今は人影も絶えて、静かに森のなかへ埋もれていくしかない道。
その懐かしい記憶をたどる旅に、出てみたくなったのだ-。
「八十里越」「津軽白神、マタギ道」など、14の古道巡礼の記録。
~~米沢街道、大峠、海と山をむすぶ生命線、塩の道~~
人間は塩がなければ生きていけない。
それほど重要な食品である塩を、なぜか私たちは無感覚に等しいほど軽視して暮らしてきた。
「塩は重要な食べ物だが、塩自体はエネルギーを生まないバイプレイヤー的存在であり、そのことが人々の無関心を招いた。
米や麦などのエネルギーを生む食物は、その多くが穀霊として祭られているが、塩そのものが神に祭られることはなく、
それが私たちの塩に対するひとつの姿勢であった」
事実、全国に111箇所あるとされる塩竃神社は、塩を作った塩土を祭っているが、塩そのものを神として崇めているのではない。
山の民と海の民は、古くから共存して暮らしてきた。
山と海を結んだのは、川という塩の道だったのである。
塩を焚く為に流した薪を塩木と呼ぶようになった。
全国津々浦々に塩の道が残るのが、塩が人々の生活に欠かせない存在だからである。
街道の古語は海道であった。山と海を結ぶ道である。
鰤街道、鯖街道、鮭街道があった。いわゆる塩魚の道である。
それらはすべて、塩が付加価値をともなって運ばれてきた証明である。
山に暮らす人々は、長い冬の食物として長期の保存に耐える塩魚を喜んだが、もっとも必要としたのは塩そのものだった。
塩の道は血管に等しい。
熊野詣を縄文文化への復帰願望のあらわれだと評したのは、哲学者の梅原猛だった。
熊野にはアイヌや琉球と同じく、縄文の系譜が色濃く残されているからである。
古代の葬送の儀礼である風葬や水葬の習俗が遅くまで遺されたという。
葬送を司るのは川であり、風であり、カラスである。
川が死者の骨を洗い、カラスが風葬にされた死者たちの清掃者であった。
熊野本宮(ほんぐう)の象徴としてヤタガラスが祀られたのは、ゆえなきことでない。
果無(はてなし)集落
「遠見法」・・・月のない晴れた夜の「子の刻(ねのこく)深夜0時にじっと見定めると山から精気が出ているという。
金精は華のごとく、
銀精は龍のごとく、
銅精は虹のごとく、
鉛精は煙のごとく、
錫精は霧のごとく、
これを「中夜望金の法」というらしい。
白神山地:暗門の滝
日暮しの滝:落差80m、一枚岩、圧巻
ジョンガラを聴いた黒人シンガー:」これは俺たちと同じブルースだ」
毒流し:毒性の強いサンショウ、クルミ、タデ、ハゼ、ハシリドコロなどの植物を用いて、
イワナなどを麻痺させて捕らえる漁法のこと。
縄文の遺跡には墓が集落の中心にあった。
死者は忌まわしいものではなく、神として崇められ、生者と一体になりながら集落を形成した。
弥生人は崇めながらも、死を忌まわしい他界のものとして排斥し、墓を集落から遠く離れた森の向こうに封じ込めたのである。
渡良瀬渓谷鉄道
会津西街道・・・現在の国道121号
大内宿
三斗小屋温泉
戊辰戦争での「三斗小屋決戦」と呼ばれる激戦は壮烈だったらしい。
会津藩:中街道
「白湯山信仰」:出羽三山から勧請した信仰。
出羽三山:月山を主峰とした湯殿山、羽黒山の三山の総称
山形県の西に位置する出羽三山は、あまりに遠かった。そこで・・・
那須岳を出羽三山に見立てて参拝することによって、出羽三山に登ったと同じ御利益を得ようとした。
これは当時盛んだった富士講の形と似ている
日本一の霊峰である富士山に登拝するのが庶民の夢だったが、富士山は遠く、しかも厳しい。
そこで各地の富士山に良く似た富士の名を付け、代替信仰として登ったのである。
津軽富士・南部富士、出羽富士など、はその証拠である。
那須でいえば、那須連峰の茶臼岳を月山と呼んだ。
照葉樹林に覆われた西日本に弥生文化が生まれたのに対し、
東日本に縄文文化が栄えたのは、東北一帯を広く覆ったブナの森によってである。
照葉樹林を代表する木の実がシイやカシなのに対し、
ブナの森はクリやトチやクルミという大型の木の実に恵まれている。
