□529『自然と人間の歴史・日本篇』日本の経済指標1(2013~2018)

2018-09-20 09:26:23 | Weblog

529『自然と人間の歴史・日本篇』日本の経済指標1(2013~2018)

 (1)まずは。これから紹介しよう。

   〇2012年末の資金供給量(マネタリーベース)が138兆円であったのに対し、2017年末の資金供給量(マネタリーベース)は479兆円であった。

 〇2012年末の日本銀行の国債保有量(時価ベース)と保有割合が115兆円、11.9%であったのに対し、2017年末の日本銀行の国債保有量(時価ベース)と保有割合は449兆円、41.1%であった。

 〇2012年末の長期金利(10年物国債の流通利回り)が0.795%であったのに対し、2013年3月19日の長期金利が0.595%であった。その後の2014年3月19日の長期金利(10年物国債の流通利回り)が0.605%であった。その後の2017年末の長期金利は0.045%であった。それから後の、20182月26日の長期金利は0.055%であった。

 〇2012年末の国内銀行の新規貸出平均金利が1.119%であったのに対し、2017年末の国内銀行の新規貸出平均金利は0.726%であった。

 〇2012年末の日本銀行のETF(上場投資信託)保有量が1.4兆円であったのに対し、2017年末の日本銀行のETF(上場投資信託)は17.2兆円であった。

 (2)今度は、少し別のグループを紹介しよう。

〇2013年3月の消費者物価(前年同月比、生鮮食品を除く、持ち家の帰属家賃を除く総合)がマイナス0.5%であったのに対し、201712月の消費者物価(前年同月比、生鮮食品を除く、持ち家の帰属家賃を除く総合)は0.9%であった

〇2013年3月19日の日経平均株価は1万2468円23銭であったのに対し、2014年3月19日の日経平均株価は1万4462円52銭であった。また、2018216日の日経平均株価は2万1720円25銭であった。さらに、2018723日の日経平均株価(225種)は2万2396円99銭であった。

 〇2013年3月19日のドルの対円相場が1ドル=95円47~48銭であったのに対し、2014年3月19日のドルの対円相場は1ドル=101円57~58銭であった。また、2018年2月16日のドルの対円相場は1ドル=106円01銭であった。さらに、2018年7月23日のドルの対円相場は1ドル=110円96銭であった。

 〇2013年2月の完全失業率が4.3%であったのに対し、20133月の完全失業率は41%であった。さらに、2014年1月の完全失業率は3.7%であった。その後の2017年12月の完全失業率は28%であった。

 〇2013年1月の現金給与総額(労働者一人当たりの平均賃金)が26万9937円であったのに対し、2014年1月の現金給与総額(労働者一人当たりの平均賃金)は26万9203円であった。

〇それでは、影響をとり除いた実質賃金は、どうなっているだろうか。厚生労働省の毎月勤労統計調査でいう実質賃金(従業員5人以上の事業所でみた場合)は、対前年伸び率の四半期別でいうと、2013年第3四半期から2015年第2四半期までは(2014年第3四半期を除く)マイナスが続いた。

 2016年第1四半期からは(2016年第4四半期を除き)プラスが続く。結局、2016年の実質賃金伸び率は前年比0.7%増となり、5年ぶりのプラスとなった。

 その後の2017年第1四半期までは、このプラスが続く。しかし、その後は潮目が変わり、2017年の実質賃金伸び率は前年比で0.2%減となり、またもや腰折れ状態に陥った。
〇実質民間最終消費支出は、2014年、2015年と連続してマイナスだったが、2016年の1~3月期から増えていく。2016年には、プラス0.4%になった。

(注意)

1.    実質賃金は、名目賃金を消費者物価(前年同月比、生鮮食品を除く、持ち家の帰属家賃を除く総合)で割ることによって求められる。

2.    マネタリーベースとは、日本銀行が発行する現金通貨(紙幣)に、金融機関が日本銀行に開いている口座としての日銀当座預金を加えたもの。一方、マネーストックというのは、世の中に出まわっている現金通貨と預金通貨との合計が基

 

 

   (続く)

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○○548『自然と人間の歴史・日本篇』雇用と賃金(~2021)

2018-09-12 08:14:56 | Weblog

548『自然と人間の歴史・日本篇』雇用と賃金(~2021) 

 たとえ短期的であれ、雇用が増え、それに応じて働く者の賃銀が増えていれば喜ばしいのだが、はたして実際はどうなのだろうか。厚生労働省が2018年8月7日に発表した6月の毎月勤労統計調査(速報)によると、名目賃金に当たる現金給与総額は前年比3.6%増の44万8919円と、11カ月連続で増加した。

 では、消費者物価の影響を差し引いた実質賃金はどうか。こちらも2.8%増と2カ月連続で増加し、ともに21年5カ月ぶりの高い伸び率となったという。

 背景には、企業業績の回復を背景に、夏のボーナスを増やしたり前倒しで支給したことがあるとみられる。中でも、ボーナスなどの「特別に支払われた給与」は、前年比7.0%増の18万3308円だった。

 所定内給与は前年比1.3%増の24万5918円と15カ月連続で増えた。所定外給与は同3.5%増の1万9693円と、8カ月連続で増加した。

 まとめると、97年1月の現金給与総額の伸びは6.6%、実質賃金は6.2%だったという。

 それでは、このところの雇用が増え、失業率が低下を続けているのは、どう説明したらよいのだろうか。

 

(続く)

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♦️18の4『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(両生類、哺乳類、鳥類の出現など)

2018-09-10 21:11:16 | Weblog

18の4『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(両生類、ほ乳類、鳥類の出現など)

 さて、生物たちのその後はどうであったのだろうか。海に展開した生物たちの一部は、やがて陸へ上がっていく。両生類は、およそ3億7000万年前から4億年前にかけて出現したという。およそ2億4000万年前にさしかかると、かれらの中から哺乳類が出現してくる。

それでは、鳥類の起源はどのあたりであろうか。こちらは、元はといえば、恐竜の一種であったというのが、通説となっているようだ。その時期は、一説には、1億5000万年くらいからではなかったかという。そのばあいにも、いろいろな語られ方がなされていて、たとえばこうある。

「(ニューヨーク19日=ニューヨーク・タイムズ特約)背中と横腹に羽毛のような毛の跡があり、鳥の遠い祖先ともみられる恐竜の化石が中国で発掘され、十八日、ニューヨーク国立自然史博物館で開かれた脊椎動物学会で発表された。

発表したのは、カナダ・アルバータ州にあるティレル古生物博物館のフィリップ・カリー博士と、北京大学地質学部のチェン・ペイジ博士。

カリー博士によると、この恐竜の体長は約90センチで、ジュラ紀後期(約1億6200万年前~約1億4300万前)に生息した肉食の細あご竜の仲間とみられる。8月に中国遼寧省の村で農夫が見つけた。

