
明治の元勲・大久保利通。幕末から明治維新と続く国難の時代、日本を近代国家たらしめたのは、大久保の氷の意志と構想と実行力であった。挙藩討幕から盟友・西郷との別れまで、逆境の人を描く評伝小説
大久保の死後、遺族が遺産を改めたとき、手元に現金は140円しかなく、逆に借金は8000円もあった。
その8000円すべて、国の事業に足りぬ分を個人で補填したために作った借金であったという。
斉彬は祖父重豪(しげひで)に似ている。
負債額500万両
ちなみに斉彬が日の丸を提案しなければ、白地に黒の一文字の図柄が使われていたはずだ。
諸藩、合従連衡(がっしょうれんこう)の策を改め、列強の脅威を退け
「おいにどいだけでくっかわかりもはん。
じゃっどん、あんとき死んだ命でごわす。死力を尽くしてやるまでじゃ」
「力のなかっこつは、こげん哀しかこつじゃったか」
後に京を震えあがらせる、人斬りの田中新兵衛である。
藩は斬首が決まっていた囚人を一人、浜に引きずり出し、海水に顔を浸けて水死させた。
ちょうど恰幅がよく、背格好が西郷に似た男だ。
それからしばらく水に浸け、月照の遺体と共に戸板に載せると、大口郷へと送り出した。
ふたつの遺体を西郷と月照のものだといって差し出し、検視させるつもりだ。
西郷は生かされることが決まったのである。
「恐れながら、江戸の芝の藩邸をお焼きなさいませ」
「焼けば、茂久さまは江戸へ参府されても住む場所がごわさねば・・・」
「なるほど、新たに藩邸が建つまでは参るわけにはゆかぬというわけか」
幕府からは、焼失した藩邸を早く造りなおせと、木曽川治水工事に要求していた七万五千両の献金を特別に免除すると言ってきたではないか。さらに、島津斉彬の養女で先の十三代将軍家茂に嫁いだ未亡人篤姫が、三万両の見舞金を下賜(げし)してきたのだ。
「今が好機でございますぞ。お見舞金と修繕費免除のお礼に出府まさいませ」
「その証に今日寄り一蔵と名乗るがよい」
なんとしても西郷を呼び戻し、領袖(りょうしゅう)に据えることで、食い止めようとしていたのだ。
清河八郎らの討幕計画に加担するため、薩摩藩から脱藩が相次いだ。
久光は西郷に、出発して赤間関(下関)に留まり、情勢を視察するように命じた。
赤間関は、九州の志士が上京する際は必ず通る長州の港町だ。
3月3日、西郷は村田新八を連れて鹿児島を発った。
西郷に遅れること十三日。島津久光は、およそ1千の兵を引き連れ、鹿児島を後にした。
その中に大久保もいる。
ことの起こりは3月28日、久光が赤間関に着いたとき、そこで待っているはずの西郷の姿が、どこにも見られなかった。
命令を無視された久光は不快に思ったものの、もっと重要な問題に直面していたため、苛立ちは別のところにあった。
赤間関を通過して続々と京へ上がっていった顔ぶれと人数を大久保はかの地で調査したが、それが尋常でない一大勢力だった。
今なお増え続けている。
公卿の中山忠光を担ぎ上げて大和に挙兵し、上京した久光をも抱き込み、呼応して起たせるものらしい。
このままでは京に滞在しただけで久光謀反となりかねない。
後にこれは赤間関で待っていなかった西郷に久光が激怒したと伝えられる事件だが、久光自身、この段階では不快を示したに過ぎない。爆発しそうな苛立ちは西郷にではなく、自分の晴れ舞台を台無しにしそうな勢いの、暴発しかけた浪士らに対して抱いていた感情である。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずでごわそ」
赤間関に久光を待たずに京へ出発した理由を西郷は、そう言って微笑った。
「我が国すべてを変えるには、やはり全国の士が起たねば駄目でごわんそ」
「じゃっどん、今は暴挙は困りもす。我が一命にかえても、暴発は止めもうすつもりで先に京へ参ってごわす」
「おいが止めもす。おはんな大殿を予定通り京へ連れてくれればよかごわんそ」
「おいとここで刺し違え、一緒に死んでやったもんせ」
「じゃっどん、おいに、真(まこと)にやるべきことがあるのなら、天はおいば生かすはずじゃ」
「もし、西郷の首が落ちれば、浪士どもの燃え上がりかけている火に、油を注ぐことになりましょう。
藩内も脱藩暴発はもちろんのこと、憤死も相次ぐことになりましょう。
それがしも、愚か者でござれば・・・」
「一蔵、脅す気か」
「いかようにもお取りくだされ」
不穏な空気は京全体を包み込み、公卿をいとも簡単に縮みあがらせた。
「浪士どもが蜂起するという不穏な計画があるゆえ、島津和泉(久光)はしばらく京に留まり、
