
将軍・徳川吉宗に、唯一「予の意のままにならぬもの」と言わしめた米相場。酒田の豪商・新潟屋に生まれた本間伝次、後の宗久が編み出した、米相場“百戦百勝の法”とは? 商品先物取引に夢を見出した、天才の若き日々を描く
藍の一番有名な産地は阿波だと言われているが、庄内でも内陸でも栽培され、最上川を下って酒田湊から全国へと出荷されていた。
「手ぬぐいを作ります」
藍で染めた布には、汗疹などに効果があり、肌荒れを防いでくれると言われている。
さらに、それを身に着けていると、どうしたことか虫も寄り付きにくい。
打ち身の炎症も抑え、発熱にも効く。
藍染の浴衣などは、薬に体を包まれているようなものだろう。
ちなみに、薬にすれば、解熱効果や解毒効果がある。
後の本間宗久こと伝二、
後に天狗の異名で呼ばれるようになる天才思惑師(相場師)は、まだ何者でもない。
帳合米商(ちょうあいまいあきない)
いわゆる相場と呼ばれる投機的取引の発祥である。
酒田での商売は30年と言われている。
平均して、30年持たずに潰れていくという意味だ。
ほとんどの家が2代も続かない。
酒田は金と女の町だ。
男たちを相手にする遊女は幾らいても足りないほどだ。
酒田湊は好機の宝庫だ。
金はいつでも唸っている。
それを摑むか摑まぬか、すべてが当人次第だ。
ちなみに、大坂から酒田まで、早飛脚便で最短7日ほどだ。
「うむ。けどのう、わしだけでは足りぬ。なんというても寿命が足りぬ」
「なにを言われますか。父上は矍鑠(かくしゃく)としておられます」
庄内から江戸までは、およそ120里、470キロ、半月ほどの行程である。
米相場の中心は江戸ではなく、大坂堂島だ。
幕府の認める帳合相場取引が大坂の堂島だけだったからだ。
享保(きょうほう)の大飢饉。死者数10万人、江戸三大飢餓の最初となった。
人情家、芝居の話などすればで勧善懲悪(かんぜんちょうあく)が大好きなのだ。おまけに涙もろい。
「相対済ましの令」
事実、将軍吉宗は言ったのだ
「予の意のままにならぬものが一つある。それが米相場だ」
懸念があるとすれば、蝗害(こうがい・いなご)だ。
「気迷い人気」
100石は4斗俵で、250俵である。価格にして250両に相当する。
用意しなければならない証拠金は25両である。
江戸の町では、10両の盗みで首が飛ぶ。
「ええ。新堀はことに土地が肥えておりますゆえ。けれど、それは最上川の氾濫と無縁ではありません。新堀から川が大きく蛇行してありますでしょう。あそこは、数年に一度、川の水が溢れますの。」
酒田市西野・・・のちの「本間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるまで大きくなった酒田本間家の、最初に手に入れた田地であった。
「本間さまの田で働きたい」
本間家の小作人になることが、庄内の小作人たちのあこがれとなった。
相場で資金を作り、もっとたくさんの土地で小作人の笑顔を増やしたいのだ。
後にロウソク足と呼ばれる表で、赤い縦長の長方形と黒い縦長の長方形からできている。
伝次が編み出したものだ。
「これは相場の値動きを表しているんだ」
「夜鷹なのか」
夜鷹というのは、体を売って客を取る女の中で、もっとも落ちぶれたものたちだ。
場所は夜空の下の路傍で、茣蓙を敷いてその上で交接する。
そうか、土地を担保にすれば、貸し手が借り手の失敗に巻き込まれる危険が減るじゃないか。
土地を持っている者しか相手にできないが、それでもこれで世の中が少しはかわる。
ちなみにもし読みが間違っていれば、最初の少量の玉の時点で仕舞ってしまう。
あとは相場とかかわらず、しばらく休むことを徹底した。
休むことで伝次は前の相場の気分を引きずらず、常に平常心で相場に臨むことができた。
休んでいる時間は、相場の大きな流れを読み直すことに費やした。
ふたたび、己のなかで機が熟すを待つのである。
「天井で売り、底で買い、それ以外では休む」という基本を厳守しただけだ。
たったこれだけのことで酒田の米会所を伝次は制した。
「わたしは防砂林を作るつもりです」
もし、砂が飛ばなくなれば・・・とは誰もが一度は考えることだ。
農作物の穫り入れ高は飛躍的に上がるだろう。庄内は一気に富む。
だが、そういう砂地だからこそ、植林は容易ではない。簡単にできるくらいなら、とっくに藩が備えている。
9里にわたる大砂丘だぞ。
10万両という金は、砂防林を作るには及ばぬかもしれぬ額だ。
本間四郎三郎~~後の本間光丘は言葉通り、財をなげうって防砂林を作り、
飢餓のときは米蔵と金蔵を開けて人々を救った。