『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻一の三 五郎左つらつら考えること

2025-01-19 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です。>

巻一の三 五郎左、つらつら考えること

 黒田城を出発して半時(一時間)ほどたったころ、

愛馬『二寸殿(にきどの)』にのった丹羽五郎左衛

門長秀は丁度尾張一宮のそばを通りかかる。ここで

ひとまず休憩することにして、和田定利が「上総介

信長殿へ」と手渡したみやげ物の中身をあらためる

と、はたして信長の大好物の『真桑瓜の塩漬け』が

入っている。美濃名産の手土産である。「こういう

心配りが一流と二流の差であろう」と感じ入り、

「自分が尊敬する他国の武将と会うときも、和田の

ようにみやげ物選びには力を入れよう」と自戒する。

二日酔いを治すため内緒で少しだけ『真桑瓜の塩漬

け』を頂いたが・・・

 さらに境内の湧き水を「ゴクリ」と飲み、頭をす

っきりさせて、これまでの尾張を取り巻く状況をつ

らつらと思い起こして見る。

*八年前の織田備後守信秀(信長の父)の死去と七

 年前の平手中務丞政秀(信長の教育係)の死は痛

 い!正直言って早すぎた!信長は父信秀から一国

 の経営の仕方を勉強中であったし、自分も他国と

 の取次ぎの仕方を政秀から勉強中であった。その

 ため、二人で話し合い「我流でもなんとか前に進

 まねば」と励ましあいながらやってきた。その意

 味では三年前に柴田権六勝家が織田信行(信長の

 舎弟)に愛想をつかして我が陣へ参加してくれた

 のは渡りに舟であった。何もわからない中で、人

 からは笑われたようだが軍(いくさ)の先例を学

 ぶために『源平盛衰記』を三人で必死に読み込ん

 だ。

*まず一番先に手がけたのは、周辺諸国の動向をい

 ち早く知るため、『草・鳥・風』の仕組みの確立

 であった。『草』というのは各地に定住する織田

 家の支援者のことである。信秀の時代から織田家

 信奉者は少なくなく、安祥・岡崎のあたりまでは

 『草』が植えてある。『鳥』というのは移動する

 織田家の支援者、例えば商人・僧侶などである。

 『風』というのは情報操作のことであり、嘘であ

 ろうが真実であろうが『鳥』を指定地域へ飛ばし

 『草』に広めてもらう。

*次に手がけたのは、我流では合ったが三人で考え

 出した『飛び馬(とびうま)』の仕組みである。

 『飛び馬』というのは、本城から最前線まで半時

 (一時間)の間に三回早馬を走らせる仕組みのこ

 とであり、こうしておけば、もし進軍中に本城と

 の補給路を断とうとした敵が出てきた場合に、即

 座に知らせが入り対応することができる。三人の

 中の誰がかけても国内の反乱分子を抑えることは

 できないきわどい情勢であったので、「とにかく

 自分たちの死ぬ可能性を低くする」必要があった。

 顔を洗いもう一度「ゴクリ」と水を飲むと、おお

 よそ頭の痛さはどこかに飛んでしまっている。

*まず美濃国の動向は、今回の和田定利との面談で

 見当がついた。現在の主君は斎藤義龍であるが、

 四年前の父斎藤道三殺害はさすがにやりすぎで、

 家内でもかなりの不協和音が響いているとのこと。

 尾張まで攻め込めるだけの余裕はない。

*信濃国の動向は、五年前武田晴信(のちの信玄)

 の軍が東美濃に侵攻してきたときは肝を冷したが、

 よくよく使いの者を遣り確かめたところ、「木材

 の供給だけでなく河川運輸の通行税も欲しい」と

 いうのが本音であった。ただ以前から国同士の関

 係は悪くないので、信長の子息御坊丸を養子にお

 くるところまで段取りを組んでおり急な動きは無

 いはず。

*駿河国の動向は、六年前の武田・北条・今川の同

 盟(善徳寺の会盟)が基本となっている。北条家

 はもともと今川家の家宰として忠誠を尽くした伊

 勢宗瑞(後の北条早雲)が初代であるところから、

 多少のいざこざがあっても今川・北条の関係が悪

 くなることはない。現在は北条家の関東での動き

 が活発なので、今川家も興味の中心は関東方面で

 ある。また家内の事情としては、『智謀神の如し』

 と国内外で評価の高かった太原雪斎が五年前に死

 に、中途半端な武将が我を張り自論を主張してい

 る状態なので、統一が取れていない。今川家とし

 ては余計な込み入った軍には巻きこまれたくない

 というのが本音らしい。

*尾張国内では、どうも武衛公(斯波義銀)が三河

 の吉良殿(義昭)・石橋殿と組んで、今川義元進

 軍の援護射撃をしようとしているらしいが、これ

 はわざと放置してある。今川軍と軍を構えるとき

 にどうしても守護としての武衛公からの指示とい

 う形が欲しいためである。

 ここまで頭を整理してみたが、やはり苦々しく思

われるのは三河の松平次郎三郎元康(のちの徳川家

康)の動きである。「あの男のせいで織田も今川も

要らぬ軍をせねばならぬ」と思うと、二日酔いのせ

いではない、精神的な吐き気がしてくるのであった。

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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