縄文は森の文化である。
その懐かしい記憶をたどる旅に、出てみたくなったのだ-。
「八十里越」「津軽白神、マタギ道」など、14の古道巡礼の記録。
~~米沢街道、大峠、海と山をむすぶ生命線、塩の道~~
人間は塩がなければ生きていけない。
それほど重要な食品である塩を、なぜか私たちは無感覚に等しいほど軽視して暮らしてきた。
「塩は重要な食べ物だが、塩自体はエネルギーを生まないバイプレイヤー的存在であり、そのことが人々の無関心を招いた。
米や麦などのエネルギーを生む食物は、その多くが穀霊として祭られているが、塩そのものが神に祭られることはなく、
それが私たちの塩に対するひとつの姿勢であった」
事実、全国に111箇所あるとされる塩竃神社は、塩を作った塩土を祭っているが、塩そのものを神として崇めているのではない。
山の民と海の民は、古くから共存して暮らしてきた。
山と海を結んだのは、川という塩の道だったのである。
塩を焚く為に流した薪を塩木と呼ぶようになった。
全国津々浦々に塩の道が残るのが、塩が人々の生活に欠かせない存在だからである。
街道の古語は海道であった。山と海を結ぶ道である。
鰤街道、鯖街道、鮭街道があった。いわゆる塩魚の道である。
それらはすべて、塩が付加価値をともなって運ばれてきた証明である。
山に暮らす人々は、長い冬の食物として長期の保存に耐える塩魚を喜んだが、もっとも必要としたのは塩そのものだった。
塩の道は血管に等しい。
熊野詣を縄文文化への復帰願望のあらわれだと評したのは、哲学者の梅原猛だった。
熊野にはアイヌや琉球と同じく、縄文の系譜が色濃く残されているからである。
古代の葬送の儀礼である風葬や水葬の習俗が遅くまで遺されたという。
葬送を司るのは川であり、風であり、カラスである。
川が死者の骨を洗い、カラスが風葬にされた死者たちの清掃者であった。
熊野本宮(ほんぐう)の象徴としてヤタガラスが祀られたのは、ゆえなきことでない。
果無(はてなし)集落
「遠見法」・・・月のない晴れた夜の「子の刻(ねのこく)深夜0時にじっと見定めると山から精気が出ているという。
金精は華のごとく、
銀精は龍のごとく、
銅精は虹のごとく、
鉛精は煙のごとく、
錫精は霧のごとく、
これを「中夜望金の法」というらしい。
白神山地:暗門の滝
日暮しの滝:落差80m、一枚岩、圧巻
ジョンガラを聴いた黒人シンガー:」これは俺たちと同じブルースだ」
毒流し:毒性の強いサンショウ、クルミ、タデ、ハゼ、ハシリドコロなどの植物を用いて、
イワナなどを麻痺させて捕らえる漁法のこと。
縄文の遺跡には墓が集落の中心にあった。
死者は忌まわしいものではなく、神として崇められ、生者と一体になりながら集落を形成した。
弥生人は崇めながらも、死を忌まわしい他界のものとして排斥し、墓を集落から遠く離れた森の向こうに封じ込めたのである。
渡良瀬渓谷鉄道
会津西街道・・・現在の国道121号
大内宿
三斗小屋温泉
戊辰戦争での「三斗小屋決戦」と呼ばれる激戦は壮烈だったらしい。
会津藩:中街道
「白湯山信仰」:出羽三山から勧請した信仰。
出羽三山:月山を主峰とした湯殿山、羽黒山の三山の総称
山形県の西に位置する出羽三山は、あまりに遠かった。そこで・・・
那須岳を出羽三山に見立てて参拝することによって、出羽三山に登ったと同じ御利益を得ようとした。
これは当時盛んだった富士講の形と似ている
日本一の霊峰である富士山に登拝するのが庶民の夢だったが、富士山は遠く、しかも厳しい。
そこで各地の富士山に良く似た富士の名を付け、代替信仰として登ったのである。
津軽富士・南部富士、出羽富士など、はその証拠である。
那須でいえば、那須連峰の茶臼岳を月山と呼んだ。
照葉樹林に覆われた西日本に弥生文化が生まれたのに対し、
東日本に縄文文化が栄えたのは、東北一帯を広く覆ったブナの森によってである。
照葉樹林を代表する木の実がシイやカシなのに対し、
ブナの森はクリやトチやクルミという大型の木の実に恵まれている。
縄文は森の文化である。