285の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴とその後)
1901年(明治34年)には、鉱毒被害の惨状を訴えるため代議士を辞職してから、明治天皇に直訴しようと試み、これが果たせなかった。
田中正造の印で始まる謹奏の骨格を拾うと、およそこうなっている。
「 (前略) 伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。近年鉱業上ノ器械様式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト之レヲ澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。加フルニ比年山林ヲ濫伐シ煙毒〉水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身激変シテ洪水又水量ノ高マルコト数尺毒流四方ニ氾濫シ毒渣ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ魚族斃死シ田園荒廃シ数十万ノ人民ノ中チ産ヲ失ヒルアリ、栄養ヲ失ヒルアリ、或ハ業ニ離レ飢テ食ナク病テ薬ナキアリ。老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レルアリ。(中略)
臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。
嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施スコトナシ。(中略)
渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ頽廃セルモノヲ恢復スル其五ナリ。加毒ノ鉱業ヲ止メ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。(中略)
臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ
聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。
明治三十四年十二月
草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首、印」
その後も、彼が志を曲げることはなかった。とりわけ、渡良瀬川の遊水池計画の反対運動に尽力していく。人生とは、日がな一日の繰り返しであって、以後はその全てを社会運動に費やす生活を選んだのだろう。その彼が、二宮尊徳とともに、欧米から日本で最初の民主主義者とされるのは、遊水池の候補地とされた谷中村(現栃木県栃木市藤岡町)に移住し、住民の一人となって村人とともに、村を守るために闘うようになったからである。
しかし、時代はまだ彼に味方しなかった、と言って良い。政府による土地収用法の適用や谷中村残留民家の強制破壊により谷中村が水没処分となって消滅してからも、正造は、残留民と共に谷中村復興を図る。また、政府の治水政策の誤りを指摘するために、関東地方の河川調査を続ける。その途中で病に倒れ、1913年(大正2年)に渡良瀬川河畔の庭田家で、ついに力尽き73歳で生涯を終えたのだった。
それから半世紀以上が経過しての1970年、かつて正造に会って「谷中村滅亡記」を著わした社会主義者の荒畑寒村が、これの復刻版を出したとき、彼はこう述べている。
「そもそも足尾鉱山の鉱毒問題の原因は、政府委員がみずから認めているように、「鉱山から出てくる硫酸銅をふくんだ水をそのまま、渡良瀬川に流し込んだ」ことにある。このために、被害の及ぶところ渡良瀬川、利根川沿岸の栃木、群馬、埼玉、茨木、千葉、五県の地およそ五万町歩、その住民三十万をかぞえ、明治二十四年の第二帝国議会における田中正造代議士の質問となって、鉱毒問題がはじめて社会の耳目を聳動させたのである。
(中略)足尾鉱山の鉱毒問題は古来、渡良瀬川と切っても切れぬ不可分の関係にあるが、昭和三十三年(1958)に水質保護法が制定されて、石狩、江戸、淀、木曽の諸河川とともに渡良瀬川も調査河川に指定されたにもかかわらず、七年を経た現在もなお、渡良瀬川の水域指定も水質基準の決定も行われていない。」(荒畑寒村「谷中村滅亡記」新泉社、1970)
(続く)
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