いつかは、自分なりの「クリスマスの本」をまとめて紹介したいと思っていた。
たとえばディケンズの『クリスマス・カロル』の中では
スクルージが三人の幽霊によって、クリスマスの心に目覚めるところ。
クリスマスは楽しいもの、豊かな恵みを分け与えて過ごそう、と決めるシーン。
★しかも何よりうれしいことに、行く手に横たわる「時」が自分のものであり、
埋め合わせをつけられることである!
「私は過去と現在と未来の中に生きよう。三人の幽霊方に私の心の中ではげましていただくのだ。おお、ジェイコブ・マーレイよ! このことのために神もクリスマスの季節も讃えられんことを。私はひざまずいて言ってるんだ。ジェイコブ爺さんよ、ひざまずいて言ってるんだ!」
彼はあまりにも我とわが崇高な決心に興奮してしまい、声はとぎれとぎれで、なかなか思うように出なかった。
おお、なんとすてきだろう。なんとすてきだろう!
窓にかけよって彼はそれを聞き、頭を突き出した。霧ももやもない、澄んだ、晴れわたった、陽気な、浮き浮きするような、冷たい朝。血が踊り出さずにいられないような冷たさ。黄金の日光、神々しい空、甘い爽やかな空気、たのしい鐘の音、おお、すてきだ! すてきだ!
「きょうは何の日だね?」
と、スクルージは日曜日の晴れ着を着た少年を見おろしながら声をかけた、少年はあたりを眺めながらぶらぶら来たらしかった。
「きょうは何の日だね、素敵な坊や?」
「きょうだって? クリスマスじゃありませんか」
村岡花子さんが訳した新潮文庫の『クリスマス・カロル』から抜粋したもの。
すっかり改心したスクルージの、明るく、恵みあふれる、人とつながりたい心が、
読むほうのこちらの心の鍵フックとカチリと合って……
自分の世界が広がっていく気がする。
自分もその気持ちを誰かに伝えて、さらにつながりたい、
そして、この世界の楽しい気分が少し増すといいな、と思うのだ。
「クリスマス・ブック」をもしまとめるとしたら、『若草物語』も入れよう。
『若草物語』の中の4人姉妹たちの会話はどうやら、日本だけでなく、英語圏の人たちにとっても、
おどろきをもって迎え入れられているようだ。
「えっ、家庭の中で、こんなふうに話をするわけ?」
たぶんオルコットの技量だと思うけれど、会話の中に心の動きが見事に反映されていて
何気ない会話がドラマチックでさえある。
『若草物語』は会話の魔法なのだ。
とくに物語の冒頭の部分は、クリスマスのことが描かれる。
姉妹は自分たちのお小遣いで、欲しかったものを買おうと話すうちに、
それよりも「お母さま」にそれぞれがプレゼントをしよう、という話になる。
クリスマスの朝、「お母さま」はご近所の困窮している一家にクリスマスの食事を届けようと提案する。
「ご近所にね、病気で寝ている貧乏なお母さんがいるんですよ、生まれたばかりの赤ちゃんもあるのよ、子供が六人、一つのベッドに丸くなっているの、火の気がないからそうしないとこごえ死んでしまうんです。そこのおうちには食べる物が何もないの、それでね、一番上の男の子が、おなかがすいて、寒くって困ってるってお母さまのところに言いにきたんですよ。どう、みんな、あなたたちの朝ご飯をクリスマス・プレゼントに上げることにしたら?」(角川文庫/吉田勝江訳)
そこでマーチ家の人たちは、パンの籠やら、お菓子の包やら、焚き付けやらをかかえて木々の中の裏通りを行進していく。
薪で火をおこして部屋を暖かくし、食べ物をテーブルに広げて子供たちに食べさせた。
そのようすはまるで天使みたいで、読んでいて心が洗われる。
クリスマスの夜には、姉妹たちは二階の部屋で、近所の少女たちを観客に、劇を披露する。
作・演出は次女のジョー。
劇は大受け。
途中で舞台装置が倒れたりとドタバタするものの、やんややんやの大喝采で幕を閉じる
そして、そのあとにみんなを待っているのはクリスマスの夜食。
アイスクリームやお菓子や果物、そして花束がテーブルにあふれている。
姉妹ですら、こんな素敵な夜食が用意されていることにビックリする。
じつはこの食事は、お隣のローレンスさん(ローリーのお爺さん)
から届けられたもの。
マーチ家の人たちが、自分たちの朝食を貧しい一家に届けたエピソードを耳にしたローレンスさんが
それではと、クリスマス・プレゼントとして届けてくれたのだ。
物語の始まりからここまで読んで、あたたかい思いが読者の心にあふれる。
クリスマスの物語として、素敵な話じゃない?
人に何かをプレゼントしたり、いいことをしてあげたりする「利他の心」。
クリスマスって、思いやりがマックスになる日なんだな、と思う。
若い人たちはどうだろう?
もし『若草物語』の映画が若い人たち受け入れられたとしたら、
『若草物語』冒頭のクリスマス物語も受け入れられるのだろうか?
そういうことを知りたいな。