156の1『自然と人間の歴史・日本篇』応仁の乱(1467~1478)
そして迎えた1467年、応仁の乱(応仁・文明の乱ともいう)が勃発する。その様子は、例えば『応仁記』(巻三)中に、こうある。
「洛中大焼之事
花洛は真に名に負ふ平安城なりしに、量るらずも応仁の兵乱によつて、今赤土と成りにけり。就中(なかんづく)、禁裡紫宸(きんりししん)となるは仙洞(せんとう)也。今の伏見殿、是れなり。高宮雲に聳え、複道空に行き、五歩に一楼、十歩に一閣、出入騒人の墨客(ぼっかく)、心を留めざるなかりけり。近比西芳寺の風景を被移、山には楊梅桃李の名花をうえ、鯨鯢龍鳳怪石を立て求友鴛鴦は愛水鏡、弄花淑女は奏雪絃、椒蘭の烟り綺羅の艶薫四方、飜九天粧ひ、正ニ秦の阿房宮と云ども是にはしかとぞ覚えべりける。
又花の御所の甍瑩珠玉を鏤金銀を、其費六十万緡なれば、浅き智の筆ニ記し難し。并に高倉の御所の事、大樹義政公御母御台所居入。是れも其の営財を尋ぬれば、腰障子一間の直ひニ万銭と也。此の厳麗以之はかるべし。(中略)
応仁丁亥の歳(1467年)、天下大いに動乱し、それより永く五畿七道ことごとく乱る。その起(おこり)を尋るに、尊氏将軍の七代目の将軍義政公の天下の成敗を有道の管領に任さず、ただ御台所、あるいは香樹院、あるいは春日局などいう、理非をも弁(わきまえ)えず、公事政道をも知り給わざる青女房・比丘尼(びくに)達、はからいとして酒宴淫楽の紛れに申し沙汰せられ、・・・・・ただ天下は破れば破れよ。世間は滅ばば滅びよ。人はともあれ我身さへ富貴ならば、他より一段瑩羹様(かがやかんよう)に振舞わんと成行(なりゆ)けり。
計らざりき、万歳期せし花の都、今何(な)んぞ狐狼の伏土とならんとは。適(たまたま)残る東寺・北野さへ灰土となるを。古にも治乱興亡のならひありといえども、応仁の一変は仏法・王法ともに破滅し、諸宗皆ことごとく絶〔たえ〕はてぬるを感嘆に絶えず。
飯尾彦六左衛門尉、一首の歌を詠じける。
汝(なれ)やしる 都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)あがるを見ても落る涙は。」
この乱は、「下克上」の風潮が日本の社会に本格的に広まる契機となった。この乱の始まりは、細川勝元と山名持豊の対立に、足利義尚(あしかがよしひさ)と足利義視(あしかがよしみ)による将軍継嗣争いが絡んで起こった。義尚は足利義政の子であり、義視はその弟であった。義政という人は、将軍職の時、文化の面では多彩ぶりを発揮するも、政治は妻の日野富子(ひのとみこ)らに任せて、風になびく葦のように、無計画な税強化の流れに身を任せる体(てい)たらくであった。
これに、畠山政長(はたけやままさなが)と義就(よしなり)、斯波義敏(しばよしとし)と義廉(よしかど)の家督争いもこれに絡んでいく。あれやこれやで将軍家と主要大名の多くが、主に二つの陣営に分かれて勢力争いを繰り広げるに至る。
この大内乱は、1477年(応仁9年)になって、やっと沈静化に向かう。それまでの長きに渡って主な戦場となっていた京都や畿内のそこかしこは荒れ果ててしまう。「上」は将軍家から、「下」は庶民に至るまで、この時代は社会の構成員のほとんど誰もが緊張し合っていた。油断すればやられてしまうと考えざるをえないような社会の有様であったろう
(続く)
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