カリー博士が会場で示した化石の写真では、羽毛のようなものが恐竜の脊椎にそって頭から尾の端まで続いている。わき腹にも同じような毛が広がっている。鋭い歯と長い後ろ脚をもち、小動物などを狩るのに適しているように見える。

「保温のための毛のように見える。飛ぶための羽毛のような、空力学的な特徴は備えていない」とカリー博士はいう。写真を見た専門家の多くは「鳥類が恐竜から進化したことを示す貴重な証拠だ」と話す。」(朝日新聞、1996年10月26日付け)

ここに言われるのは、鳥の遠い祖先ではないかという程度のことなのだが、それでも、その羽毛から彼らの翼が発達していったと、想像をたくましくすると、学者の目にはその飛翔にいたる道筋が見えてくるのであろうか。

この特徴がある種に突然変異で発生し、その種が生き残ることで、羽をもつグループが増えていったという。そうであるなら、その一方でそのグループが抱えていく課題は何であったのだろうか。

(続く)

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♦️18の3『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(中生代から新生代へ、生物の大量絶滅とその後)

2018-09-10 10:40:20 | Weblog

18の3『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(中生代から新生代へ、生物の大量絶滅とその後)

 それからは、新生代(6550万年前~現在)に入っていく。新生代は三つの紀に分かれている。その最初の第三期は、古第三期(6550万~2300万年前)と新第三期(2300万~260万年前)の二つに分かれる。

その新生代の始まりに近い、今からおよそ6550万年前頃の中生代白亜紀末期と新生代古第三期との境目には、生物の大量絶滅があった。とりわけ、恐竜の絶滅はこの時代に起こったと推定されている。

それらのことがわかる地層の境界線は、「K-Pg境界」(Kはドイツ語の白亜紀(Kreide)の頭文字。またPgとは英語の古第三期(Paleogene)の略。最近まで古第三期の旧名である「第三期」(Tertiary)を取って「K-T境界」と呼ばれていた)と呼ばれ、デンマーク・スティーブンスクリント地区、イタリア・グッビオ地区など、世界で350か所以上の地層から露頭(ろとう)が発見されている。
 これらの地層形成の原因としては、「隕石衝突説」で説明するのが定説であり、1980年、物理学者のルイス・アルバレズと、その息子で地質学者のウォルター・アルバレズが、「中生代白亜紀/第三紀境界での生物大量絶滅は巨大隕石衝突によって引き起こされた」とする論文を発表したのを嚆矢(こうし)としている。これより前のイタリアで、ウォルター・アルバレズはK-Pg境界に当たる薄い地層を発見していた。二人は協力してその地層から採取した微量元素の分析を行い、粘土層に通常ではあり得ないイリジウムの異常濃集のデータを検出するに至る。イリジウムとは、通常の地表ではほとんど見つかっていない、地球の奥深くあるだろう、もしくは隕石に多く含まれる元素である。
 彼らの試算によると、この時、宇宙から飛来した隕石の大きさは、地下約1キロメートルのところに埋まっていて、直径約180キロメートルの円形構造をしていた。この巨大隕石の衝突で、地上ではマグニチュード11以上の烈しい揺れが起こる。メキシコ湾沿岸には巨大津波が押し寄せたことであろう。生物への影響も甚大であった。衝突で海面が沸き立ち、海水が陸地に押し寄せ、植物が死滅していった。

その時、地上に巻き上げられたチリやガスは空中に漂って日光を遮り、温度がさらに低まり、植物たちは光合成ができなくなって死滅していった。植物の死はこれを食する動物の死、さらにそれを食べる肉食動物を絶滅へと追いやる。数年にわたる長い冬が地上を覆い、生物たちにとっての死の世界が地球上に大きく広がった。
 そして今から約6500万年間前になると、アメリカのコロラド高原が隆起を始める。その隆起にともなって、原生代前期のおよそ18億年前の変成岩の上に、古生代、中生代、そして新生代の地層がほぼ水平に重なっているのが、地表に現れてきたのである。およそ1000万年間前になると、「世界の屋根」としてのヒマラヤ山脈の形成が始まる。ユーラシア大陸にインド亞大陸が衝突して、上昇を始めたものである。
 古第三期の次の新第三期(2300万~260万年前)になると、ほ乳類の活動がさらに盛んになり、全地球に広がって、さらには、類人猿から原人への分岐があった。新生代の第三期の次は第四紀(260万年前~現在)に入る。この紀の最初の世は更新世ということであるが、およそ30万年前にはその頃まだ海に浮かぶ大陸の一つであったインドに、またもや小惑星が衝突したのではないかと言われている。そしておよそ20万年前、いよいよ現代の私たちに直接繋がる人類、ホモ・サピエンスが登場してくる。
 なお、以上の絶対年代の紹介にあっては、金子隆一さんの監修・小沼洋一さんのまんがによる「恐竜化石のひみつ」、学研、2015、それからNHK「地球大進化」プロジェクト編「NHKスペシャル地球大進化、46億年・人類への旅」NHK出版、2004、荒俣宏・の責任編集「このすばらしき生きものたちーカンブリア大爆発から人工生命の世紀へ」角川書店、1993、白尾元理「」岩波書店、2013、(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)などを参させていただきながら、なるべく共通な年代表記を見出そうと努めた。

(続く)

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♦️18の2『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(中生代トアルス期からマーストリヒト期まで、鳥類の出現など)

2018-09-10 10:39:29 | Weblog

18の2『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(中生代トアルス期からマーストリヒト期まで、鳥類の出現など)

中生代シネムール紀の次の中生代トアルス期(1億8300万~1億4970万年前)においては、竜脚類の分岐があった。この期の、洪水玄武岩の地層が、南アフリカのレソト王国に噴出している。そのあるところは、現在の標高が2000メートル以上の耕地であって、その厚さは1500メートルにもなる。これほど大規模な玄武岩の地層が露出している訳は、およそ1億8000万年前、パンゲア大陸がアフリカ大陸と南極大陸に分裂したときの火山活動の結果だと言われる(白尾氏の前掲書に写真が掲載されている)。
 やがて、中生代の白亜紀(1億4550万年前から6550万年前まで)に入っていく。その最初のヴァランジュ期(1億4020万~1億3640万年前)においては、角竜類の分岐があった。オーテチーヴ期(1億3540万~1億3000万年前)になると、ローラシア大陸とゴンドワナ大陸とが完全に分離となる。その次の白亜紀バレーン期(1億3000万~1億2500万年前)になると、イグアナドン類が繁栄を迎える。

