○○156の1『自然と人間の歴史・日本篇』応仁の乱(1467~1478)

2018-09-26 19:14:10 | Weblog

156の1『自然と人間の歴史・日本篇』応仁の乱(1467~1478)

 そして迎えた1467年、応仁の乱(応仁・文明の乱ともいう)が勃発する。その様子は、例えば『応仁記』(巻三)中に、こうある。
 「洛中大焼之事
 花洛は真に名に負ふ平安城なりしに、量るらずも応仁の兵乱によつて、今赤土と成りにけり。就中(なかんづく)、禁裡紫宸(きんりししん)となるは仙洞(せんとう)也。今の伏見殿、是れなり。高宮雲に聳え、複道空に行き、五歩に一楼、十歩に一閣、出入騒人の墨客(ぼっかく)、心を留めざるなかりけり。近比西芳寺の風景を被移、山には楊梅桃李の名花をうえ、鯨鯢龍鳳怪石を立て求友鴛鴦は愛水鏡、弄花淑女は奏雪絃、椒蘭の烟り綺羅の艶薫四方、飜九天粧ひ、正ニ秦の阿房宮と云ども是にはしかとぞ覚えべりける。

 又花の御所の甍瑩珠玉を鏤金銀を、其費六十万緡なれば、浅き智の筆ニ記し難し。并に高倉の御所の事、大樹義政公御母御台所居入。是れも其の営財を尋ぬれば、腰障子一間の直ひニ万銭と也。此の厳麗以之はかるべし。(中略)
 応仁丁亥の歳(1467年)、天下大いに動乱し、それより永く五畿七道ことごとく乱る。その起(おこり)を尋るに、尊氏将軍の七代目の将軍義政公の天下の成敗を有道の管領に任さず、ただ御台所、あるいは香樹院、あるいは春日局などいう、理非をも弁(わきまえ)えず、公事政道をも知り給わざる青女房・比丘尼(びくに)達、はからいとして酒宴淫楽の紛れに申し沙汰せられ、・・・・・ただ天下は破れば破れよ。世間は滅ばば滅びよ。人はともあれ我身さへ富貴ならば、他より一段瑩羹様(かがやかんよう)に振舞わんと成行(なりゆ)けり。
 計らざりき、万歳期せし花の都、今何(な)んぞ狐狼の伏土とならんとは。適(たまたま)残る東寺・北野さへ灰土となるを。古にも治乱興亡のならひありといえども、応仁の一変は仏法・王法ともに破滅し、諸宗皆ことごとく絶〔たえ〕はてぬるを感嘆に絶えず。
 飯尾彦六左衛門尉、一首の歌を詠じける。
 汝(なれ)やしる 都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)あがるを見ても落る涙は。」
 この乱は、「下克上」の風潮が日本の社会に本格的に広まる契機となった。この乱の始まりは、細川勝元と山名持豊の対立に、足利義尚(あしかがよしひさ)と足利義視(あしかがよしみ)による将軍継嗣争いが絡んで起こった。義尚は足利義政の子であり、義視はその弟であった。義政という人は、将軍職の時、文化の面では多彩ぶりを発揮するも、政治は妻の日野富子(ひのとみこ)らに任せて、風になびく葦のように、無計画な税強化の流れに身を任せる体(てい)たらくであった。

 これに、畠山政長(はたけやままさなが)と義就(よしなり)、斯波義敏(しばよしとし)と義廉(よしかど)の家督争いもこれに絡んでいく。あれやこれやで将軍家と主要大名の多くが、主に二つの陣営に分かれて勢力争いを繰り広げるに至る。
 この大内乱は、1477年(応仁9年)になって、やっと沈静化に向かう。それまでの長きに渡って主な戦場となっていた京都や畿内のそこかしこは荒れ果ててしまう。「上」は将軍家から、「下」は庶民に至るまで、この時代は社会の構成員のほとんど誰もが緊張し合っていた。油断すればやられてしまうと考えざるをえないような社会の有様であったろう

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


○○156の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦国の世へ(中国地方)

2018-09-26 19:11:24 | Weblog

156の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦国の世へ(中国地方)

 1496年(明応5年)、播磨、備前及び美作の三国守護・赤松政則が死去し、一族の義村が家督を継いだ。ところが、播磨の国揖保郡浦上荘(現在の兵庫県龍野市揖保町)の地頭から身を起こし、赤松氏の補佐をしていた浦上氏が、しだいに主家を凌ぐ力を誇示するようになる。1520年(永正17年)、赤松義村の軍勢は村上方の岩屋城を包囲するも、救援に向かった村上村宗の軍勢の攻撃を受けて大敗を喫す。

