サラ☆の物語な毎日とハル文庫

アーサー・ランサムとロシア

アーサー・ランサムは自伝の中で、「なぜロシアに行こうと思いたったのか」を具体的に説明している。
ロシアに行きたい要素は3つあった。
まずはオスカー・ワイルドの評伝を書いて、ワイルドとゲイの関係にあったアルフレッド・ダグラス卿から、名誉毀損で訴えられた。この裁判には勝訴したものの、精神的に大いに憔悴していた。
「私は、いかなる犠牲を払っても、二度とふたたびこんな災難に巻き込まれる不運にぶつかりそうな本は書くまいと決心していた」とランサムは語っている。
ランサム、29歳。13ヵ月にわたる裁判はようやく終結し、やっとごたごたから解放されたところだった。
 
次に、妻であるアイヴィとの関係が、どうしようもなく悪化していた。
 センセーショナルで虚言癖のある、ランサムの最初の妻アイヴィは、どう考えても常軌を逸している。なぜランサムがアイヴィに恋愛感情を抱いたのか、わからない。若い男の考えることに思慮分別などないということだろう。何事もやってみなければわからない、の道理かも。
たぶん、むちゃくちゃ美人だったのかもしれない。
アイヴィと婚約する前、ランサムは、だれかれとなくラブレターを書いては結婚を申し込んでいたらしいから(結婚したい症候群?)、たまたまアイヴィがビンゴだったということかもしれない。…あるいはね。
ランサムは妻と別れ、解放されたくて仕方がなかった。それでロシアに逃げることにしたのだ。

最後に、ロシアの昔話に作家としての新境地を見出したことが、決定的な理由である。
ランサムは、こんなふうに書いている。
「私はロンドン図書館で偶然ラルストンの『ロシアの昔話』にぶつかった。
その本の、私の目には不適当な『文学的散文』と思える文体は気に入らなかったが、じつに豊かな素材があることはわかった。
それはコリングウッドに教えられたスカンジナヴィアの昔話とも、グリムとも、ブルターニュの昔話とも、ウェールズやスコットランド高地のものともちがっていた。
私は、ロシアの昔話を原語で読み、それを、ふさわしい簡明な言葉で語れるだけのロシア語をまなぼうと決心した」

そして、つづけてこう書いている。
「私はロシアの昔話に出会って、これこそ私が書きたいと思っていた物語の素材になると思っただけでなく、個人的なごたごたからの脱出口になると考えた」
「私は、ほかのだれとも結婚したいとは思っていなかった。私はただ、今の結婚を終わらせたいとねがっていただけだった。ロシア行きは、一つだけでなくもっと多くの問題解決のいとぐちになるように思えた」
 
ランサムは、「逃亡先が、なぜロシアか?」について、次のような面白い論述を展開している。
「ダニエル・デフォーに、『月世界行き飛行機』というほとんど知られていない本がある。…これは月への旅の記録であり、真実味をつくりだすデフォーの技のみごとな実例である。
1705年当時、ロンドンのフリート・ストリートからまっすぐ月へ旅をしたと主張する旅人の物語など、だれも真に受けはしなかっただろう。
そこで、デフォーの創り出した旅人は外国へ行く。彼はドイツに行くのだが、1705年には、そこはすでに故国からはるかな土地であった。
ドイツから、ロシアへ行くが、ここは何がおこっても不思議はないと思えるところだった。ロシアから中国。ここまでくれば、中国から月への最後の旅は、イギリス人には、ほとんど道路を横切るくらいに思えるというわけである。
さて、私も、遠い点では、中国をえらぶほうがよかったかもしれなかったが、逃亡の第一のとび石としては、ロシアで充分間に合うと思った。
当時は、ヨーロッパならほとんどどこへでも書類なしで行くことができたが、ロシアへ行くにはパスポートが必要だった。この事実だけでも追ってくる気をなくさせることができそうだった。
私はデフォー流に、ほんとうに少しずつ計画を進めて、コペンハーゲン行きの貨物船にのりこんだ。
船はスガーイエン岬をまわり、ゆっくりと霧のカテガット海峡を南下した。それは、1913年5月の最後の週のことで、デンマーク側から吹くそよ風が、ライラックの香りを運んできた」

こうしてランサムはロシア行きを決行するのだが、この逃避行が、彼をあの政治的活動の渦の中へといざなっていくわけである。

 

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