植物については、1億3000年前に生態系が大きく変化したことがわかっている。はじめ裸子植物が、その後に被子植物が登場する。前者は、花らしい花は咲かないけれど、実がなる。後者は、花びらが発達することで甲虫(こうちゅう)を招き入れ、かれらの身体にしっかりと花粉がこびりつくことで、子孫を残していくことが可能となる。その次のアブト期(1億2500万~1億1200万年前)には、地球の高温化があった。
 この白亜紀の時期からは、地殻変動や海水面上昇による「海進」があった。このため、大陸が細かく海で隔てられ、大陸の細分化が進んだ。生物たちは、それぞれの領域で進化を遂げていくのであった。「翼竜は衰退の一途をたどり、代わって鳥類が空を支配するようになった。また海では魚竜類が白亜紀半ばで絶滅し、それと入れ替わるように海生トカゲのモササウルス類が現れた」(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)。)とされる。
 その白亜紀前期は、およそ1億2000万年前までであった。その頃の日本列島福井地方の地層からは、イチョウやシダ、ソテツなどの植物化石が発見されている。それでも、少なくとも比較的気候が温暖湿潤な陸地のあちらこちらでは、植物たちが生い茂っていたのだと言われる。のみならず、この時代にはまだ地球上のそこかしこで恐竜などが闊歩していたことがわかっている。とはいえ、彼ら生息していくためには、おのずから自然の制約があったのであって、それは次のように言われる。
 「生息密度が高すぎると食物資源を食べ尽くしてしまうし、低すぎると繁殖できずに絶滅してしまうから、陸生大型哺乳動物の最大サイズは、これを回避できるバランスの取れた生息密度を反映している。結局、大型脊椎動物の最大サイズと多様性は、生理学的要素(代謝率が高いほど多くの食物摂取が必要)と摂取可能な食物の量、陸地面積によって制約されることになる。概して面積が広いほど、多くの種類の大型動物を養える。
 この関係は、大型の肉食動物に最も厳しい要求を突きつける。生態系全体のエネルギー収支のなかで、食物連鎖の頂点に立つ動物が摂取できるのはわずかな部分でしかないため、大型肉食動物は草食動物よりも広い行動領域を維持しなければならないからだ。」(S・D・サンプソン「失われた大陸、ララミディアの恐竜」:「日経サイエンス」2012年6月号所収)
 この制約があめのと、今の日本列島のあるところにも、彼らは素足でやってきたことがわかっている。というのは、1982年(昭和62年)からの発掘で、列島の他の場所では合計で10体程度の恐竜の化石が見つかっていた。それなのに、ここでは短期間の集中調査で50もの恐竜化石のかけらが発見された。この発見は、まだ人間が存在しない頃の姿に一筋の明かりをもたらしてくれたのだった(2015年7月22日のNHKの番組「歴史ヒストリア」で放映された)。さらにオーブ期(1億1200万~9360万年前)には、被子動物が繁栄した。
 ここから中生代白亜紀の後期に入っていく。その頃の地球はかなり温暖になっていた。難局にも北極にも冠氷(かんぴょう)はなく、世界の海水面はかなり高かったと考えられている。その最初のセノマン期(9360万~9350万年前)になると、ハドロサウルス類が繁栄を迎える。次のチューロン期(9350万~8803万年前)には、ローラシア東西での生物たちの交流が活発化する。コニアク期(8803万~8660万年前)には、恐竜たちの多様化がピークを迎える。サントン期(8660万~8350万年前)には、恐竜が絶滅した。その理由としては、この頃、地球に惑星が衝突し、気候が大いに変わり、恐竜が絶滅したというのが、有力な見方となっている。

 続いて、白亜紀のカンパニア期(8350万~7060万年前)に入っていく。その中のおよそ7400年前頃になると、諸大陸の配置が現在の姿に近づいてくる。マーストリヒト期(7060万~6550万年前)になると、哺乳類の種としての発達と分岐が盛んになり、多種多様な進化を遂げていったと考えられる。

(続く)

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♦️18の1『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(中生代、プリンスバック期まで)

2018-09-10 10:36:12 | Weblog

18の1『世界と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(中生代、プリンスバック期まで)

 古生代の後は、中生代(2億5100万~6550万年前)に入っていく。その時代の境目の古生代末に起こったのが生物絶滅であって、これを「P-T境界の絶滅」と呼んでいる。この時は、当時の90%の海洋生物が死んだと言われる。例えば、中国南部・浙江省(せっこうしょう)に約2億5100万年前の、連続性のよい海成層が見られ、ここに
当該のP-T境界の地層が露頭(ろとう)している。
 中生代は、三畳紀(2億5100万~1億9960万年前)とジュラ紀(1億9960万~1億4550萬年前)、そして白亜紀(1億4550万~6550万年前)の三つの紀区分から成っている。

 まずは三畳紀の前期・インジュア期(2億5100万~2億4970万年前)においては、「超大陸パンゲア」があった。とはいえ、この大陸は赤道付近で南北に分かれていたと推定されている。大陸の北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸であり、前の中生代ペルム紀での乾燥気味の大地とはうって代わり、全体として温暖かつ湿潤な気候に変化していく。

 およそ2億5000寝前、恐竜を始め、古生代末に起きた地球生命史上最大の絶滅を生き延びた生物たちが、繁栄する。

 続いて、中生代オレネク期(2億4970万~2億4500万年前)になると、双弓類(現代の生物でいうと、トカゲ、ヘビ、ワニなど多くの爬虫類は2つの孔を持っていて、双弓類と呼ばれ、中生代のこの時期の恐竜類もこれに入る)の繁栄があった。
 そして中生代三畳紀の中期にさしかかる。その最初のアニス期(2億4500万~2億3700万年前)には、最初のほ乳類が出現する。大型の生物が滅んだ後、ほ乳類の一部は体が小さかったのが幸いして、この困難な時期をなんとか生き延びたのだとも考えられている。

 同じく中期のラディン期(2億3700万~2億2800万年前)をくぐり抜けていく。その後は後期に入って、カルン期(2億2800万~2億1650万年前)には、「三畳紀後期の大絶滅(カルン期後期)」に入る。

 2億5000万年前頃、超大陸のパンゲアは複数の大陸に分かれる。北アメリカ大陸が別れ、現在のアフリカと南アメリカなどは、超大陸に残ったと想像される。

 続くノール期(2億1650万~2億360万年前)になると、本格的な恐竜時代が始まる。続いてレート期(2億360万~1億9960万年前)、獣脚類(じゅうきゃくるい)の急速な分岐がみられた。
 それから紀が改まって、中生代ジュラ紀(1億9960万~1億4550万年前)に入る。エッタンジュ期(1億9960万~1億9650万年前)の最初には、生物の大量絶滅の痕跡がある。その時の地層は、「T-J境界」と名付けられる。

 中生代三畳紀の末、それまで支配的であった爬虫類たちに大絶滅が襲いかかり、彼らに代わって恐竜たちが世界に広がっていく。やがて彼らの中には、30メートルもの体長に進化するものも出てきた。その草食恐竜たちを追って肉食恐竜たちも大地を闊歩していた。

 恐竜たちは、日本列島にも出現した、しかも沢山に。圧巻なのは、現在の福井県であって、さながら「恐竜王国」であったのだろうと推察されている。
 次の中生代シネムール紀(1億9650万~1億8960万年前)にかけては、装盾類(そうじゅんるい)が登場する。プリンスバック期(1億8960万~1億8300万年前)、古竜脚類(こりゅうきゃくるい)が絶滅する。

