□269『岡山の今昔』西日本集中豪雨

2018-09-25 22:03:36 | Weblog

269『岡山(美作・備前・備中)の今昔』西日本集中豪雨

 年間を通じて雨が少なく、自然災害の少ないことで言い習わされてきた岡山の県南地区なのだが、その「晴れの日」も強面の天候に豹変することがある。
 1893年(明治26年)の10月には、岡山県下全域で前年に続き洪水が発生し、甚大な被害があったという。仔細には、死者が415戸、全壊家屋が6,105戸、床上浸水が5,0100戸に、山崩れ12,675か所などであったというから、驚きだ。
 その中でも一際厳しい状況であったのは、県南にさしかかるあたりからの高梁川流域の西、もう少し言うと、成羽川(なりわがわ)より下流の高梁川(たかはしがわ)沿い、小田川(おだがわ)沿い、それに成羽川沿いなどであったという。
 それから百年以上が経過しての、なんということであろうか。「西日本豪雨」と称される、今回2018年7月の洪水においては、広島、愛媛そして岡山の3つの県に大きな被害が集中した。

 梅雨前線の停滞は、オホーツク海高気圧と太平洋高気圧に挟まれた形で起きた。その活発化は、台風7号から変わった温帯低気圧が影響したという。また、暖かく湿った空気の流入は、太平洋高気圧の勢力が強まって南風が流れ込んだうえ、東シナ海付近の水蒸気を多く含む空気が南西風に乗ったためだという。

 岡山県下では倉敷市真備町において、「稀代のものなのか」との声が出る程の、甚大な被害が発生した。
 ここで地理的な状況を簡単に説明しよう。高梁川の下流域西岸には、平野が広がる。そこを西から東へ小田川という高梁川に流れ込む支流が流れる。その小田川の支流に高馬川(たかまがわ、ほぼ北側から流れ込む)、末政川(すえまさがわ、南西の方角から流れ込む)などがあって、北から西から水が集まってくる。そこに、今回高梁川の上中流で大量の雨が降ったこと。それは生き物のようで、時々刻々と変化していく。
 多くの人びとが気づく頃には、小田川から水が注ぎ込む地点での高梁川の水位はかなりの高さになっていた。そのことで、小田川からの水の流れが高梁川本流に合流できないばかりか、ついには小田川へと逆流を始めたという。そうなったことで、小田川の北岸に広がる真備の平野は水浸しの脅威に晒されて行くのであった。
 7月6日の午前11時30分には、倉敷市全域の山沿いに避難準備・高齢者等避難開始の発令があった。午後7時30分には、市全域の山沿いに避難勧告が出される。

 午後10時になると、真備町全体に避難勧告が出る。続いての午後10時には、気象庁が市に大雨特別警報を出す。午後11時半前、小田川に達する少し前の地点で高馬川の堤防を水が乗り越え、あふれ出した。一気に増水したという。午後11時45分には、小田川南方の真備町に避難指示が出される。

 日が改まっての7月7日の午前0時頃、西側の堤防が決壊した。濁流が地域に流れ込み出す。0時47分には、市が国土交通省岡山河川事務所からの小田川右岸で越水との緊急連絡メールを確認した。

 午前1時30分4には、小田川北側の真備町に避難指示があった。1時34分になると、「高馬川が異常出水」との連絡が倉敷市災害対策本部に入った。これにより、市が小田川の支流・高馬川の堤防決壊を確認した。

 午前2時には、地域への本格的な浸水が始まった。それより東を流れる末政川でも、7日の午前0時頃に決壊が始まったようだ。3か所の決壊が発生した。
 その後、浸水域は周辺ばかりでなく、東部へと拡大していった。水位も変化し、住宅に濁流が流れ込んで行く。7日の午前3時40分には、倉敷市真備支所から災害対策本部に「浸水のため停電」の連絡が入る。7日の午前6時52分には、国土交通省が小田川北岸の小田側と高馬川の合流地点付近で、小田川の堤防が約100メートルにわたって決壊しているのを確認した、