これらを取り押さえ鎮静に努めよ」
それには浪士らをこれ以上刺激してはならない。久光は、西郷の処分を斬首でも切腹でもなく、「遠島」に決めた。
温情を見せて、西郷復活の希望を持たせるのだ。
有馬らが伏見到着後、船着き場近くにある船宿寺田屋に入っていったことを報告した。
今夜、以前から計画していた守旧派関白の九条尚忠襲撃を実行に移すというのだ。
この始末の付け方如何が、今後の朝廷内の薩摩の重さを決める。
久光は決して間違ってはならない人生の岐路に立った。
5月早々には公卿・大原重徳(しげとみ)を勅使に、薩摩藩兵がその護衛に当たる形で江戸へ下ることが決まった。
「三事策」
一に曰く、将軍上洛すべし
二に曰く、京師に五大老を置くべし
三に曰く、一橋慶喜を将軍の後見とし、松平春獄を幕府の大老に任ずべし
一つ目が長州の要求
二つ目が岩倉の要求
三つ目が薩摩の要求を文書化したものだ。
江戸では一橋慶喜と松平春獄の二人が、早々幕政改革に着手していた。
まず行ったのが、参勤交代や、諸侯の妻子を江戸に留め置く人質政策の実質上の廃止である。
廃止する代わりに、これらにかかっていた莫大な経費を、軍備・海防に充てるよう諸藩に命じた。
「是非ともイギリスの優れた技術で、我が薩摩藩のために、軍艦を建造していただきたい」
「おお、昨日の敵を信じると言うのか。奇跡の言葉だ。薩摩人は素晴らしい!」
大久保はあえて元込軍銃の製造のための研究所、御試元込製銃所を造り、村田勇右衛門を所長に据えて研究させた。
これは戊辰戦争には間に合わなかったのだが、後に村田銃と呼ばれ、帝国陸軍所有の銃として、明治の世に実を結んでいる。
「長州狩り」が行き過ぎれば、もともと怒りの沸点の低い長州藩が爆発するのは目に見えている。
吉田松陰を殺されて以降、「やむにやまれぬ大和魂」を合言葉に、いつも憤っている。
案の定、池田屋に集まっているところを新撰組が斬り込み、13名が斬殺され、20余名が捕縛された。
世にいう池田屋事件である。
日本初の機械紡績工場である鹿児島紡績所
諸外国は待つつもりだったのだ、幕府が横浜を鎖港するなどと言いださねば。
幕府はその場限りの言い訳で、約束の日がきても港を開こうとしないのではないか、という疑念を諸外国は抱いた。
四侯:薩摩・島津久光 越前・松平春嶽 土佐・山内容堂 宇和島・伊達宗城
パリ万博博覧会では、幕府が日本大君政府、薩摩が日本薩摩政府として紹介され、各国の新聞は大君と太守は同等にミカドの旗下にある一諸侯であると報じた。
「錦旗が翻ればそれは官軍や」
「官軍になれねば、この国では勝利はないと思うがよい」
一番必要なものは最新式の洋式武器でもなんでもない。錦旗なのだと岩倉は言う。
大久保は岩倉の言葉を肝に銘じ、錦旗の図を持ち帰った。
さっそく家族の着物を仕立てる振りをして必要な布を買う。
大久保はこれらを愛人のお勇に頼んで買ってもらった。そのほうが目立たない。
このお勇との間には最終的に4人も子供だできている。
紙は土佐藩から出された大政奉還の建白書である。
慶喜は大政奉還建白書の背後を至急調べさせることにした。
だのに、肝心のフランスが幕府を見限ろうと距離を取り始めた。理由はわかっている。
大久保一蔵のせいだ。あの男がパリの万博に薩摩藩を幕府と並び立たせて参加させた。
そのせいで、フランスは日本の国体が朝廷と幕府という二重構造になっていることに気付いてしまった。
その場に残った六藩は、いづれも大政奉還を将軍に勧めた。
薩摩の小松帯刀のみは、大政奉還と共に、将軍職の辞職も迫った。
将軍職辞職については幕臣への手前、こちらから言い出せることではないが、朝廷より辞職の要請があれば応じる意思を示した。
大政奉還がなされたからといって、薩摩が討幕への動きを止めることはない。
いよいよ薩摩軍と長州軍と芸州軍を京へ入れるため、藩地へと戻っていった。
「おいば、どげん汚か手ば使ってでも、徳川ば潰しもす。おいの新政府の未来図に、徳川も慶喜もありもはん。日本全体のことば考えれば、大政奉還しかありもはん。そいば名目の大政奉還ではごわっさん。事実上の大政奉還ごわす。そいのできん幕府ば、日本の明日にいらぬ者どもではごわはんか」
「おいも泥を被る覚悟ばできておりもす。」
泥を被るとは、江戸の薩摩藩邸に板垣から預かって入れた浪士たちを使うことを言っているのだ。
足軽出身の伊藤博文は、木戸孝允(たかよし”)に小者紛いのことをしながらひっついて回ったことによって引き立てられ、世に出た男である。木戸の前に出ると癖で小者風情に戻ってしまうのが。どうにも苦痛だった。