 (続く)

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□129『岡山の今昔』久米郡(三咲町)

2018-09-09 22:19:23 | Weblog

129『岡山(美作・備前・備中)の今昔』久米郡(三咲町)

 美咲町(旧柵原町)には、あの名高い柵原鉱山が稼働していた。そもそもは、明治15年に硫化鉄鉱(黄鉄鉱ともいい、鉄と硫黄が含まれる)が発見された。その後開業し、最盛期には約80万トンの年間採掘量を誇っていた。坑道の中を進んだ切りはで、労働者の血と汗がながれていた。

 その後の1991年、鉱山は廃坑となる。片上鉄道も廃線となる。もはや、多くの労働者はこの地にふみとどまることができなくなった。新たなしごとを探さねばならない。

 さらに10年後の2002年になって、その坑道は地域住民の健康を支える、運動施設に成り代わった。ほかにも、農業に活用が可能ときく、そういうことなら、まさに、変身そして復活である。

 しかしながら、気にかかることも幾つかあるようなのだ。その一つが、近隣市町村との連絡、中でも交通路手段の維持ではあるまいか。

 

 

(続く)

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□128『岡山の今昔』和気郡、赤磐市

2018-09-09 22:18:07 | Weblog

128『岡山(美作・備前・備中)の今昔』和気郡、赤磐市

 瀬戸内海に沿って備前を西に行くと、そこは和気(わけ、現在の和気郡和気町)、赤磐市(あかいわし)がある。山陽本線の上郡から西へは、兵庫県との県境を越えて岡山県の吉永、和気とたどっていく。それからは赤磐市(あかいわし)に入って、熊山、万富とやって来る。熊山からほどなくして吉井川を渡る。この鉄路と寄り添うように西へと延びてきた山陽自動車道も吉井川を渡っていく。
 郷土の詩人永瀬清子の詩に、こうある。
 「吉井川よ/おまえはゆたかな髪をもった大きな姉のようだ。/おまえは落ちついて/長い長いみちのりを/曲がりくねりながら悠々とすすむ。」(『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[
]岡山』(1959年2月、泰光堂)
 2005年3月に赤磐市は、同区域の4つの町、すなわち山陽町、赤坂町、熊山町、吉井町が合併して誕生した。ここ赤磐市北部の吉井川河川敷では、冬から春にかけての風物詩、竹製の細い筆軸の天日干しが行われる。筆軸とは、毛筆の柄の部分で、竹を使った筆軸生産は今では全国でも3軒(岡山県内には1軒)しかなくなったという。
 作業の模様を伝えるテレビ番組によると、まずは秋の竹の切り出しに始まる。竹は、岡山県はもとより、遠くは熊本県からも調達する。直径3~15ミリのものを揃え、カッターで22.5センチの長さに整える。そうしてからの竹は、釜ゆでして油や汚れを落としてから河川敷に並べられる。そして、1週間に1度、熊手で熊手で寄せては広げるの作業繰り返し、まんべんなく裏返すという。
 この天日干しで2カ月半ほど冷たい外気にさらすと、緑からあめ色になり、ぐっと引き締まる。この後、熊野筆で名高い広島など県外の加工メーカーへ送られ、製品に仕上がる。中国産のプラスチック製筆軸にシェアを奪われるようになって久しい。そんな業界においても、伝統の技を続けているという。
 このエリアのうち旧山陽町においては、古墳時代に入って穂崎(ほさき)地区に両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)が見つかっている。5世紀後半の築造ではないかと推測されている。古墳の形式は、前方後円墳で、丘の周囲には水をたたえた内濠が二重にめぐらしてある。この種のものではめずらしく優美さを湛えつつも、それでいてやはり当時の首長権力の象徴といおうか、堅固な守りを感じさせる。
 全長192mの墳丘をもつこの古墳は、吉備地方では造山古墳(つくりやまこふん)、作山古墳に次ぐ巨大古墳である。これまでの発掘では、大した発見はなかったもののようだが、いつの頃か盗掘もあったのかもしれない。適切な保存とならなかったのは、あるいは、大和朝廷にとっては邪魔で、目障りな遺跡であったからなのかもしれない。もし適切に保存で現在に明らかになっていれば、古代日本史に吉備国(はびのくに)ありと知らしめることになったのではないか。
 備前地域においてはもちろん最大の前方後円墳で、国指定史跡となっているとのこと。付近には廻山(まわりやま)、森山、茶臼山(ちゃうすやま)の各古墳が点在していて、さながら吉備国の古代を臨むものとなっているのではないか。この国が律令時代に入ってからは、この地(現在の赤磐市馬屋あたりか)に備前国分寺(びぜんこくぶんじ)が建立される。国分寺の南側には、東西に延びる古代山陽道を挟んで備前国分尼寺も建立されたのではないか。

(続く)

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○○285の2『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴とその後)

2018-09-09 21:42:42 | Weblog

2852『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴とその後)

 

 1901年(明治34年)には、鉱毒被害の惨状を訴えるため代議士を辞職してから、明治天皇に直訴しようと試み、これが果たせなかった。

 田中正造の印で始まる謹奏の骨格を拾うと、およそこうなっている。

「 (前略) 伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。近年鉱業上ノ器械様式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト之レヲ澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。加フルニ比年山林ヲ濫伐シ煙毒〉水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身激変シテ洪水又水量ノ高マルコト数尺毒流四方ニ氾濫シ毒渣ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ魚族斃死シ田園荒廃シ数十万ノ人民ノ中チ産ヲ失ヒルアリ、栄養ヲ失ヒルアリ、或ハ業ニ離レ飢テ食ナク病テ薬ナキアリ。老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レルアリ。(中略)  

臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。

嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施スコトナシ。(中略) 

渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ頽廃セルモノヲ恢復スル其五ナリ。加毒ノ鉱業ヲ止メ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。(中略) 

臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ
聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。
   明治三十四年十二月

            草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首、印」

 その後も、彼が志を曲げることはなかった。とりわけ、渡良瀬川の遊水池計画の反対運動に尽力していく。人生とは、日がな一日の繰り返しであって、以後はその全てを社会運動に費やす生活を選んだのだろう。その彼が、二宮尊徳とともに、欧米から日本で最初の民主主義者とされるのは、遊水池の候補地とされた谷中村(現栃木県栃木市藤岡町)に移住し、住民の一人となって村人とともに、村を守るために闘うようになったからである。

 しかし、時代はまだ彼に味方しなかった、と言って良い。政府による土地収用法の適用や谷中村残留民家の強制破壊により谷中村が水没処分となって消滅してからも、正造は、残留民と共に谷中村復興を図る。また、政府の治水政策の誤りを指摘するために、関東地方の河川調査を続ける。その途中で病に倒れ、1913年(大正2年)に渡良瀬川河畔の庭田家で、ついに力尽き73歳で生涯を終えたのだった。
 それから半世紀以上が経過しての1970年、かつて正造に会って「谷中村滅亡記」を著わした社会主義者の荒畑寒村が、これの復刻版を出したとき、彼はこう述べている。