 さらに、10日に国交省が発表した調査報告によると、高馬川の上流から南に延びる真谷川(まだにがわ)でも決壊しているのが見つかったという。

 以上はまだ混乱にある中での情報の一端であったのが、発生から1週間後の真備の状況については、こう伝わる。

 「国管理で決壊したのは岡山県倉敷市を流れる小田川。都道府県管理では岡山、広島両県で各十河川が決壊、最も多かった。その他は山口県の一河川だった。

 小田川は左岸の二カ所で堤防が決壊、それぞれ五十メートルと百メートルにわたって切れた。近くの高馬川も決壊し、流域の倉敷市真備町地区(人口約二万二千人、約八千九百世帯)では最大約五千世帯が浸水。地区の約三割の約千二百ヘクタールが水に漬かり、死者は五十人に上った。

 小田川は同地区を流れる高梁川の支流。水位が高まった川が支流の流れをせき止める「バックウオーター(背水)現象」が起こり、決壊したとみられている。倉敷市では小田川以外の三支流でも決壊が確認され、支流の一つである末政川では計三カ所で堤防が切れた。」(中日新聞、2018714日付け)

(続く)

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□45『岡山の今昔』幕末の攻防(津山藩、岡山藩、備中松山藩)

2018-09-25 20:46:10 | Weblog

45『岡山(美作・備前・備中)の今昔』幕末の攻防(津山藩、岡山藩、備中松山藩)

 備前と備中そして美作の3藩は、幕府と新政府の間をさまよったものの、維新の最終段階では新政府に従った。これらのうち津山藩は、さきに将軍家斉の子斉民(なりたみ)を8代藩主として迎えた10年後の1827年(文政1年)、皮肉にも先代藩主の斉孝に慶倫(よしとも)が生まれた。そのため、斉民は隠居を余儀なくされ、家督は慶倫が継ぎ新しい藩主になった。これが契機となって藩内は分裂、斉民側は佐幕派、慶倫(よしとも)側は勤王派に分かれての抗争が始まった。
 津山藩主の松平慶倫は、1863年((文久3年)8月18日政変の後も長州藩への寛大な措置を求めた。とはいっても、それに先行して実施の陣夫役、そして政変後の長州征伐や鳥羽伏見の戦いにも幕府方として参戦した。

 ここで「陣夫役」とは、雇兵でもなければ、長州藩の奇兵隊の如き、当時の腐りきった世の中を突き崩すために志願しての兵でもない。具体的には、8月政変の5箇月前の3月、津山藩は摂津湊(せっつみなと、現在の兵庫県神戸市)の警備を請け負う、そのことで領地内の出役可能な18歳から60歳迄の男子の中から相当数を選んでこの賦役に動員した。出役者には、日程数に応じて一日当たり2升ずつの扶持米と若干の小遣いが支給されることになっていた。
 ところが、その扶持米支給は「大割入」(おおわりいり)といって、領主の出兵のための費用を、領内全体の農民の負担に割り振って拠出させるという、農民たちへはいわゆる「やらずぶったくり」のからくりなのだ。加えて、1868年(慶応4年)1月の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)時には、幕府の新たな命令を目して、領津山藩内で360人もの猟師を兵として動員する計画まで立てられていた。

 それによると、大庄屋たちに対し、彼らの管轄ごとの必要人員と集合場所まで指示していたという。そういうことだから、殿と大方の重役達は当時の時代の変化を観る目がまるでなかった酷評されても仕方がないのではないか。
 幕府の命に従っての津山藩の参戦は、しかし、惨めな失敗へと連なっていく。そのことごとくの敗戦後、備前の岡山藩などが新政府にとりなしてくれたのが効を奏したほか、勤王派の鞍縣寅次郎(くらかけとらじろう)らが奔走した。彼が公武合体と勤王両派の間をとりもって藩内を新政府に従うことにまとめたこともあって、かろうじて「朝敵の汚名」を免れることができた。もう片方の斉民は江戸にいて、鳥羽伏見で命からがら逃げ帰った将軍慶喜が江戸を退去する際、彼から田安慶頼(たやすよしのり)とともに徳川家門の後事を依頼された。
 また、同時期の岡山藩と備中松山藩の動静については、まず岡山藩が徐々に幕府から離れていった。もともと勤王色が濃かった岡山藩政が大きく勤王・倒幕側に傾いたのは、1868年(慶応4年)のことであった。これより先の1866年(慶応2年)師走に、一橋慶喜が15代目の将軍に就任した。その慶喜の実弟である岡山藩主池田茂政は、これにより微妙な位置に立たされたが、翌1867年(慶応3年)、西宮警備を命じられて家老以下約2150人が出役した。

