□129『岡山の今昔』久米郡(三咲町)

2018-09-09 22:19:23 | Weblog

129『岡山(美作・備前・備中)の今昔』久米郡(三咲町)

 美咲町(旧柵原町)には、あの名高い柵原鉱山が稼働していた。そもそもは、明治15年に硫化鉄鉱(黄鉄鉱ともいい、鉄と硫黄が含まれる)が発見された。その後開業し、最盛期には約80万トンの年間採掘量を誇っていた。坑道の中を進んだ切りはで、労働者の血と汗がながれていた。

 その後の1991年、鉱山は廃坑となる。片上鉄道も廃線となる。もはや、多くの労働者はこの地にふみとどまることができなくなった。新たなしごとを探さねばならない。

 さらに10年後の2002年になって、その坑道は地域住民の健康を支える、運動施設に成り代わった。ほかにも、農業に活用が可能ときく、そういうことなら、まさに、変身そして復活である。

 しかしながら、気にかかることも幾つかあるようなのだ。その一つが、近隣市町村との連絡、中でも交通路手段の維持ではあるまいか。

 

 

(続く)

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□128『岡山の今昔』和気郡、赤磐市

2018-09-09 22:18:07 | Weblog

128『岡山(美作・備前・備中)の今昔』和気郡、赤磐市

 瀬戸内海に沿って備前を西に行くと、そこは和気(わけ、現在の和気郡和気町)、赤磐市(あかいわし)がある。山陽本線の上郡から西へは、兵庫県との県境を越えて岡山県の吉永、和気とたどっていく。それからは赤磐市(あかいわし)に入って、熊山、万富とやって来る。熊山からほどなくして吉井川を渡る。この鉄路と寄り添うように西へと延びてきた山陽自動車道も吉井川を渡っていく。
 郷土の詩人永瀬清子の詩に、こうある。
 「吉井川よ/おまえはゆたかな髪をもった大きな姉のようだ。/おまえは落ちついて/長い長いみちのりを/曲がりくねりながら悠々とすすむ。」(『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[
]岡山』(1959年2月、泰光堂)
 2005年3月に赤磐市は、同区域の4つの町、すなわち山陽町、赤坂町、熊山町、吉井町が合併して誕生した。ここ赤磐市北部の吉井川河川敷では、冬から春にかけての風物詩、竹製の細い筆軸の天日干しが行われる。筆軸とは、毛筆の柄の部分で、竹を使った筆軸生産は今では全国でも3軒(岡山県内には1軒)しかなくなったという。
 作業の模様を伝えるテレビ番組によると、まずは秋の竹の切り出しに始まる。竹は、岡山県はもとより、遠くは熊本県からも調達する。直径3~15ミリのものを揃え、カッターで22.5センチの長さに整える。そうしてからの竹は、釜ゆでして油や汚れを落としてから河川敷に並べられる。そして、1週間に1度、熊手で熊手で寄せては広げるの作業繰り返し、まんべんなく裏返すという。
 この天日干しで2カ月半ほど冷たい外気にさらすと、緑からあめ色になり、ぐっと引き締まる。この後、熊野筆で名高い広島など県外の加工メーカーへ送られ、製品に仕上がる。中国産のプラスチック製筆軸にシェアを奪われるようになって久しい。そんな業界においても、伝統の技を続けているという。
 このエリアのうち旧山陽町においては、古墳時代に入って穂崎(ほさき)地区に両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)が見つかっている。5世紀後半の築造ではないかと推測されている。古墳の形式は、前方後円墳で、丘の周囲には水をたたえた内濠が二重にめぐらしてある。この種のものではめずらしく優美さを湛えつつも、それでいてやはり当時の首長権力の象徴といおうか、堅固な守りを感じさせる。
 全長192mの墳丘をもつこの古墳は、吉備地方では造山古墳(つくりやまこふん)、作山古墳に次ぐ巨大古墳である。これまでの発掘では、大した発見はなかったもののようだが、いつの頃か盗掘もあったのかもしれない。適切な保存とならなかったのは、あるいは、大和朝廷にとっては邪魔で、目障りな遺跡であったからなのかもしれない。もし適切に保存で現在に明らかになっていれば、古代日本史に吉備国(はびのくに)ありと知らしめることになったのではないか。
 備前地域においてはもちろん最大の前方後円墳で、国指定史跡となっているとのこと。付近には廻山(まわりやま)、森山、茶臼山(ちゃうすやま)の各古墳が点在していて、さながら吉備国の古代を臨むものとなっているのではないか。この国が律令時代に入ってからは、この地(現在の赤磐市馬屋あたりか)に備前国分寺(びぜんこくぶんじ)が建立される。国分寺の南側には、東西に延びる古代山陽道を挟んで備前国分尼寺も建立されたのではないか。

(続く)

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○○285の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴とその後)

2018-09-09 21:42:42 | Weblog

2852『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴とその後)

 