「そもそも足尾鉱山の鉱毒問題の原因は、政府委員がみずから認めているように、「鉱山から出てくる硫酸銅をふくんだ水をそのまま、渡良瀬川に流し込んだ」ことにある。このために、被害の及ぶところ渡良瀬川、利根川沿岸の栃木、群馬、埼玉、茨木、千葉、五県の地およそ五万町歩、その住民三十万をかぞえ、明治二十四年の第二帝国議会における田中正造代議士の質問となって、鉱毒問題がはじめて社会の耳目を聳動させたのである。

(中略)足尾鉱山の鉱毒問題は古来、渡良瀬川と切っても切れぬ不可分の関係にあるが、昭和三十三年(1958)に水質保護法が制定されて、石狩、江戸、淀、木曽の諸河川とともに渡良瀬川も調査河川に指定されたにもかかわらず、七年を経た現在もなお、渡良瀬川の水域指定も水質基準の決定も行われていない。」(荒畑寒村「谷中村滅亡記」新泉社、1970)



(続く)

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○285の1『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴への道)

2018-09-09 21:40:45 | Weblog

2851『自然と人間の歴史・日本篇』明治憲法発布と国会開設(田中正造の場合、直訴への道)


 ところが、その衆議院議員に当選した中に、異色の人物がいた。田中正造(たなかしょうぞう)は、安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の家に生まれた。1841年(天保12年)このころ、領主であった旗本六角家の改革運動に邁進していた。けれども、官憲に捕らえられ11か月の投獄生活を送る。その後一時、江刺県(現在の秋田県と岩手県の一部に跨る地)で官吏をしていた。ところが、1874年(明治7年)に郷里の小中村へ帰る。名主の家なので、おそらく生活に困るほどではなかったのではなく、将来に備えての、いわゆる「充電」のためとみてよいのではないか。1878年(明治11年)には、栃木県第4大区3小区の区会議員に選ばれる。1880年(明治13年)には栃木県会議員に当選し、自由民権運動家として当時の県令(現在の県知事だが、政府が任命した)である三島通庸(みうらみちつね)に対抗していく。
 衆議院の代議士になってからは、6回連続当選を果たしている、郷土の傑物と言って良い。彼の名を全国に知らしめたのは、1891年(明治24年)の第2回帝国議会で鉱毒被害に関する質問書を提出したのに始まり、商高務省の担当大臣、陸奥宗光に直ちに足尾鉱山の操業を停止して真相を究明すべきであると要求している。以後、足尾銅山の鉱毒問題に集中して取り組む。1897年(明治30年)には、政府は鉱山を運営する古川財閥に対し「鉱毒予防命令」を出して是正処置を求めることで、古川市兵衛はその圧力に押される形でやむなく改善に取りかかるのであった。しかし、鉱毒垂れ流しという全体の方向はなかなかに変わっていかない。
 

 

(続く)

 

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□110『岡山の今昔』水島工業地帯1(石油化学コンビナートなどの設置)

2018-09-07 09:38:26 | Weblog

110『岡山(美作・備前・備中)の今昔』水島工業地帯1(石油化学コンビナートなどの設置)

 1974年(昭和49年)12月、三菱石油水島製油所で重油流出事故が起きた。それより10年余り前の1961年(昭和35年)5月、石油精製などの操業を開始した。そして迎えた1963年、大規模な干拓で増勢された土地に、まずは三菱グループの石油化学部門の三菱化成が化成水島を建設する。ほぼ時を同じくして、水島合成化学、関東電化工業、菱日水島などが形成される。また、旭化成グループからは、旭ダウ、旭チバの誘致などがあり、それらの関連会社も設置が進んでいく。これが、瀬戸内海屈指の石油化学コンビナートの誕生であった。

 顧みれば、このあたりの工場敷地は、昔は高梁川と旧東高梁川の河口沖であった。ところが、昔の連島の南方あたり、東の方角から福田新田、亀島新田、鶴新田として埋め立てられていた。そうであるものを、さらに戦後その先を埋め立て、水島工業地区として整備した。

 一方、福田新田沖の埋立地には、東京製鉄、化成水島、中国電力、日本鉱業などの工場が南へ向かって延びた。また亀島新田と鶴新田の南部に造成された埋立地には、三菱自動車、日本ガス化学、川崎製鉄、そして三菱石油とある。地図を広げると、川崎製鉄の敷地は、瀬戸内海の南域深くまで進出している。

 さらに、これらの西の高梁川の向こう岸、昔の乙島(おとしま)そして玉島港の南方には、玉島に乙島(おとしま)地区が広がる。昭和に入ってからのここでは、1934年(昭和9年)坂田新田(56ヘクタール)、ついで1943年(同18年)に養父ヶ鼻周辺の埋立てで太平新開地(33ヘクタール)を造成し、そこに企業(浦賀重工業)を誘致した。

 続いて、高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われる。こちらには、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)や中国電力を中心に、ということになっていった。さらに、沖合水域が埋め立てされていった。こうした一連の動きにより、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれる。ひいては、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)が造成されたのである。

 (続く)

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□109『岡山の今昔』水島工業地帯1(造成)

2018-09-07 09:37:28 | Weblog

109『岡山(美作・備前・備中)の今昔』水島工業地帯1(造成)

 水島にある工場群は、この瀬戸内海に張り出したところにある。岡山県の工業製品出荷額のおよそ半分を占める、といわれる。工業地帯へは、山陽本線の倉敷から水島臨海鉄道に乗って、球場前、西富井(にしとみい)、福井(ふくい)、浦田(うらた)、弥生(やよい)栄(さかえ)、常磐(ときわ)、水島(みずしま)、そして最終の三菱自工前(みつびしじこうまえ)へと進んでいく。また、瀬戸大橋線は、岡山を出て大元(おおもと)、備前市(びぜんし)、妹尾(せのお)と来る。それからは、備中箕島(びっちゅうみのしま)、早島(はやしま)、久々原(くぐはら)と来る。

