171の4『岡山の今昔』岡山人(18世紀、新四郎と利兵衛)
ここに長尾(当時は、ながお村、戦後の浅口郡長尾町を経て現在は倉敷市玉島長尾)という土地柄は、宝歴年間、丹波国の亀山藩(現在の京都府)約5万石の領地のうち、約1万2000石は飛び地の一つとしてあった、備中にては、他に玉島村、上成村、東勇崎村などであったという。
そういうことがあってか、亀山藩としては、奉行などの上方級の役人は、丹波亀山より派遣したものの、その他の役人は、現地領内の各村の富裕者を藩の「御用達」として任命し、藩の仕事の数々を請け負わせていたという。
そのような仕組みの下、長尾の農民たちの多くは小作に追いやられ、大いなる搾取や収奪に苦しんでいた。そして迎えた1752年(宝歴2年)、農民たちは飢饉からの活路を求めて、村内の大地主2家に御用達を命じられていた地主の二つに対し、小作料の減免を哀願するも断られる。これに、憤慨した農民たちは、その2軒の地主の家に押し入り、家を破壊したという。
しかして同藩が、これを咎め立てし、農民たちを捕縛し、村の存続を危うくするほどの取り調べと責任追及を行っていたところ、新四郎と利兵衛の二人が名乗りを上げ、本騒動の責任を引き受けたというから、驚きだ。それにも増して、この二人はこの時、それぞれ24歳と19歳の若さであったのに、なぜ主謀格として断罪されなけねばならなかったのであろうか、その辺りの詳しいいきさつはわからない。
さらに、この事件には、村人が二人をなんとか助けようと、隣村の宝満寺住職に命乞いを藩にしてもらうよう掛け合ったのだが、その住職は寺が同藩とかねてよりよしみを通じていたのが判明した。果たして、村人たちが刑場に駆けつけてみると、時はすでに遅しで、彼ら二人は絶命していたという、なんという悲しい話であろうか。あわせるに、かかる新四郎と利兵衛の「我が身を捨て仲間を助ける」の勇気こそは、その温かな人間性とともに偉大だと言えよう。
参考までに、当時の日本において、どのような「百姓一揆」観が支配的であったかは、つまびらかでないものの、次に一端を紹介する国文学者、本居宣長(もとおりのりなが)の言は、我が国の近世を通じての、穏健なる保守層の、しかも当時としては相当に視野の広い学者の意見として、大いなる手がかりを現代に伝えているのではないだろうか。
「百姓町人、大勢徒党して、強訴濫放する事は、昔は治平の世には、おさおさ承り及ばぬ事也。近世に成りても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は所々にこれ有て、めずらしからぬ事になれり。これ武士にあづからず、畢竟百姓町人の事なれば、何程の事にもあらず。
小事なるには、似たれども、小事にあらず、甚大切の事也。いづれも困窮に迫りて、せんかたなきより起るとはいへ共、詮ずる所、上を恐れざるより起れり。下民の上を恐れざるは、乱の本にて、甚容易ならざる事にて、先づ第一、その領主の耻辱、是に過らるはなし。
されば、仮令聊の事にもせよ、此筋あらば、其のおこる所の本を、委細に能々吟味して、是非を糺し、下の非あらば、其の張本の僕を、重く刑し給ふべきは、勿論の事、又上の非あらば、其の非を行へる役人を、おもく罰し給ふべき也。抑々此事の起るを考るに、いづれ下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしく成りたりとはいへども、能々堪へがたきに至らざれば此事はおこる物にあらず。(中略)
然るに近年此事の所々に多きは、他国は例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取りはからひもいよいよ非な ることも多く、困窮も甚だしきが故に、一致しやすきなるべし。(中略)
近年たやすく一致し、固まりて此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず、上たる人、深く遠慮をめぐらさるべき也。然りとて、いか程おこらぬようのかねての防ぎ、工夫をなすとも、末をふせぐ計ひては止みがたかるべし。
さらに、この事件には、村人が二人をなんとか助けようと、隣村の宝満寺住職に命乞いを藩にしてもらうよう掛け合ったのだが、その住職は寺が同藩とかねてよりよしみを通じていたのが判明した。果たして、村人たちが刑場に駆けつけてみると、時はすでに遅しで、彼ら二人は絶命していたという、なんという悲しい話であろうか。あわせるに、かかる新四郎と利兵衛の「我が身を捨て仲間を助ける」の勇気こそは、その温かな人間性とともに偉大だと言えよう。
参考までに、当時の日本において、どのような「百姓一揆」観が支配的であったかは、つまびらかでないものの、次に一端を紹介する国文学者、本居宣長(もとおりのりなが)の言は、我が国の近世を通じての、穏健なる保守層の、しかも当時としては相当に視野の広い学者の意見として、大いなる手がかりを現代に伝えているのではないだろうか。
「百姓町人、大勢徒党して、強訴濫放する事は、昔は治平の世には、おさおさ承り及ばぬ事也。近世に成りても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は所々にこれ有て、めずらしからぬ事になれり。これ武士にあづからず、畢竟百姓町人の事なれば、何程の事にもあらず。
小事なるには、似たれども、小事にあらず、甚大切の事也。いづれも困窮に迫りて、せんかたなきより起るとはいへ共、詮ずる所、上を恐れざるより起れり。下民の上を恐れざるは、乱の本にて、甚容易ならざる事にて、先づ第一、その領主の耻辱、是に過らるはなし。
されば、仮令聊の事にもせよ、此筋あらば、其のおこる所の本を、委細に能々吟味して、是非を糺し、下の非あらば、其の張本の僕を、重く刑し給ふべきは、勿論の事、又上の非あらば、其の非を行へる役人を、おもく罰し給ふべき也。抑々此事の起るを考るに、いづれ下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしく成りたりとはいへども、能々堪へがたきに至らざれば此事はおこる物にあらず。(中略)
然るに近年此事の所々に多きは、他国は例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取りはからひもいよいよ非な ることも多く、困窮も甚だしきが故に、一致しやすきなるべし。(中略)
近年たやすく一致し、固まりて此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず、上たる人、深く遠慮をめぐらさるべき也。然りとて、いか程おこらぬようのかねての防ぎ、工夫をなすとも、末をふせぐ計ひては止みがたかるべし。
兎角その因て起る本を直さずばあるべからず。基本を直すといふは、非理の計ひをやめて、民をいたはる是也。仮令いか程困窮はしても、上の計ひだによろしければ、この事は起るものにあらず」」(「玉くしげ別本」、なお、「玉くしげ」とは和歌山藩主の徳川治貞に提出した政治道徳に関する意見であり、「秘本玉くしげ」とはより具体的な指南書というべきか、さらに「ここにある「玉くしげ別本」というのは、おそらく後者の原本だともされる)
(続く)
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