『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻一の五 清洲に入る知らせのこと

2025-02-02 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です。>

巻一の五 清洲に入る知らせのこと

 急に降り出した雨を旧守護所跡の下津(おりつ)

でしのぐ。黒田城行きは正式な訪問であったので、

衣装は直垂(ひたたれ)に風折烏帽子(かざおり

えぼし)の裾を短めにしたもの、腰には無銘であ

るが関の刀工に鍛えさせた業物を佩いていた。

「こんなりっぱな装束・刀が雨にぬれては大変な

修繕費用がかかる」と、雨が小ぶりになるまで愛

馬『二寸殿(にきどの)』といっしょに休みを取

る。

 今回尾張東部は柴田権六勝家の担当で、岩崎城

方面まで出て三河勢が乱入しないかどうか警戒し

ている。その柴田からの『飛び馬』も清洲からの

『飛び馬』も半時に一度に間延びしているが、

「どしゃ降りのせいであろう」と五郎左衛門はあ

まり気に留めない。

 雨が上がると「あっ、そうだった」と信長から

の言付けを思い出し、於多井(おだい)の川のた

もとに立ち寄る。そこには血のように赤い『しょ

うびの花(薔薇)』が今を盛りと咲き濡れている。

これは弘治二年(一五五六)名塚取手の戦いが終

わったあと、舎弟の勘十郎信行方との取次ぎを行

なっていた村井長門守貞勝・嶋田所之助秀順が

「地元の農家が神秘的な花を栽培している」と紹

介したとき以来、栽培は村井と嶋田の両名に担当

させ、育ちぐあいを信長と長秀が交互に観察する

ことにしていた。他の清洲の家臣のなかには「血

の色を思い起こさせ縁起でもない」というものも

いたが、当時信長が名乗ることにした「上総介」

は平家に因縁の深い名前であり平家は「赤旗」で

あるから、「悪くはない」と二人で『しょうびの

花』の育ちを見守ることにしたのであった。

 未の一点(十三時)と、ほぼ予定通りの時刻に

清洲に到着する。城内のものたちと、東部方面の

勝家・桶狭間の信長の情報をとりまとめると、桶

狭間からの『飛び馬』が一時(二時間)途絶えて

いるという。これは「『飛び馬』を清洲に送れな

いほどの火急の事態が生じている」ということで

あり、桶狭間方面での混乱を意味する。「三郎よ、

お前に今死なれては困る。尾張が滅びてしまう。

何でもいいから、とにかく生きて帰ってこい!」

と五郎左衛門は心から祈るのであった。

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

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