 その次は進路を南にとって、茶屋町(ちゃやまち)、植松(うえまつ)で東の方からの線と合流、その後は木見(きみ)、上の町(かみのちょう)、児島(こじま)と行き、そこからは瀬戸大橋(いわゆる児島・坂出ルート)を渡っていくことになっている。
 ところで、水島を全国有数の工業地帯にするには、さまざまな準備活動が必要であり、それらはやがて集中的な取組となっていく。これらのおよそを時系列で追うと、こうなっている。
 1946年10月、農林省が福田地区の干拓に着工する。計画では、1959年(昭和36年)までに297ヘクタールを予定。
 1949年10月、当時の倉敷市が水島を囲む福田町、連島町など8か町村の合併計画を発表する。
 1950年12月、農林省が連島の干拓に着工する。計画によると、1959年まで440ヘクタールを予定。
 1951年8月、岡山県が、水島地区の港湾管理者となる。
 1952年4月、倉敷市が水島鉄道を買収する。
 1953年、倉敷市が、水島を囲む福田、連島の両町と合併する。
 1955年11月、岡山県が日本興油を誘致することが決まる。
 1958年2月、岡山県が三菱石油を誘致することが決まる。
 1959年3月、中部電力水島火力発電所を誘致することが決まる。
 1959年4月、児島C地区の造成が着工となる。1939年までに204ヘクタールを予定。
 1959年9月、岡山県が日本鉱業を誘致することが決まる。
 1960年6月、国が、水島港を重要港湾・石油港湾に指定する。同月、国が、水島地区を重要工鉱業地帯整備地域に指定する。
 1961年4月、玉島臨港鉄道に着工する。
 1961年6月、岡山県が川崎製鉄を誘致することが決まる。
 1962年6月、水島港が開港となる。
 1963年9月、倉敷市の公害対策協議会が発足する。
 1964年1月、国が、県南地区を新産業都市に指定する。
 1965年8月、厚生省が、公害環境汚染調査を開始する。
 1965年11月、倉敷市が、防災会議を結成する。
 1966年12月、倉敷、児島、玉島の3市が合併協定に調印する。
 1967年1月、玉島E地区の造成に着工する。予定は、1974年までに86ヘクタール。
 1967年2月、新生の倉敷市が発足する。
 1967年3月、煤煙規制法の地域指定を受ける。
 1967年12月、佐野安船渠(さのやすせんきょ)を水島C地区へ誘致することで調印する。
 1969年1月、川崎製鉄の水島製鉄所が、2号高炉に火入れを行う。
 1969年6月、児島塩生C地区の旭化成工業水島アクリルリル工場が工場完工となる。
同月、玉島乙島地先E地区の中国電力玉島火力発電所の起工式が行われる。同月、児島塩生C地区の日本ゼオン水島工場の試運転が始まる。
 1969年7月、第二次の水島地区大気汚染防止対策協議会が発足となる。
 これらに関連して、岡山県が水島臨海工業地帯に企業を誘致し、工業立県化を推進したのには、この間知事をつとめた三木行治(みきゆきはる)の積極姿勢があったことは、特記されてよい。三木は、1903年(明治36年)に岡山市畑鮎に生まれた。法学士と医学博士の経歴の上、官僚にもなって最後のポストは厚生省公衆衛生局長であった。

 1951年(昭和26年)に48歳で岡山県知事に初当選する。革新系ということになっていた。それから、連続当選4期で、1964年に急逝するまで三木は知事であり続けた。彼が推進した時代の工業化には後々の課題を残したものも多かったものの、彼の非凡なところは、いわゆるブルトーザー的な開発志向ではなくて、多方面に活動の領域を設けていたところにあった。
 写真で三木の顔を見ると、ごつい感じなのだが、そればかりではない。豪放なところと繊細さをあわせ滲ませる。古代で言うと、英雄の相といったところか。つまり、なんだか人なつっこい風貌なのである。その柔らかな表情さながらに、「岡山県福祉計画」を樹立することで、子どもや老人、社会的弱者の福祉に積極的に取り組んだ。

 かの孔子に「剛毅木訥仁に近し」という、戦後先駆けの政治家だといえる。また開眼運動を提唱し、アイバンクを設置した。東洋のノーベル賞といわれるマグサイ賞を受賞したことでも知られる、日本レベルで見ても類の少ない、爽やかな政治家であったのではないか。
 ところで、かの孔子の言に、次のようにあるのをご存じであろうか。すなわち、「子曰く、利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し」(『論語』巻二第四里仁篇12)。


(続く)

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□48『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、美作改政一揆)

2018-09-06 22:18:24 | Weblog

48『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、美作改政一揆)