 翌1868年(慶応4年)正月には「朝敵」と見なされた備中松山藩の征討を命じられ、またも家老以下1千数百人が出役した。この間に大きく世の中が動いたのを見抜いたのは、近隣の津山藩などと大きく違うところである。この年の旧暦正月15日、藩主の池田茂政は急遽隠居をして、徳川氏とゆかりのない鴨方支藩の池田章政が本藩の藩主となり、かねてよしみを通じていた長州藩との連絡をも密にし、倒幕の旗印を鮮明にするに至るのである。
 これに対し、備中松山藩は、家柄の重さが大いに関係した。この藩の元々は、1617年(元和3年)、因幡鳥取の池田長幸(いけだながよし)が6万5千石で入封した。ところが、1641年(寛永18年)にその子長常が死んで無継嗣・改易となり、翌年備中成羽(びっちゅうなりわ)の水谷勝隆(みずのやかつたか)が5万石を与えられて入封した。しかし、これも1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。ために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり除封された。

 その後しばらくは安藤・石川両氏の所領となったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄(いちくらかつすみ)が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして、7代藩主の板倉勝浄(いたくらかつきよ)が幕府老中に就任していたこともあり、結局は倒幕に抗する動きを示した。
 戊申戦争(ぼしんせんそう)においては、彼は奥羽越列藩同盟の公儀府総裁となって函館まで行って新政府軍に抵抗したものの、時流には逆らえず、1869年(明治2年)、明治政府によって禁固刑に処せられることになる。加えるに、鶴田藩(だづたはん)は、1866年(慶応2年)の第二次長州征伐で長州軍に所領を奪われた石見国浜田藩6万1千石の藩主松平武聡(まつだいらたけあきら、水戸藩主徳川斉昭の子)が、翌1867年(慶応3年)に幕府から久米北條郡内で2万石を与えられて立藩していた。 

 このため、1868年(慶応4年)1月の鳥羽伏見の戦いのおり、幕府側について敗れ、「お家存亡の危機」に立たされたが、家老尾関隼人の赦罪賜死での嘆願によってどうにか新政府側の許しを得たのであった。

(続く)

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◻️55『岡山の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、紡績業)

2018-09-25 19:18:59 | Weblog

55『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、紡績業)

 こうした全国での動きにと歩調を合わせる形で、岡山県下でも養蚕が盛んになるとともに、近代紡績の勃興もみられるようになっていく。1880年(明治13年)、岡山紡績所が設けられた。これは、旧岡山藩池田家からの士族授産資金で設立されたものである。また、1882年(明治15年)に玉島紡績所が開業した。こちらは、それまで備中綿の集散地であった玉島に設けられた。さらに同年、綿織物の産地である児島においても、下村紡績所が設立された。
 続いて、1888年(明治21年)には、大原孝四郞による倉敷紡績が民間ベースで設立され、翌年の10月20日に操業を開始した。場所は倉敷代官所跡で、当時の県知事の千阪高雅の助言もあり、資金の確保をねらって1891年(明治24年)に倉敷銀行を設立した。新会社では、当時の最新技術のリング紡績機を導入し、昼夜に二交代制を敷いた。
1893年(明治26年)時点の同紡績所の規模は、1万664錘、精紡機31台であって、その後の発展の基礎が作られた。人員の方も、1897年(明治)10月の調査によると、「倉敷の女工総数1436名、中、勤続年数1年以内のものが589名、2年目以内のものが464名で、両方あわせると70%をこえる。平均勤続年数は、約8か月であった」(岡山女性史研究会編・永瀬清子・ひろたまさき監修「近代岡山の女たち」三省堂、1987)というから、2年を越えては会社にいられないような劣悪な労働状況であったとも受け取れる。
 この事業は、勝田、真庭、赤磐などの山間地などでも盛んに行われるようになっていく。その生産のピークは皮肉にも1929年(昭和4年)の大恐慌の頃であった。北条県の津山では、養蚕を地域の産業として奨励する行政の後押しもあって、1880年(明治18年)浮田卯佐吉らによる浮田製糸工場が伏見町が立ち上がった(津山市教育委員会『わたしたちの津山の歴史』1998年刊行)。
 英田郡内においては、1897年(明治25年)に美作製糸合資会社が大原町に設立され、また大庭郡内の久世村においては、久世合資会社といった地元資本による製糸会社が立ち上がった。さらに勝北地内においても、1898年(明治26年)、市場の竹内茂平らが「永盛製糸合資会社」(当時の勝田郡広戸村、現在の津山市広戸の農協広戸支所の敷地)を立ち上げた。この工場は、1910年(明治38年)まで市場地域にあったと伝えられている。その頃の「県下養蚕戸数は5万5496軒のうち勝田郡の養蚕戸数は5614軒、繭数量23万6384貫、価額163万2694円であり、県下22の年中第一位の順位であった(二位赤磐、三位真庭)」(勝北町誌編纂委員会『勝北町史』1991年刊行)であり、関係する農家と地域社会にとって貴重な現金収入となっていたことが覗われる。

