『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻一の六 信長桶狭間から戻ること、付大事になること

2025-02-09 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻一の六 信長桶狭間から戻ること、付大事になる

こと

 永禄三年(一五六0)五月十九日午後、陽も傾き

かけると『飛び馬』から断片的な知らせが入ってく

るようになる。いわく「信長一行が桶狭間山に登っ

たまま戻ってこない」、いわく「信長一行は駿河の

今川義元の軍を沓掛方面へ押し戻し清洲へ帰る途中

である」、いわく「信長一行は桶狭間山に登ったが、

駿河勢に押し戻されほうほうの体で戻ってきたとこ

ろ」などなど。織田上総介信長本人の生存は確から

しく、丹羽五郎左衛門長秀も「何かの手違いで駿河

の太守今川治部少輔義元と交戦することになったら

しいが、生きて帰れるのは幸甚。信長が戻り次第今

後の三河地区の扱いをはやく決めねば。まずは鳴海

城に籠もる駿河の岡部五郎兵衛元信殿との打合せを

しなければ」と考えをめぐらし、心を落ち着けよう

とする。

 桶狭間から清洲まではおよそ五里半(約二十二

km)。半時(一時間)で三里(十一・六km)を

駈ける足早の馬であれば、戻ってくるまで一時(二

時間)もかからないだろう。が、これまでの信長の

性癖を見ていると、殿軍とまではいかなくても主力

部隊の最後尾を受け持って全軍撤退させるという

“危険な”性癖を持っている。まあ、それにしても一

時半では戻れるはず。あと少しで三郎が戻ってくる!

 清洲で信長の帰りを待つ長秀のもとへ、なにやら

『飛び馬』が予想外の知らせを持ち込み始めた。い

わく「信長一行は桶狭間山で今川義元の軍を打ち破

り人質多数」、いわく「信長一行は意気揚々と『勝

ち鬨の声』をあげて清洲へ到着」などなど。今回の

進軍を、あくまでも三河方面の領地問題が絡んだ小

さないさかいと考えていた長秀にとっては、「う、

ぐ、む。信長が治部少輔殿と交戦して打ち破った?

しかも勝ち鬨の声を上げて意気揚々と戻ってくる?

どういうことか?」と、理解できず頭が混乱する。

 東のほうへと流れていった雲に角度のうすい紅蓮

の陽光が鮮やかに照り映える夕刻、城門を開いて待

ち受ける長秀らの前に、主力部隊を率いた信長が馬

に乗りゆっくりと到着した。長秀は三郎の無事な姿

を見て一応はほっとしたが、何か言い知れない異様

な空気に一度身震いする。自分の経験から言えば、

この身震いが出たときにはかなりの大事(おおごと)

が起こっていることが多い。一団の中で信長だけが

兜をかぶっていない。「まずは殿のご無事何より。

兜は如何なされた?」長秀の問いに、いつもより上

気した顔色の信長が満面に笑みを浮かべ、持ってい

た刀で毛利新介を指し示す。そっ、その刀は確か治

部少輔義元殿所持と伝わる『左文字』の名刀ではな

いか!あっ、顔から肩にかけて血だらけの毛利が持

つ兜に乗っているのは、な、な、なんと義元殿の首

級ではないか!!

↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いします
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 巻一の五 清洲に入る知らせ... | トップ | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』」カテゴリの最新記事