□110『岡山の今昔』水島工業地帯1(石油化学コンビナートなどの設置)

2018-09-07 09:38:26 | Weblog

110『岡山(美作・備前・備中)の今昔』水島工業地帯1(石油化学コンビナートなどの設置)

 1974年(昭和49年)12月、三菱石油水島製油所で重油流出事故が起きた。それより10年余り前の1961年(昭和35年)5月、石油精製などの操業を開始した。そして迎えた1963年、大規模な干拓で増勢された土地に、まずは三菱グループの石油化学部門の三菱化成が化成水島を建設する。ほぼ時を同じくして、水島合成化学、関東電化工業、菱日水島などが形成される。また、旭化成グループからは、旭ダウ、旭チバの誘致などがあり、それらの関連会社も設置が進んでいく。これが、瀬戸内海屈指の石油化学コンビナートの誕生であった。

 顧みれば、このあたりの工場敷地は、昔は高梁川と旧東高梁川の河口沖であった。ところが、昔の連島の南方あたり、東の方角から福田新田、亀島新田、鶴新田として埋め立てられていた。そうであるものを、さらに戦後その先を埋め立て、水島工業地区として整備した。

 一方、福田新田沖の埋立地には、東京製鉄、化成水島、中国電力、日本鉱業などの工場が南へ向かって延びた。また亀島新田と鶴新田の南部に造成された埋立地には、三菱自動車、日本ガス化学、川崎製鉄、そして三菱石油とある。地図を広げると、川崎製鉄の敷地は、瀬戸内海の南域深くまで進出している。

 さらに、これらの西の高梁川の向こう岸、昔の乙島(おとしま)そして玉島港の南方には、玉島に乙島(おとしま)地区が広がる。昭和に入ってからのここでは、1934年(昭和9年)坂田新田(56ヘクタール)、ついで1943年(同18年)に養父ヶ鼻周辺の埋立てで太平新開地(33ヘクタール)を造成し、そこに企業(浦賀重工業)を誘致した。

 続いて、高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われる。こちらには、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)や中国電力を中心に、ということになっていった。さらに、沖合水域が埋め立てされていった。こうした一連の動きにより、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれる。ひいては、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)が造成されたのである。

 (続く)

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□109『岡山の今昔』水島工業地帯1(造成)

2018-09-07 09:37:28 | Weblog

109『岡山(美作・備前・備中)の今昔』水島工業地帯1(造成)

 水島にある工場群は、この瀬戸内海に張り出したところにある。岡山県の工業製品出荷額のおよそ半分を占める、といわれる。工業地帯へは、山陽本線の倉敷から水島臨海鉄道に乗って、球場前、西富井(にしとみい)、福井(ふくい)、浦田(うらた)、弥生(やよい)栄(さかえ)、常磐(ときわ)、水島(みずしま)、そして最終の三菱自工前(みつびしじこうまえ)へと進んでいく。また、瀬戸大橋線は、岡山を出て大元(おおもと)、備前市(びぜんし)、妹尾(せのお)と来る。それからは、備中箕島(びっちゅうみのしま)、早島(はやしま)、久々原(くぐはら)と来る。

 その次は進路を南にとって、茶屋町(ちゃやまち)、植松(うえまつ)で東の方からの線と合流、その後は木見(きみ)、上の町(かみのちょう)、児島(こじま)と行き、そこからは瀬戸大橋(いわゆる児島・坂出ルート)を渡っていくことになっている。
 ところで、水島を全国有数の工業地帯にするには、さまざまな準備活動が必要であり、それらはやがて集中的な取組となっていく。これらのおよそを時系列で追うと、こうなっている。
 1946年10月、農林省が福田地区の干拓に着工する。計画では、1959年(昭和36年)までに297ヘクタールを予定。
 1949年10月、当時の倉敷市が水島を囲む福田町、連島町など8か町村の合併計画を発表する。
 1950年12月、農林省が連島の干拓に着工する。計画によると、1959年まで440ヘクタールを予定。
 1951年8月、岡山県が、水島地区の港湾管理者となる。
 1952年4月、倉敷市が水島鉄道を買収する。
 1953年、倉敷市が、水島を囲む福田、連島の両町と合併する。
 1955年11月、岡山県が日本興油を誘致することが決まる。
 1958年2月、岡山県が三菱石油を誘致することが決まる。
 1959年3月、中部電力水島火力発電所を誘致することが決まる。
 1959年4月、児島C地区の造成が着工となる。1939年までに204ヘクタールを予定。
 1959年9月、岡山県が日本鉱業を誘致することが決まる。
 1960年6月、国が、水島港を重要港湾・石油港湾に指定する。同月、国が、水島地区を重要工鉱業地帯整備地域に指定する。
 1961年4月、玉島臨港鉄道に着工する。
 1961年6月、岡山県が川崎製鉄を誘致することが決まる。
 1962年6月、水島港が開港となる。
 1963年9月、倉敷市の公害対策協議会が発足する。
 1964年1月、国が、県南地区を新産業都市に指定する。
 1965年8月、厚生省が、公害環境汚染調査を開始する。
 1965年11月、倉敷市が、防災会議を結成する。
 1966年12月、倉敷、児島、玉島の3市が合併協定に調印する。
 1967年1月、玉島E地区の造成に着工する。予定は、1974年までに86ヘクタール。
 1967年2月、新生の倉敷市が発足する。
 1967年3月、煤煙規制法の地域指定を受ける。
 1967年12月、佐野安船渠(さのやすせんきょ)を水島C地区へ誘致することで調印する。
 1969年1月、川崎製鉄の水島製鉄所が、2号高炉に火入れを行う。
 1969年6月、児島塩生C地区の旭化成工業水島アクリルリル工場が工場完工となる。
同月、玉島乙島地先E地区の中国電力玉島火力発電所の起工式が行われる。同月、児島塩生C地区の日本ゼオン水島工場の試運転が始まる。
 1969年7月、第二次の水島地区大気汚染防止対策協議会が発足となる。
 これらに関連して、岡山県が水島臨海工業地帯に企業を誘致し、工業立県化を推進したのには、この間知事をつとめた三木行治(みきゆきはる)の積極姿勢があったことは、特記されてよい。三木は、1903年(明治36年)に岡山市畑鮎に生まれた。法学士と医学博士の経歴の上、官僚にもなって最後のポストは厚生省公衆衛生局長であった。

 1951年(昭和26年)に48歳で岡山県知事に初当選する。革新系ということになっていた。それから、連続当選4期で、1964年に急逝するまで三木は知事であり続けた。彼が推進した時代の工業化には後々の課題を残したものも多かったものの、彼の非凡なところは、いわゆるブルトーザー的な開発志向ではなくて、多方面に活動の領域を設けていたところにあった。
 写真で三木の顔を見ると、ごつい感じなのだが、そればかりではない。豪放なところと繊細さをあわせ滲ませる。古代で言うと、英雄の相といったところか。つまり、なんだか人なつっこい風貌なのである。その柔らかな表情さながらに、「岡山県福祉計画」を樹立することで、子どもや老人、社会的弱者の福祉に積極的に取り組んだ。

 かの孔子に「剛毅木訥仁に近し」という、戦後先駆けの政治家だといえる。また開眼運動を提唱し、アイバンクを設置した。東洋のノーベル賞といわれるマグサイ賞を受賞したことでも知られる、日本レベルで見ても類の少ない、爽やかな政治家であったのではないか。
 ところで、かの孔子の言に、次のようにあるのをご存じであろうか。すなわち、「子曰く、利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し」(『論語』巻二第四里仁篇12)。


(続く)

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