「本能寺の変」の実行者・明智光秀。謎に包まれた青年期からその最期まで、光秀の生涯を詳細に再現し、諸説入り乱れる本能寺の変の動機に迫る。本能寺の変後に記された同時代史料「惟任退治記」の全原文と現代語訳も収録。
1571年9月12日に信長は延暦寺焼き討ちを決行したが、その際に光秀は宇佐山城主として参戦し、仰木谷から比叡山山頂の延暦寺にお侵攻していた。当然、その際、多くの僧侶たちを殺害したことになるだろう。
「是非ともなでぎりニ仕るべく候」
武官としても歴戦の武将に劣らない意欲を見せており、その才能が今回の焼き討ちで遺憾なく発揮されたことがわかる。
「なでぎり」とは「ねきり」と同様、織田軍の戦争を語るキーワードであり、文字通りの殲滅戦を行う宣言だった。その言葉を織田軍下にはなかった光秀が放ったことは注目すべき。
延暦寺焼き討ちの功績として光秀に滋賀郡全体が与えられた。
坂本城主・明智光秀の誕生
~~織田家中になる~~
信長と義昭の親密な関係は終わった。
光秀は信長方として挙兵し、義昭方の掃討にあたる。
義昭は槇島城で降伏して、若江城に蟄居を命じられ、将軍の反乱は迅速に鎮圧されたのである。
松永久秀・多聞山城(たもんやまじょう)
伊勢長島の一向一揆攻め
武田勝頼・長篠の合戦・信長の鉄砲隊の起用方法・三段撃ち戦法・道路整備、軍隊の迅速な移動
越前一向一揆・丹波攻め
雑賀(さいが)攻め・
信貴山城で松永久秀と合戦
「はや籠城之輩、四五百も餓死候」
明智光秀家中軍法
~~本能寺の変への道~~
ついに信長打倒に動いた光秀
信長と光秀の死は、室町時代の終わりを意味した。
信長側室だった自身の妹の死去
羽柴秀吉・天王山合戦・山崎の合戦
里人が竹垣越しに繰り出した鑓で腋の下を突かれ、重症を負う。