忙しいとは心を亡くすと書くが・・・
両・朱・文などの日本古来の通貨単位を廃し、世界基準を満たした十進法の円・銭・厘という通貨単位を生み出したのも大隈だ。
江藤は口では無難に「立憲君主制」を唱えているが、「立憲共和制」を目指しているのは明白だ。
江藤は出現させようとしている国体は、今の日本には早すぎる。
日本国民は、いまだ「国民」という意識すら薄く、義務のなんたるかを知らない。知らぬうちに権利を与えれば、権利だけを主張するようになる。国政が整う前にそんな事態に陥れば、官僚だけでなく、国民をも制御できなくなる。そうなれば、諸外国に付け入る隙を与えるだけだ。
このまま江藤が推進しようとすれば、全力で、それこそ命すら懸け、叩き潰すしかない。
それは江藤の死を意味する。
大久保に強い影響力を与えたのはイギリスとプロシアだった。
イギリスは日本と同じく資源に乏しく、自国で生み出せるものが少ないのに国は富んでいる。
イギリスが金を蓄える仕組みは、今後の日本の参考になるに違いない。
技術力の販売である。
材料を他国から輸入し、技術力を生かして加工し、付加価値分を上乗せして輸出する。
ビスマルクは、訪問した使節団に、世界というものを語ってくれた。
列強の親切を真に受けては痛い目に遭う。笑顔の下に常に狡猾な罠が仕組まれていることを前提に、こちらも上手く立ち回らなければならない。
そうでなくとも明治政府は金がないのだ。
各省が大蔵省に要求した予算額は、それぞれが政府の支払い能力をまったく考慮しない莫大なもので、そんなものは支払いようもないから、大蔵省の井上馨はけんもほろろに突っぱねた。
この陸軍省の無茶な予算を通すため、他の省も軒並み要求額より削られたが、江藤が激しく抵抗したのに勇気を得、学校を設立したい文部省と、鉄道事業を広げたい工部省が江藤を押したて、大蔵省に反乱を起こした。
大久保は帰国しても参議ではないから発言権もなく、古巣の大蔵省も予算問題を見事に収めた大隈がそのまま仕切ることになり、戻る椅子がない。大政官の方には長期休暇届けを提出し、沈黙を守っている。じたばたしても仕方がないから、この機会に以前からやりたかった富士山登山を楽しみ、温泉にでも浸かるつもりだ。大久保44歳の夏である。
すでに日本は五百万もの外債を作り、償却の確たる方法を見出していないのです。その多くがイギリスに頼っておりますが、もし、償却できぬときは、イギリスに内政干渉の口実を与えることになりましょう」
主上は岩倉を召し出し
「朕は保国安民を第一とし、国政を整え、民力を養うために、汝の奏上を嘉納しよう」
岩倉の意見を取ることを宣言した。大久保らの逆転勝利の瞬間である。
これを受け、江藤・副島・板垣・後藤が挙って(こぞって)辞表を提出する。
西郷という爆弾が野に下ったため、両者が結託せぬよう、大久保はたって島津久光を左大臣に迎え入れた。
他は木戸以外、大久保の思い通りに動く者たちばかりで固めた。
もう、大久保は何者にも遠慮する気はなかった。
独裁体制を敷き、少々強引にでも国体の基礎を作り上げると決めていた。
そうしなければ、いつまでたっても日本は強い国になっていかない。
そんな男が、不平士族に加担して、この国を危機に陥れるなど、するはずもない。
西郷が東京を去るとき、大政官の方向を振り返り、
「一蔵さえ政府におれば、天下のことば安心して任せてよかごわそ」と呟いたのだとか。
江藤はろくな裁判も受けられず、除族の上、斬首となった。
「ただ、皇天后土の我が心を知るあるのみ」と江藤は三回叫び、その首を落とされて散った。
享年41歳である。
戦費は台湾を支配する清国に見舞金として払わせ、このときはっきりと琉球を日本領土であると認めさせた。
西郷は9月24日に、「もうここらでよか」を最期の言葉に、戦場に散った。
知らせを受けた大久保は、「至極、目出度いことであります」と答えたが、誰もいなくなると自らの頭を何度も柱や壁に打ち付け、激情のままに泣いた。
「大久保卿は情に厚い優しい人でした」と伊藤は語り、
「もし、当時大久保のような人がいなければ、紛糾錯雑した時代、内治外交の整理も難しかったかもしれません」
大隈重信は、そのように語った。
大久保の最後の事業となったのは、地方代議制度の確立であった。
これにより、人々は自分の払った税金の使途を、必ず議会に通して決議を経ることで、知ることができるようになるのである。
日本の真の夜明けは、ここから始まったと言えるのではないだろうか。