 村上氏は、その後、備前と美作の大半及び西播磨地方を支配下に置いていたが、傾き加減も甚だしい室町幕府管領(かんれい)の細川高国に与して中央政界に進出するものの、その高国は一族の内紛で細川晴元に敗れ、その目的を果たせなかった。浦上宗景が天神山城に移って間もない1532年(天文元年)になると、北の出雲国の守護代にあって、同国の能義郡富田(現在の島根県広瀬町)に本拠をおく尼子氏(あまこし)が美作に食指を動かし始めた。以後、美作の国衆の中に、尼子に与する豪族が増えていく。
 尼子氏は、金川城主の松田氏とも組んで、備前北部から備中、そして美作東部に勢力を伸長させつつ、浦上氏、赤松氏ともども互いに覇を争ってゆく。その後の戦国期の1552年(天文21年)において、尼子晴久(あまこはるひさ)が足利幕府の将軍足利義藤(のち義輝)に出雲、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)に加え、美作、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)の守護に任じられた。1554年(天文23年)、尼子氏はその余勢で、安芸(あき、現在の広島県東部)に積極果敢に進入して毛利勢と戦ったものの、かえって大敗を喫してしまう。続く1558年(永禄元年)頃になると、備中、さらに美作へと広がってゆく。
 ところで、この頃、津山盆地のやや北部に位置するところに中山神社という神社があった。この社は、707年(慶雲○年)の創建とされる。大和の朝廷から、備前国から北部6郡が『美作国』として分国の命令が下った。その時に、備中国の吉備中山のふもとに鎮座する吉備の総鎮守である吉備津神社より勧請したのが始まりといわれる。 中山神社という社名は、吉備中山に由来しているとのことだ。
 地の人々から久しく篤い信仰を受けていた神社であったが、1533年(天文2年)、尼子氏の美作攻略のとき兵火により社殿が焼失してしまう。天文年間(1532年から1555年)にかけて、尼子一族の支配に不満な百姓たちの土一揆が起きる。これを鎮圧すべく、尼子勢は百姓たちが根城にしていた社殿をめがけて攻撃した。その時、火の手が上がったものかもしれない。尼子氏が意図的に燃やしたとは断定できない。気がついたら燃えていたということも考えられなくもない。1559年(永禄2年)、出雲の富田城主の尼子晴久が「戦捷報賽」と称し、社殿を復興する。

 かねてから、尼子は先の火災の後味悪くして、再建の機会を狙っていたのかもしれない。建物の形式は、世に「中山造」(なかやまづくり)と称せられ、これが現在に至っている。棟梁は、伯耆の国の中尾藤左右衛門といい、完成までし18年かかったらしい。出雲大社を造った頃からの大工魂といおうか、その出雲からやってきた頭領たちが指揮して建てた本殿が奮っている。「入母屋造妻入檜皮葺で間口5.5間、奥行5.5間、建坪約41.5坪」というから、どっしりと威厳がある。ゆえに、1914年(大正3年)には国宝建造物の指定を受け、現在は国指定重要文化財となっている。
 話は合戦に戻って、毛利氏(もうりし)と尼子氏の日常茶飯の勢力争いを繰り広げる。
1566年(永禄8年)頃には、毛利氏が尼子義久の本拠である富田月山城に攻め寄せ、ついに降伏を勝ち取り、かくて毛利氏は山陰、備後、備中を手中に収めることになった。
この影響から、備前の一部、みまさか地域への毛利氏の影響力も高まり、浦上宗景の勢力と踵を接するまでになっていた。やがて安土・桃山期に入る頃には、東からの織田氏の勢力範囲が姫路から西へと伸長してきたことから、西からの毛利勢と、織田氏と結んだ南の岡山からの宇喜多勢との間のせめぎ合いがこれらの地で激烈に繰り広げられてゆく。
 宇喜多氏は、もともと、邑久郡豊原荘(現在の邑久郡邑久町)のあたりを本拠地とする豪族であったのが、1543年(天文12年)頃の宇喜多直家は一時は毛利氏との戦略的提携をはかり、1568年(永禄10年)には毛利方の先方隊となって5千の兵で、備前に攻め入った三村元親の2万の軍勢を蹴散らした。

この戦いは「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ばれる激戦であったが、その勝利によって独立勢力としての力を持つに至った宇喜多氏は、その翌年の1569年(永禄11年)には松田氏が本拠地とする金川城の攻略に成功し、この地を橋頭堡に美作と備中をうかがうことで、今度は毛利氏と対抗するようになっていく。1571年(元亀2年)、宇喜多の将である荒神山城主の花房職秀は、毛利の将である杉山為国と戦う。宇喜多直家が片山左馬助を院庄城におく。
 その流れから、宇喜多直家は姫路の黒田官兵衛の調略で織田方に与することになり、本拠の岡山から美作へ北上してきた。その時、その地域の侍たちの多くも、宇喜多氏による支配を好まず、むしろ毛利の方に組み込まれるのを望んでいた。特に、平安期から美作の東部全体(本拠は現在の勝田郡奈義町)にかなりの影響力を持っていた「みまさか菅(すが)党」の大方は、宇喜多の勢力に圧迫を受けた形となっていたのではないか。
 このような宇喜多嫌いの風潮が根強くあったのには、宇喜多の宗教政策が強引なものであったことにも依るのではないか。『作陽誌』は、浄土宗誕生寺の受難につきこう述べている。
 「備前太守に宇喜多直家なる者あり。大いに日蓮宗にこり、諸宗をてん滅しおおいに日蓮宗を興さんと欲す。天正六年五月二五日、宗徒三百余人を率いてこの寺に寇(こう)し、仏像を切り僧徒を追い、寺をこわし経巻をもやすなど凶暴無状をこうむれり。
 まさに法然上人の肖像砕かんとしたとき、寺辺に匠あり潜んでこれを負い山中に逃れ隠す。」

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