(続く)

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□56『岡山の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、農業)

2018-09-25 19:17:27 | Weblog

56『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、農業)

 1888年(明治21年)の岡山県の農地保有別数は、田畑10町歩以上の農家が564戸、2町歩超10町歩未満農家が8152戸、2町歩以下の農家が14万5387戸であった。

 経営の種別では、自作農が4万6968戸で16.32%、自作兼小作農が9万5379戸で33.15%であったのに対し、小作農一本は14万5387戸で全体の50.53%も占めていたのであって、この農家構成からも当時の重苦しい農村の雰囲気を感じ取ることができるのではないか。加えるに、この頃になると、農業資本家が小作農と請負契約を結ぶとか、自らが資本主義的生産者となって農業労働者を雇い入れる形が表れてきたのが注目される。
 具体的には、1887年(明治20年)、九州に本拠をおく「政商」の藤田組が児島湾の干拓事業を政府に申請した。総面積7000余町歩のうち約5500町歩を対象に干拓を行おうとするもので、設計はオランダ人ムルドルが担当した。計画は、第一期と第二期の2本立てでの申請であって、そのうち第一期分が第一区と第二区とに分かれており、こちらが「藤田農場」と呼ばれる部分である。この計画は、翌1888年(明治21年)には政府の許可をもらった。

 この計画に対する地元民の対応は、洪水を激化させ、古地の湿田化を招き、旭川の堆積の激化と遡行の困難などの理由から、大方が反対に回った。また、この干拓によって漁業権が失われる漁業者も反対に加わった。1899年(明治32年)藤田組は地元民の反対を押し切る形で、第一期分の児島湾干拓事業に着手した。その6年後の1905年(明治38年)に第一工区、1912年(明治45年)には第二工区がそれぞれ完工となる。これとは別の第二期工事が完成したのは、1933年(昭和8年)のことである。
 建設後の藤田農場の規模としては、耕地面積が1200町歩あり、これを高崎、大曲、都、錦の4つの農区に区画整理した上、直営600町歩と小作600町歩の2本立てでの資本主義的農業経営を目指した。小作事業については、藤田組は、干拓で獲得したその宏大な土地に精力的に入植者を募集し、小作契約を結んでいく。

 その内容は、請負耕作で営業純益の35%を払わせるなど4通りの小作雇用の形態をとるもので、その中では「稲扱(こ)き作業やモミ分配時に落ちこぼれたモミを耕作者が取り込むこと(慣行)も盗籾者とみなす」(岡山女性史研究会編「岡山の女性と暮らしー「戦前・戦中の歩み」」山陽新聞社、2000)といった抜け目のない搾取の網を敷いていた。

(続く)

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○47の2『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(七支刀など)

2018-09-25 18:46:59 | Weblog

47の2『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(七支刀など)