 1901年(明治34年)には、鉱毒被害の惨状を訴えるため代議士を辞職してから、明治天皇に直訴しようと試み、これが果たせなかった。

 田中正造の印で始まる謹奏の骨格を拾うと、およそこうなっている。

「 (前略) 伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。近年鉱業上ノ器械様式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト之レヲ澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。加フルニ比年山林ヲ濫伐シ煙毒〉水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身激変シテ洪水又水量ノ高マルコト数尺毒流四方ニ氾濫シ毒渣ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ魚族斃死シ田園荒廃シ数十万ノ人民ノ中チ産ヲ失ヒルアリ、栄養ヲ失ヒルアリ、或ハ業ニ離レ飢テ食ナク病テ薬ナキアリ。老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レルアリ。(中略)  

臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。

嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施スコトナシ。(中略) 

渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ頽廃セルモノヲ恢復スル其五ナリ。加毒ノ鉱業ヲ止メ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。(中略) 

臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ
聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。
   明治三十四年十二月

            草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首、印」

 その後も、彼が志を曲げることはなかった。とりわけ、渡良瀬川の遊水池計画の反対運動に尽力していく。人生とは、日がな一日の繰り返しであって、以後はその全てを社会運動に費やす生活を選んだのだろう。その彼が、二宮尊徳とともに、欧米から日本で最初の民主主義者とされるのは、遊水池の候補地とされた谷中村(現栃木県栃木市藤岡町)に移住し、住民の一人となって村人とともに、村を守るために闘うようになったからである。

 しかし、時代はまだ彼に味方しなかった、と言って良い。政府による土地収用法の適用や谷中村残留民家の強制破壊により谷中村が水没処分となって消滅してからも、正造は、残留民と共に谷中村復興を図る。また、政府の治水政策の誤りを指摘するために、関東地方の河川調査を続ける。その途中で病に倒れ、1913年(大正2年)に渡良瀬川河畔の庭田家で、ついに力尽き73歳で生涯を終えたのだった。
 それから半世紀以上が経過しての1970年、かつて正造に会って「谷中村滅亡記」を著わした社会主義者の荒畑寒村が、これの復刻版を出したとき、彼はこう述べている。

「そもそも足尾鉱山の鉱毒問題の原因は、政府委員がみずから認めているように、「鉱山から出てくる硫酸銅をふくんだ水をそのまま、渡良瀬川に流し込んだ」ことにある。このために、被害の及ぶところ渡良瀬川、利根川沿岸の栃木、群馬、埼玉、茨木、千葉、五県の地およそ五万町歩、その住民三十万をかぞえ、明治二十四年の第二帝国議会における田中正造代議士の質問となって、鉱毒問題がはじめて社会の耳目を聳動させたのである。

(中略)足尾鉱山の鉱毒問題は古来、渡良瀬川と切っても切れぬ不可分の関係にあるが、昭和三十三年(1958)に水質保護法が制定されて、石狩、江戸、淀、木曽の諸河川とともに渡良瀬川も調査河川に指定されたにもかかわらず、七年を経た現在もなお、渡良瀬川の水域指定も水質基準の決定も行われていない。」(荒畑寒村「谷中村滅亡記」新泉社、1970)



(続く)

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○285の1『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴への道)

2018-09-09 21:40:45 | Weblog

2851『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴への道)


 ところが、その衆議院議員に当選した中に、異色の人物がいた。田中正造(たなかしょうぞう)は、安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の家に生まれた。1841年(天保12年)このころ、領主であった旗本六角家の改革運動に邁進していた。けれども、官憲に捕らえられ11か月の投獄生活を送る。その後一時、江刺県(現在の秋田県と岩手県の一部に跨る地)で官吏をしていた。ところが、1874年(明治7年)に郷里の小中村へ帰る。名主の家なので、おそらく生活に困るほどではなかったのではなく、将来に備えての、いわゆる「充電」のためとみてよいのではないか。1878年(明治11年)には、栃木県第4大区3小区の区会議員に選ばれる。1880年(明治13年)には栃木県会議員に当選し、自由民権運動家として当時の県令(現在の県知事だが、政府が任命した)である三島通庸(みうらみちつね)に対抗していく。
 衆議院の代議士になってからは、6回連続当選を果たしている、郷土の傑物と言って良い。彼の名を全国に知らしめたのは、1891年(明治24年)の第2回帝国議会で鉱毒被害に関する質問書を提出したのに始まり、商高務省の担当大臣、陸奥宗光に直ちに足尾鉱山の操業を停止して真相を究明すべきであると要求している。以後、足尾銅山の鉱毒問題に集中して取り組む。1897年(明治30年)には、政府は鉱山を運営する古川財閥に対し「鉱毒予防命令」を出して是正処置を求めることで、古川市兵衛はその圧力に押される形でやむなく改善に取りかかるのであった。しかし、鉱毒垂れ流しという全体の方向はなかなかに変わっていかない。
 

 

(続く)

 

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