 それからもう一つ、1866年(慶応2年)旧暦11月24日夜、冬の寒さが増しつつある時、全国の「世直し一揆」に呼応した一揆が、美作の地でも起きた。この美作全域を巻き込んだ大規模な一揆のことを、「美作改政一揆」と呼ぶ。もしくは、これが勃発した東北条郡行重村(現在の津山市加茂)の地名をとって、「行重村一揆」(ゆきしげむらいっき)とも呼ばれる。この一揆の最初ののろしは、同日、東北条郡行重村(ゆきしげむら、現在の津山市加茂)において、はじめは「真福寺の鐘」を鳴らすのを合図に、同村野猶吉、政之○、光次郎ら10人くらいの規模であったのが、翌25日朝から津山城下城下に向かって道を進むにつれ、沿の村落を煽動するのであるから、一揆勢はどんどん増えていく。
 京都大学の黒正巌の筆による「作州の農民騒動」には、その時の模様がこう描かれている。
 「勝南郡川邊村に至り、光次郎等は一千余人を分かって英田倉敷村に向かはしめ、自分は他の農民を率いて津山城下に侵入した。藩士佐藤嘉吉等は懇諭して津山に入らないように力めたが、勢いにはやる農民達は之を聴かない。藩士は大橋門を鎖して侵入を防いだ。農民は津山町の東端林田町に入るや、手当たり次第に酒肴を掠めて飲食し、銃卒を罵詈して止まぬ。甚しきは宗を露はして「撃てるならうってみろ」などと叫び、石を門に投じて破壊せんとし、天地も響けと喊声(かんせい)を挙げる。銃卒は切歯して憤慨し、発砲して遂に光次郎等数人を○した。古市左近、大島兵蔵等は救恤(きゅうじゅつ)すべき事を述べて退散せんことを諭した。之で農民の勢も多少阻められたのであるが、其夜暮らし木村より来たりたる農民と合するに及びて再び勢を得、付近の富商七十余戸を破壊した。藩政府も遂に武力を以て之を鎮圧した。」(黒正巌『作州の農民騒動』:京都帝国大学経済学会編『経済論叢』第22巻第4号、1926年刊)
 彼らが立ち上がったのは、なぜであろうか。その理由の主な一つは、この時の百姓総代、直吉(なおきち)が津山に出向き、津山御役所宛てに差し出した嘆願書に窺える。それには、低姿勢の文体ながらもこうはっきりと記されてあった。
 「恐れ乍ら書附けを以て嘆願奉り候事
一、御領内村々総百姓中嘆願奉り候其の意趣者
一、御年貢御蔵納三斗五升計切之事附り、御刎俵直シ人足御差留之事
一、當寅御年貢引下ケ之事附り、関門入用御断之事
一、以後御出馬これ有りし候共、若党槍持ニ百姓ヲ御連被りし成候儀御断之事
一、当寅献納金難渋人之分年延之事
一、御検見之節壱合以下之毛御免之事
一、御蔵米似セ俵゛川下之毛御免之事附り、御登米之外津留之事
一、近来新規之御運上御免之事
一、諸役人依怙(えこ)之沙汰御吟味之事
右拾壱ケ条之御趣御取調之上、格別之御仁知を御許容成下為被候ハバ莫大之御慈悲、百姓一同有難き仕合ニ存知奉り候。此の段宜敷様仰上下被ル可キ候。以上。
慶応二年丙寅十一月。東北条郡行重村西分百姓総代・直吉、印。津山御役所」
 これにあるのは、年貢の減免の願いばかりでないことであって、4項にあるのは藩主出馬に当たり、百姓を「槍持ち」に連れて行くことにつき、そのような事はやめてほしいとの要求なのである。具体的には、「長州征伐」(第一次は1864年(元治元年)、第二次のものは1866年(慶応2年))への出兵に人夫(にんぷ)をかり出さないことを狙っているのだろうか。そのほかにも、新規の運上は御免被りたいし、年貢米の検査に当たる役人の不正があると思われるので、諸役人による依怙贔屓(えこひいき)を吟味してもらいたいことも盛り込まれている。『津山領民騒擾見聞録(つやまりょうみんそうじょうけんぶんろく)』によると、この「加茂谷強訴」の発起人の代表格である直吉は、この後神妙に立ち居振る舞い、「郷預け」を経て、牢獄に投じられたことになっている。
 そればかりではなかった。まるで乾いた薪に火を点けたときのように、短期間のうちに美作全域に農民一揆が広がり、また加速していくのはよくあることで、この東北条郡から津山への一揆勢の行軍につられたのか、津山城下の西からも一揆勢が押し寄せてきた。同じく黒正巌の筆を借りると、同氏はこう述べておられる。
 「然るに26日には美作西部に於いても農民が暴動した。即ち大庭郡古見村の農民は先ず久世村を襲ふて商家を破壊し、さらに津山城下を襲はんとして中北村(久米法条郡)に至る。農民の数三千に及ぶ。中北村の中庄屋久山直助は農民を迎へて曰く、若し之より津山城下に逼らんとならば、先ず自分の家を破壊せよ、自分の家を破しない以上は、断じてこの地を通過せしめないと叫び、先ず酒○薪炭を備へて之に興えた。然るに農民達は一揆の数が多いからお前の薪炭で足るものかといふ。直助は既炭がなくなれば門舎、倉庫、家屋順次にたいてしまえ、心配には及ばぬと答へたので、流石の農民達もその意気に感じて敢えて前進しなかった。内藤氏の代官柴田順平、大庄屋安藤善右衛門(坪井下村人)等直助を助けて退散を諭したので、遂に十二月朔日に至って農民は退去し、事平ぐ。
 この外にも土岐氏の領邑(りょうゆう)たる英田郡の農民も亦騒動したのであるが、間もなく鎮圧せられた。」(黒正巌『作州の農民騒動』:京都帝国大学経済学会編『経済論叢』第22巻第4号、1926年刊)
 翌1867年(慶応3年)の正月には、当時津山藩の所領であった小豆島の土庄町(とのしょうちょう)と池田町(いけだちょう)でも農民一揆が起きた。美作では、これらを過去の一揆と区別して「改政一揆」(それゆえ、美作でのものは「美作改政一揆」、小豆島でのものは「小豆島改政治一揆」など)と呼び慣らしている。

(続く)

★★★


(続く)

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○231『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の民衆社会思想家(大塩平八郎、熊沢蕃山)

2018-09-04 12:01:42 | Weblog

231『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の民衆社会思想家(大塩平八郎熊沢蕃山

 大塩平八郎(大塩中斎、おおしおへいはちろう、1792~1837)は、世直しの乱を起こしたものの失敗し、息子ともに自殺した。幕府の「御政道」を正すための直接行動が失敗し、追手から逃れることができないと悟ったのであった。その彼が蹶起のため用意していた檄文(げきぶん)に、こうある。
 「徳川家支配の者に相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触れ等を差出、大阪市中遊民計を大切に心得候は、前にも申通り、道徳仁義を不在拙き身分にて、甚以、厚かましき不届の至、且三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有之有福に暮し、町人の身を以、大名の家へ用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食を敢て不救、・・・・・」(本文とその口語訳は先進社内同刊行会「大日本思想全集」第十六巻、昭和6年)
 大塩がこの檄文を書いた動機としては、日本では中江藤樹(なかえとうじゅ、1608~1648年)が中国の王陽明の思想「陽明学(ようめいがく)」を日本に移植したことがある。中江ならではの思想が窺える著『翁問答』によると、道徳の根源とされる「孝」による徳行とは、生みの親に対する孝に止まらず, 人間の生みの親である天(皇上帝) に対する孝にまで拡げられなければならない。したがってこれを紐解くと、制度としての身分秩序は認めながらも,「万民は皆ことごとく天地の子なれば、われも人も人間の形ある程のものは、みな兄弟なり」と万人平等を主張したのは、紛れもない事実なのである。
 この事件の顛末については、誠にあっけなく決着したという他はなかろう。仔細については、後代の人々が様々に紹介し、講釈も加えているのだが、我が国最初のマルクス主義者と目される堺利彦は、講釈「大塩騒動」の中で、蹶起当日の朝から昼過ぎまでの有様を、今観てきたような巧みなタッチででこう述べている。
 「さて、大塩勢の出で立ちを見てあれば、大将平八郎および副将格之助は差込野ばかまにて白の鉢巻きをしめ、・・・・・、ゆくゆく市民の屈強なる者を味方に付け、総勢数百人、殺気天を貫くという勢いであった。それから彼らは浪速橋を渡り、左に折れて二手に分かれ、今橋筋と高麗橋とを東に向かい、かねて目指したこの富豪町に片端から炮烙玉(ほうろくだま)を投げ込み、あるいは火具鉄砲を打ち込み、さんざんに焼き建てた。家具も道具も米も金も千両箱もみな一緒くたになってそこら一パイにころがっていた。付き従った何百人の群衆は宝の山に入った思いで、我先にと略奪をほしいままにした。鴻池庄右衛門方では四万両も取られたという話が残っている。・・・・・」(川口武彦編集「堺利彦全集」第五巻、法律文化社、1971)
一とおり、当日の有様を描写した堺としては、「音に名高い大塩騒動はかくのとおり、たった一日間の騒ぎに過ぎなかった。そして天下は再び太平に帰した」と堺は慨嘆している。それにしても、大塩その人は、役人生活を隠居の後は自慢の蔵書に埋もれるようにして読書三昧にふけったり、寺子屋の教師として界隈の子供らに学問して余勢を過ごしてもよかったであろうに、目の前に広がる民衆の窮状を目視するに忍びず、「救民」に文字通り一命を捧げた。そればかりではなく、家族もろとも命も捧げた。これに同意するか否かは別として、このようなことは並の人間にできることではあるまい。
 中江の弟子で知られる学者に熊沢蕃山(1619~1691年)がいる。長じて岡山藩の番頭格となった熊沢は、同士を集めて相互に錬磨しあう「花畠教場」を主宰するに至る。これには「花園盟約」というものがあって、武士の職分は人民の守護育成にありと人民本位の政治を掲げる。また、「致良知」に基づく慈愛と勇強の涵養が学問の目的だとした。しかし、このような奇抜な彼の一派の動きをキリシタン思想に関係ありと幕府に疑われ、岡山藩を離れざるを得なくなるのであった。熊沢は、時・処・位に応じて身を処することの大切を説いた。つまり、何時でも、何処にいても、そして誰に対しても説くをもって対応することを重視し、これらを弁えていなければ道徳的に評価されない、というのである。
 大塩も、平たくいうと、その系統に属する者であったことは疑いなかろう。長じての彼は大坂町奉行所の与力であったが、38歳で辞職して家塾「洗心洞」を開いて陽明学でもって子弟の教育にあたっていた。ところが、当時打ち続く飢饉で農民や都市貧民が飢えているのに、奉行所や豪商たちは自分の利得や我が身の安全ばかりを考えて行動していた。しかも、彼の信じる陽明学は「知行合一」を教えているのに, これを傍観することはできないと考えているうち、ついに我慢がならなくなって、仲間を募って腐敗堕落した世の中を正そうと蹶起したものと思われる。

