時間ができたら行ってみようと思っていた
『永青文庫』にやっと行く機会ができました。
2010年前半に上野の東京国立博物館で
開催された細川家の至宝展で、「実は
東京都内に細川家の財宝を常設している
場所があるらしい」と知り、チャンスを
うかがっていたものです。胸のドキドキが
おさえられません!(9月29日(木))
都電荒川線の終点“早稲田電停”で降りて
5~6分真直ぐ行くと「リーガロイヤルホテル」
がありまして、その対面の路地を左折。
100mくらい行くと「水神社(すいじんじゃ)」
があり、そこから急坂を100mほど登ると
『永青文庫』に到着です。
細川家が幕末に下屋敷としてこの地に
入り、その後昭和25年に南北朝から現代
に至る細川家代々の財宝を収蔵するため
『永青文庫』が設立されたそうです。
ご存知の通り館内は写真撮影禁止ですので
パンフレットをアップします。
足の弱い方は、JR目白駅から路線バスで
近くのバス停まで来て歩いた方が、負担が
かからなくていいかもしれません。
通常の収蔵品の中には、
*千利休作:竹一重切花入れ
とか
*国宝 金銀錯狩猟文鏡
などがあるそうです。
今回の展示でも
*国宝 太刀 銘 豊後国行平
*宮本武蔵の遺品多数
など、国宝・重要文化財・秘宝の数々が
平気で普通に置いてあって、あっ・・めまいが・・
リーフレットの細川家(和泉半国上守護家)
代々がわかる部分は勉強になります。
この『永青文庫』の現理事長が、
元熊本県知事、第79代内閣総理大臣の
細川護熙氏なのでした。また、めまいが・・
あ~、『静嘉堂文庫』でも耀変天目茶碗ほか
の国宝・重文が平然と置いてあったな~・・
非日常的な存在の展示品が平気でおいて
あるのを注視するのは大変なエネルギーを
使います!
**純野のつぶやき**
1)展示場の説明の一部に「信長から長岡
兵部大輔(藤孝)への書状59通を含む文書
『細川家文書―中世編―』が吉川弘文館
から出ている」とありましたので、すぐに
ネット発注し10月1日入手しました。
当ブログの連続読み物も信長公美濃平定
の手前で中断していますので、足利義昭
と細川藤孝の関係を描いていくための
「強力な援軍現る!」でございます。
読むのが楽しみ・・
2)展示品を見ながらつらつら考えました。
長岡兵部大輔(藤孝)が居城していた
長岡京の勝竜寺城では、京の七口の一つ
“丹波口”を管理していたはず。藤孝の
精密な情報網から見て、亀山から丹波口
近辺を通り本能寺を襲撃した明智光秀の
行動を、藤孝自身が仮に別の場所にいた
としても把握していなかったはずがない
のではないか・・という点が今後の連続読物
の焦点となりそうな気がしてきました!
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『永青文庫』にやっと行く機会ができました。
2010年前半に上野の東京国立博物館で
開催された細川家の至宝展で、「実は
東京都内に細川家の財宝を常設している
場所があるらしい」と知り、チャンスを
うかがっていたものです。胸のドキドキが
おさえられません!(9月29日(木))
都電荒川線の終点“早稲田電停”で降りて
5~6分真直ぐ行くと「リーガロイヤルホテル」
がありまして、その対面の路地を左折。
100mくらい行くと「水神社(すいじんじゃ)」
があり、そこから急坂を100mほど登ると
『永青文庫』に到着です。
細川家が幕末に下屋敷としてこの地に
入り、その後昭和25年に南北朝から現代
に至る細川家代々の財宝を収蔵するため
『永青文庫』が設立されたそうです。
ご存知の通り館内は写真撮影禁止ですので
パンフレットをアップします。
足の弱い方は、JR目白駅から路線バスで
近くのバス停まで来て歩いた方が、負担が
かからなくていいかもしれません。
通常の収蔵品の中には、
*千利休作:竹一重切花入れ
とか
*国宝 金銀錯狩猟文鏡
などがあるそうです。
今回の展示でも
*国宝 太刀 銘 豊後国行平
*宮本武蔵の遺品多数
など、国宝・重要文化財・秘宝の数々が
平気で普通に置いてあって、あっ・・めまいが・・
リーフレットの細川家(和泉半国上守護家)
代々がわかる部分は勉強になります。
この『永青文庫』の現理事長が、
元熊本県知事、第79代内閣総理大臣の
細川護熙氏なのでした。また、めまいが・・
あ~、『静嘉堂文庫』でも耀変天目茶碗ほか
の国宝・重文が平然と置いてあったな~・・
非日常的な存在の展示品が平気でおいて
あるのを注視するのは大変なエネルギーを
使います!
**純野のつぶやき**
1)展示場の説明の一部に「信長から長岡
兵部大輔(藤孝)への書状59通を含む文書
『細川家文書―中世編―』が吉川弘文館
から出ている」とありましたので、すぐに
ネット発注し10月1日入手しました。
当ブログの連続読み物も信長公美濃平定
の手前で中断していますので、足利義昭
と細川藤孝の関係を描いていくための
「強力な援軍現る!」でございます。
読むのが楽しみ・・
2)展示品を見ながらつらつら考えました。
長岡兵部大輔(藤孝)が居城していた
長岡京の勝竜寺城では、京の七口の一つ
“丹波口”を管理していたはず。藤孝の
精密な情報網から見て、亀山から丹波口
近辺を通り本能寺を襲撃した明智光秀の
行動を、藤孝自身が仮に別の場所にいた
としても把握していなかったはずがない
のではないか・・という点が今後の連続読物
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