いは酣(たけなわ)になった。
「武士たるもの、恥を忘れては禽獣(きんじゅう)にも劣る」
会津藩「ならぬことは、ならぬ」

京で肥後様、お江戸で酒井様、どちら梅やら桜やら

乾坤一擲(
けんこんいってき)の大作戦である。

もともと、どちらかといえば蒲柳(ほりゅう)の質の吉之丞である。

二葉より手くれ水くれ待つ花は
君が為にぞ咲けやこの時









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