週間文春7月3日号の「家の履歴書」という記事に、上橋菜穂子さんのインタビューが掲載されていた。
上橋さんは“児童文学のノーベル賞”といわれる国際アンデルセン賞の作家賞を受賞したばかり。インタビューの内容がとても興味深かったので、ノートとして記録しておこうと思う。
上橋菜穂子さん、昭和37年生まれ。誕生日にもよるけれど、現在51歳か52歳。作家としては油が乗り切った年代だ。
上橋さんの物語作家としての生い立ちを追ってみる。
★★★★父親は洋画家。
小さいころは女の子っぽいものには興味がなく、「ウルトラマン」が大好き。最終回でウルトラマンが死んだときには大泣きしたそうだ。すると翌日、母親がウルトラマンからの手紙を渡してくれた。
それにはこう書いてあった。
「菜穂子ちゃん。僕は死んだんじやないんだ。M78星雲に帰っただけなんだよ」
それで安心したのだが、何年もたってから、あれは母親の筆跡だったことに気がついた。
物語の楽しさを教えてくれたのは祖母。
おばあちゃんの膝に頭をくっつけながら「すべったり釜のふた」という決まり文句で終わる昔話や、猫が修業する話、ひいひいおじいちゃんが暴れ馬を止めた話など、いろんな昔話を聞いて育った。
小学校時代、夏休みになると母方の祖母の家にいった。
叔父が少年時代に勉強部屋に使っていた屋根裏部屋でジュール・ヴェルヌの『海底二万里』を発見して読みふけった。
小学校低学年のときにキューリー夫人の伝記を読んで、キューリー夫人に憧れる。キューリー夫人が好きで好きで…、女性として初めてノーベル賞を受賞した偉大な人だが、「没頭しすぎる」という欠点があることころに惹かれたそうだ。
それまで物語を書く人になりたいと思っていたが、キューリー夫人のような学者になりたていという夢も生まれた。
昭和50年、中高一貫のミッションスクール、香蘭女学校に入学。
トールキンの『指輪物語』やサトクリフの『ともしびをかかげて』『第九軍団のワシ』など書き手として影響を受けた作品に出会ったのもこのころ。
いちばん好きだった漫画家は萩尾望都さん。とくに『ポーの一族』の「グレンスミスの日記」が大好きで、短編の中で歴史がみえるストーリーにものすごく心惹かれた。
高2のときに書いた短編小説『天の槍』が旺文社学芸コンクールの佳作に入選した。新石器時代の話で、若者が初めて狩りに行って獲物を倒すという場面だけを綿密に書いた。
学校の企画した英国研修旅行でケンブリッジに行ったのも高2のとき。
ケンブリッジには『グリーン・ノウの子どもたち』を書いたルーシー・M・ボストン夫人のマナーハウスがある。大好きな作品の舞台が見たくて、ボストン夫人に手紙を書いた(正確には日本語で書いた手紙を、帰国子女の友達に英訳してもらった)。
そうしたら「ぜひいらっしやい」という返事がきた。
『グリン・ノウの子どもたち』は古いお屋敷で現代を生きる少年と12世紀の子どもたちが出会うタイムファンタジー。
ボストン夫人の家は実際に1120年に建てられていて、なかに入ると物語に出てくるものがみんなある。
扉を開けたら12世紀という世界がボストン夫人にとっては日常なんだなと思った。いまと昔がつながっているという肌感覚がある。
ファンタジーであればあるほど、そういうリアリティーが大切なんだと思った。
昭和56年、立教大学文学部に進学。文化人類学の道に進んだ。
大学時代に初めて1000枚の長編小説を書き上げたが、読者は親友と弟の二人だけだった。
大学院に進んでから540枚の比較的短い作品を書き上げたので、思い切って偕成者に送った。
本にしたいと返事をもらったのは1年後。それまでは何の音沙汰もなかったので、博士課程に進むことを周囲に名言していた。
デビュー作『精霊の木』が出たのは27歳のとき。印税はオーストラリアのアポリジニの調査をするための資金として使った。
必然的に研究者と作家の二束のわらじを履くことになった。
大学で助手をしながらフィールドワークのない春休みと冬休みに小説を書いた。
ある日レンタルビデオの予告で
「炎上寸前のバスの中から、エキストラのおばさんが少年の手を引いておりてきた場面」を見たとき、おばさんが幼い男の子を守って戦う話が書きたいという気持が沸き起こった。
それから3週間ぐらいで書き上げたのが『精霊の守り人』だ。
『精霊の守り人』シリーズは累計で360万部。
『獣の奏者』は累計215万部を突破。
この春『鹿の王』という長編諸説を書き終えた。ウィルスに関する本を読んでいたときに、人間の体ってひとつの森みたいだなと思ったのが発想のきっかけ。
ある病を得た男と医者の人生がタペストリーのように絡み合う物語。
★★★★『鹿の王』は今秋、角川書店から刊行されるそうである。国際アンデルセン賞受賞後第一作。どんな物語か、待ち遠しい。