(続く)

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○151『自然と人間の歴史・日本篇』明、朝鮮との貿易

2018-09-03 14:46:18 | Weblog

151『自然と人間の歴史・日本篇』明、朝鮮との貿易

 この時期には、もう一つ政治的に重要な出来事があった。南北両朝の統一である。明徳の乱と同年には、大覚寺統(南朝)の後亀山天皇が吉野から京都に帰り、彼が持っている「正当派天皇」の権威を伝える「三種の神器」を、持明院統(北朝)の後小松天皇に差し出す、つまり譲位することでの両朝の歩み寄りがあった。この南朝側からの禅譲により南北朝の和解が成る。
 1336年(延元元年にして建武3年)から56年の長きを経て、南北朝の内乱は終止符を打たれる。さらに1399年になると、幕府は周防、長門、石見などの六カ国の守護を務めていた大内義弘の勢力を大幅に削減することに成功する、これを「応永の乱」という。この時の義満は、将軍を四代将軍足利義持(あしかがよしもち)に譲っていたのであるが、隠然たる力を維持していた。
 足利幕府の財政基盤強化に、大いに役立ったのが明(みん)との交易である。日明貿易では、幕府の財政を潤そうと考えた。この日明貿易においては、明に対し両国の関係が対等でなく、明はあくまでも献上品(けんじょうひん)にお返しを与えるという形でしか、他国との貿易を認めていなかった。幕府は、これを良しとして、明との貿易を開く。これは「勘合貿易」と呼ばれる。
 1470年、4代将軍足利義持の時に出された『善隣国宝記』に、1401年()に、足利義満から明の建文帝に宛てた国書の紹介がある。
 「日本准三后某(にほんじゅんさんごうなにがし)、書を大明皇帝陛下に上る。日本開闢(かいびゃく)以来、聘問(へいもん)を上邦(じょうほう)に通ぜざるなし。某、幸に国鈞(こっきん)を秉り海内(かいだい)に虞(おそ)れ無し、特に往古(おうこ)の規法に遵(したが)ひて、使肥富(こいずみ)に祖阿(そあ)を相副へ、好(よしみ)を通じて方物(ほうぶつ)金千両、馬十匹、薄様千帖、扇百本、屏風三双、鎧一領、筒丸一領、剣一柄、硯筥一合、同文台一筒を献ず、海島を捜尋し漂寄の幾許の人を還す、某誠惶誠恐、頓首々々謹言。
 応永八年五月十三日」(瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)作『善隣国宝記』)
 わざわざ「日本准三后某」と名乗るのは、足利義満のことである。また、「使肥富に祖阿を相副へ」と述べ、僧侶の祖阿を正使、博多商人の肥富を副使としている。そして国書を司る立場から「特に往古の規法に遵ひ」、つまり遣唐使の派遣に遡り、中国大陸の支配者である明国皇帝に、伺いを立てている
では、明はどのように日本の国書に相対したのかというと、同じ『善隣国宝記』にこう書かれている。
 「大明書・・・・・○爾(ここになんじ)、日本国王源道義、心王室に存し、君を愛するの誠を懐き、波濤(はとう)を○越(ゆえつ)し、使いを来朝せしめ、○流(ほりゅう)
の人を帰し、宝刀・・・・・貢(こう)し、副ふるに良金を以てす。朕甚だ嘉(よみ)す。・・・・・」
文中、「国王であるあなた、源道義」と名指しされるのは、2代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)のことである。要は、「倭寇に捕らえられていた者を帰し、宝刀を献上してきた皇帝は、これを喜ばしく思う」という、一段上から朝貢してきた国をねぎらう体裁だと言えよう。
 このように対等ではない立場の国の間で行われる取引であることから、両国による貿易のやり方は手が込んでいた。つまり、義満は「日本国王」と称し、自国の方からは、献上品を積んできた正式の船であることを証明するものとして、明が国々に与えていたのが「勘合(符)(かんごうふ)」と呼ばれる札(ふだ)を遣うことになる。この「勘合」というのは、一種の割符(わりふ)となっている。そこに記されている片割れの文字は、「底簿(ていぼ)」と呼ばれる台帳の文字としか一致しない仕組みだ。明では、この仕組みにより「勘合」を「底簿」と照合することで、入港してきた船が正式の財を運んできた船かどうかを判断し、そうであるなら品物を受け取り、金銭を支払うことになる。

 この勘合札がどんな形をしていたかは、1468年(応仁2年)に将軍足利義政(あしかがよしまさ)の命令で明に渡った天与清啓(てんよせいけい)という禅僧が記録した『戊子入明記(ぼしにゅうんみんき)』に写しとった図が描かれている。この日明貿易によって、中国からは主に銅銭(どうせん)、生糸(きいと)が輸入され、こちらからは硫黄(いおう)、刀剣(とうけん)、扇(おうぎ)などが明国に輸出される。
 ここに明(みん)が義満の申し出に応えたことには、経済的事由が相当に介在していたことは疑いない。『明史・日本伝』に、当時の明を苦しめていた、かの倭寇の記事が載っている。
「明初沿海の要地、衛所を建て戦艦を設く、・・・・・寇舶の至るを見て輙ち風を望み逃げ匿る。而して上に統率して之を御するもの無き故を以て賊帆指す所残破せざるは無し。 三十二年、…諸倭大挙して入寇し、艦を連ねること数百海を蔽いて至る。浙の東西、江の南北数千里同時に警を告げ昌国衙を破る。四月太倉を犯し上海県を破り・・・・・縦横に来往し無人の境に入るが如し。…大抵真倭は十の三、倭に従う者十の七なり。」
 つまり、明としては、勘合貿易で倭寇の類をおさえるために、勘合符を発行することでの日本との貿易を解禁したことにもなっていたのだと考えられる。 

(続く)



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