 もう一つ、4世紀の倭と朝鮮との関わりを推測させるものとして、七つの矛先をもつ七支刀(しちしとう)に触れたい。これは、神がかりの剣であって、古代の4世紀、朝鮮半島から伝わった。ヤマト王権の武器庫であったとも言われている石上神宮(いそのかみじんぐう、現在の奈良県天理市)にあって、国宝となっている。 2000年5月の上野国立美術館で開催中の「国宝展」にも陳列された。その説明文にはこうあった。
「奈良県天理市石上神宮伝世
古墳時代4世紀
特異な形状の鉄剣で、表裏に61文字金象嵌される。
銘文は朝鮮半島をめぐる当時の倭の国際関係をうかがわせる記録的
文章である。」
 銘文に何が書いてあるかはガラスケース越しではよく読みとれなかったので、ここでは現場での注釈にさせていただこう。
 「泰(和)四年(五)月十(六)日、丙午正陽造百練(鉄)、七支刀(出)百兵、宣供侯□□□□付、先世以来有此刀百済(王)世(子)、奇生聖音故為倭王旨造伝示(後)世」
 なぜ七つの刃先なのかということについては、祭祀用に用いる剣だからということだろうか。倭王とは誰なのかを考える時、「宣供侯□□□□付」のところの読みの一部が不詳となっている。朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」による推測には、こうある。
 「「七支刀」(奈良県・石上神宮所蔵)は、369年に、百済が作製して倭王に送ったもので、こうした百済との関係樹立を記念したものである。ここに百済・加耶南部・倭の軍事的な同盟関係が成立したことになる。」(朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」三省堂、1995より)
 「石上神宮の宝物として、鉄盾とともに伝えられたもので、身の両側にそれぞれ3本の枝刃を左右交互に出す特異な形からこの名がある。鍛鉄製の剣身に金象嵌(きんぞうがん)の銘「泰□四年□月十六日」があり、ここでの元号は「泰和」とみるのが有力である。
 『日本書記』」神功皇后52年の条に百済王が献じた重宝のなかに「七支刀」の記録があるのは注目される。」NHK出版編「国宝全ガイド」日本放送出版協会、1999より)
 この解説文のなかで腑に落ちないのは、泰和4年(369年)に百済王が倭王に「献上」したというなら、臣下なり同盟員が主人なり盟主なりに送ったことになりはしないか。この点について上田正昭氏の『古代史の焦点』は、こう推測される。
「(石上神宮の七支刀は)全長74.9センチ(刀身65センチ)の鍛鉄の両刃づくりで、刀身の左右に3つずつの枝が違いに出ている呪刀である。その刀身の表裏に、金の象嵌で六十余字が刻されている。三度実物を吟味したことがあるが、惜しいことに下から約三分の一のところで、刀身は折れており、銘文もまた錆落ちばかりでなく、故意に削ったところがあって、銘文の判読に困難な個所がある。
 そのため苦心の解読が多くの人々によってなされてきたが、これまでの読み方で、決定的に誤っているのは、396年(泰和四年)に、百済王が倭王に「献上した」刀などと解釈してきたことである。銘文の表に「候王に供供(供給)すべし」とある候王とは、裏の「倭王」をさす。まずなりよりもこの銘文の書法は、上の者が下の者に下す下行文書形式であって、けっして「献上」を意味する書法でもなければ文意でもない。それは百済王が候王たる倭王にあたえたことを意味する銘文であった。それなのに、これを「献上」とか「奉った」とかなどと恣意に読みとったのは、我を優として彼を劣とする差別思想にわざわいされたものというほかない。
 21世紀の今、これまでの「歴史を直視せよ」といわれる。東アジアでは、歴史認識を巡っていろいろと面倒なことばかりが目立つ。その中では、共通する部分を明らかにしていこうという仕事が軽視されているきらいがある気がしている。そういう非和解とされる部分を辛抱強く紐解いていくと、どうなるだろうか。お互いの連関性を明らかにしてこそ、双方、多方面との違いも明らかになるのではないか。この国の文化も歴史も、そうすることによってこそ、生き生きと蘇ってくるのではないかと考えている。一九八〇年代のドイツとフランスの歴史的和解は「ついに握手ができたか」の灌漑ひとしおであったし、欧州12か国の歴史家が額をつきあわせて編集した歴史教科書「ヨーロッパの歴史」が1992年から出版されており、1997年には増補改訂版も出されていると伝えられる(朝日新聞の声欄、倉持三郎氏の「東アジアも共通の歴史教科書を」2015年3月27日に収録)。
 このようにして日本列島に勃興していた、もしくは大きな力を貯えつつあった勢力と、古代の朝鮮との外交関係がどうであったかは、2世紀頃までの外国との関係はなお、あまりよくわかっていない。こちらは中国との関係よりも、もっと「灯台もとくらし」で、双方の考古学の成果をかき集めても、それらの事実のひとつひとつを結びつけ、連続し、一貫した知識の体系として整理するまでには至っていない。朝鮮半島から日本列島への渡来は、主として対馬や隠岐を経由して、この列島のいずれかの地にかなりの年月をかけて行き渡っていったのではないかと考えられる。

