『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻一の二 五郎左黒田から清洲へ戻ること

2025-01-12 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です。>

巻一の二 五郎左、黒田から清洲へ戻ること

 美濃との国境近くにある尾張黒田城を内密に訪れ

ていた丹羽五郎左衛門長秀は、早朝卯の刻(六時ご

ろ)城主の和田新介定利に暇乞いをした。昨夜の酒

がかなり残っているのかまぶたがはれ上がっていた

ため、お互い目を見合わせて「ぷっ」と吹き出して

しまった。笑いを抑え、儀礼的に会釈した後、和田

の臣下が出しておいてくれた愛馬「二寸殿(にきど

の)」にまたがり、おおよそ六里(二十三km)離

れた清洲へと向かう。「二寸殿」も主人の頭の痛そ

うな顔色を見て、ゆるりゆるりとなるべくゆれない

ように進んでいく。木曽川からの生ぬるい風が背中

を押す。梅雨のこの季節に木曽川からこのような風

が吹けば、雨が降るのは確実だ。ただこの分であれ

ば、遅くとも未の刻(十三時ごろ)には清洲に戻れ

そうだ。

 本来ならば和田との談義を早々に終え、昨日の夜

には清洲へ戻り、信長に黒田城からの提案すなわち

「美濃との交易を見逃してくれれば前年攻陥された

岩倉城のような反抗はしないし、いずれは近江の兄

惟政とともに協力する」という交換条件を出された

ことを報告すべきところであった。が、話が一段落

して五郎左が席を立とうとしたとき、和田が昨年

(一五五九)信長一行が上洛したときの丹羽兵蔵の

手柄話のことを持ち出してきたので、遠い縁戚でも

ありまた五郎左が綿密に段取りして成功した上洛で

もあったので、ついつい席に座りなおし話がはずん

でしまったのであった。

 信長上洛の帰途、五郎左は丹羽兵蔵に、隠密に近

江国の佐々木六角義賢に会うように伝えておいたの

だが、これも信長の父信秀が義賢の父定頼と美濃で

の共同軍事行動を取った天文八年(一五三九)頃か

らの縁があったためであり、近江では非常な歓待を

受けたのであった。ちなみに信長が上洛して足利十

三代将軍義輝のもとへ参前できたのも、佐々木六角

義賢が仲介役となり一昨年(一五五八)三好長慶と

義輝を講和させ、義輝が京へ入れたからでもある。

 丹羽兵蔵が近江へ立ち寄ったとき、有力な取次ぎ

衆和田惟政と面会する機会があったが、惟政からは

「黒田城の弟定利は実直な男なので、上総介信長殿

の歩みが正しい限り必ずお役に立つであろう」とい

う確証を得ていた。今回五郎左が黒田城を訪れたの

も、ひとつは今川治部少輔が尾張へ向けて進軍する

ときに美濃の斎藤義龍がどう動くかを調査する目的

もあったが、もうひとつは和田定利が近江の兄惟政

がいうとおりのひとかどの人物かどうかを自ら確か

める目的もあった。その意味では今回の五郎左の黒

田城訪問は良い成果を挙げたといえる。互いに身の

丈六尺(百八十cm)を越す偉丈夫であり、謹厳実

直であり、しかも酒に強いという共通点が多く、腹

を割って、

・美濃の斎藤義龍の動き

・信濃の武田信玄の動き

・駿河今川義元の動き

・そして京都の義輝と長慶の動き

など、広範囲にわたり夜を徹して語り合ったのであ

った。

 辰の刻(七~九時ころ)痛い頭をさすりながら、

辰巳(南東)の方角を見ると低い雲が赤く染まって

いる。おそらく信長と打ち合わせた予定通り、丸根

要害の佐久間大学盛重と鷲津要害の織田玄蕃秀敏が

ひと軍してから撤退するところだろう。駿河の太守

と真正面からぶつかって勝てるわけが無い。とりあ

えず予定通り、黒末川から東は治部少輔に進呈し後

は後で考えよう。時に永禄三年(一五六0)五月十

九日午前のことであった。

↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いします
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へにほんブログ村
<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 巻一の一 物語開始のこと | トップ | 巻一の三 五郎左つらつら考... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』」カテゴリの最新記事