110『岡山(美作・備前・備中)の今昔』水島工業地帯1(石油化学コンビナートなどの設置)
1974年(昭和49年)12月、三菱石油水島製油所で重油流出事故が起きた。それより10年余り前の1961年(昭和35年)5月、石油精製などの操業を開始した。そして迎えた1963年、大規模な干拓で増勢された土地に、まずは三菱グループの石油化学部門の三菱化成が化成水島を建設する。ほぼ時を同じくして、水島合成化学、関東電化工業、菱日水島などが形成される。また、旭化成グループからは、旭ダウ、旭チバの誘致などがあり、それらの関連会社も設置が進んでいく。これが、瀬戸内海屈指の石油化学コンビナートの誕生であった。
顧みれば、このあたりの工場敷地は、昔は高梁川と旧東高梁川の河口沖であった。ところが、昔の連島の南方あたり、東の方角から福田新田、亀島新田、鶴新田として埋め立てられていた。そうであるものを、さらに戦後その先を埋め立て、水島工業地区として整備した。
一方、福田新田沖の埋立地には、東京製鉄、化成水島、中国電力、日本鉱業などの工場が南へ向かって延びた。また亀島新田と鶴新田の南部に造成された埋立地には、三菱自動車、日本ガス化学、川崎製鉄、そして三菱石油とある。地図を広げると、川崎製鉄の敷地は、瀬戸内海の南域深くまで進出している。
さらに、これらの西の高梁川の向こう岸、昔の乙島(おとしま)そして玉島港の南方には、玉島に乙島(おとしま)地区が広がる。昭和に入ってからのここでは、1934年(昭和9年)坂田新田(56ヘクタール)、ついで1943年(同18年)に養父ヶ鼻周辺の埋立てで太平新開地(33ヘクタール)を造成し、そこに企業(浦賀重工業)を誘致した。
続いて、高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われる。こちらには、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)や中国電力を中心に、ということになっていった。さらに、沖合水域が埋め立てされていった。こうした一連の動きにより、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれる。ひいては、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)が造成されたのである。
(続く)
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