そのことは、3世紀から7世紀にかけて本格化した。それには少なくとも3回の波があった。一つは、民衆レベルのもので、朝鮮半島の飢饉などに悩んでいた人々が渡ってきた。二つは、貴族とか豪族が新天地を求めて渡ってきた。更なる一つは、7世紀からのものである。

(続く)

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○47の1『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(好太王碑など)

2018-09-25 18:44:03 | Weblog

47の1『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(好太王碑など)

 ここでは、倭と朝鮮半島との外交関係を紐解いてみたい。4世紀初めの朝鮮半島は、北方の高句麗(コグリョ、紀元前37年に建国)とその南方に百済(ペクチェ、紀元前18年に建国)と新羅(シルラ、57年に建国)の3国がいずれも王朝国家を形成していた。そのほか、半島最南部には「伽羅・伽耶連盟(から・かやぶんめい)」も展開していて、複雑な諸国家分立の状況にあった。

 高句麗の勢いは楽浪郡を滅ぼした後も益々盛んで、四世紀の終わり頃の好太王の治世には、大いに外征を行い、領土を広げていった。西は現在の中古具の東北三省の南の地方から、東はトンヘ(日本の立場で言うと日本海)の沿岸にまで領土を広げ、さらに海岸沿いに北へ勢いを伸ばしつつあった。
 4世紀後半に至ると、今の中国の東北三省に拠点を置き、朝鮮半島北部まで進出していた高句麗がさらに半島を南下し、北進してきた百済と戦いを交える。これらのうち「加羅・伽耶連盟」では、かねてから少数豪族の分立が続き、その団結は強くなかった。ところが、南朝鮮にはその頃すでに、倭の勢力が入り込んでいたことがわかっている。それが、大和朝廷によるものであるかどうかは、はっきりしていない。5世紀に入る頃には、倭は百済と力を合わせて、北から南へと勢いを伸ばしていた高句麗と対峙することになっていく。
 ちなみに、かの有名な好太王の碑文は、現在の中国の吉林省集安市に建つ。碑は、長寿王が父の好太王の功績をたたえるために414年に建てた。碑文に彫られた正確な名前は、「國岡上廣開土境平安好太王」とのことで、それが刻まれている石柱の高さは6.4メートルある。碑の4面すべてに合計で1759文字が刻まれている。そこには、王の治世のさまざまな出来事が、手柄話を中心に記されている。なかでも、高句麗と百済・倭との17年に及ぶ戦い(391年、400年、404年及び407年)が記されている。
 例えば、第1面の8行から9行にかけて、「百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民」と彫られている。ここに、高句麗はかつて百済と新羅を属民としていた。それゆえ、両国は高句麗に朝貢して来た。しかし、倭は辛卯年(391年)よりこのかた、海を渡って百済を破り、□に新羅を□した。これによれば、倭は百済と新羅を臣民とした。この文章を、当時の倭が百済と新羅を従えていたと読むのであれば、飛躍に過ぎよう。

 そこで、この碑が言いたいのは倭との戦いにおける大義名分であって、倭はそれ程までに朝鮮半島の深くまで進出していた。それに脅威を覚えた高句麗はやむなく大軍を差し向けて倭と戦い、第1回目は勝利を収めたことになるのだろう。
 ところが、その後のことははっきりしていない。双方のいうところは異なっている。とすると、確かなところは藪の中にある。この碑文の細かいところでは、何しろ好太王の事績を褒め称えてある。古代ローマなどでも、都合のいいところだけを並べ立てていたのではないか。そうである可能性があるからして、今でもいろいろな解釈が並び立っているようである。4世紀末から5世紀初めの倭(日本)と朝鮮半島の姿を東アジアの視点から知ることができる貴重な歴史的資料であることに変わりはないものの、やはり何らかの考古学的な裏付けが必要だと考えられる。

(続く)

 

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