<初出:2007年の再掲です>
巻一の九 岡部元信、義元の首を持ち戻ること
清洲城下での首実検が終わると、織田信長は「あ
とはよしなに」とだけ言い残して北やぐらの御座所
に『源平盛衰記』を携えて籠もる。軍と戦後処理で
疲れた体を休めるためである。
丹羽長秀のほうはといえば、休む暇もないほどの
実務が残っている。まずは、近国から集まってもら
った各宗派の僧侶に対し、供養の度合いに応じお布
施を渡す。当然そのときに「三河の誰ぞが軍の無作
法をした」ことを各地で言いふらしてもらうよう依
頼する。織田家は当時にしては珍しく現金決済が多
かったので、僧侶たちは「喜んで」各地に言いふら
すことになる。つぎに、軍のとき武具・防具の手配
で世話になった桑名・熱田・三河・知多などの商人
に、実費と手数料を支払う。これも近隣他国と異な
り軍の勝ち負けに関わらず約束した分は必ず現金決
済で支払っていたため、商人たちの信任を特に厚く
受けており、各地を回る商人たちの間で『織田の即
金』と評判になりつつあった。加えて言えば、現金
支払いの信用が高くなったために、織田家の発行す
る為替もほぼ割引無しで流通するほど信用が高かっ
た。
翌日の朝から、長秀はまた特に解決すべき面倒な
問題に取り掛かる。まずは鳴海城に籠もり実質上
「撤退できずにいる」岡部元信についての対応を決
める。これは、柴田権六勝家の配下が完全に鳴海城
を攻囲し岡部方も身動きとれない状況であるものの
城外に攻め出て討ち死にするかどうか二の足を踏ん
でいるという微妙な情勢であり、そこに長秀が「義
元殿の首を同朋衆とともに駿河へおくってはくれま
いか。当然人質も全て引き受けていただきたい」と
低姿勢で申し入れさせたものだから、元信も首を三
~四回とも思えるほど頷き、よだれをたらさんばか
りに即諾したのであった。
このときにも長秀は、大高城の松平元康(のちの
徳川家康)には『番五の使い』すら送らない。大高
城では松平元康以下三河衆が、「攻められもしなけ
れば攻め出ることもできない」という武士としては
まことに恥ずかしい状況にあった。このまま何もし
ないで撤退しては、生き恥をさらすようなものであ
る。歯ぎしりして悔しがるだけで人の撤退案を聞か
ない元康を家臣が叱り飛ばし、「ここは織田方に一
戦交えるべく『番五の使い』を送りますぞ!覚悟召
されよ!」と解決案を勝手に決める。おろおろする
だけの殿に代わり家臣団が武士としての威厳を保と
うとしたものである。こういう風に正式に「ひとい
くさを」と連絡されると、織田方もたてまえ上「総
大将の義元殿はすでに討ち取られたし、我等が主織
田信長も清洲に戻ってしまっている。これから軍を
起こす意味がないので早く引き取られよ」と答えざ
るを得ず、大高城勢はそれを『織田方からの撤退勧
告』と受け取り、正式な撤退の印としたのであった。
なんとも優柔不断な恥ずかしい大将ではある。
駿河勢への対応より面倒なのが『論功行賞』であ
る。討ち取った敵将の位によって褒賞の額が変わっ
てくるため、「あの武将は儂が討ち取った。いやあ
の武将はあやつは討ち取っていない」などと、皆自
分に有利な申し出をしてくる。戦国期には基本的に
『証人』(討ち取った現場を見たと証言してくれる
もの)がついていない功績は認められなかったので、
なるべく事前に『証人』として役立ちそうな仲間と
示し合わせておき、集団で敵に立ち向かうことにな
っている。「乱戦となり一人きりで切り込んで行っ
た時の功績はよくわからない」というわけである。
言いたい放題言ってくるものたちを前にして、十分
調べを入れ侍大将の意見も聞いて、誰が見ても文句
のない結論を出さなければならない。どろどろした
人間関係が絡む見るからに面倒な仕事であるが、こ
れは丹羽長秀が数年前から計数能力を見込み清洲城
の帳場の一部を任せていた木下藤吉郎がてきぱきと
対応したのでずいぶん助かった。「面倒な仕事でも、
あまりにもすんなりやる者はありがたみがわからな
い」というが、藤吉郎には「苦労はいとわず、苦労
と見せない」美意識があった。長秀から「なかなか
やりおるのう」とほめられてもしれっとしたもので
ある。足軽の息子であるという生い立ちのわりには、
背は低く体は貧弱で、「いくさ場で役に立たない」
という劣等感から、藤吉郎は「自分は人絡み・計数
絡みで生きていく」と心に決めた。長秀のもとで数
々の難事をさばく経験を積み、このすました姿勢が
自然と形作られたのであった。もうひとつ、藤吉郎
は黙々と仕事をし不平不満も言わず気がついたら多
大な成果を挙げる丹羽長秀を心から尊敬していたの
で、「尊敬する五郎左衛門殿の姿勢を真似したい」
という意味合いもあった。
そこにまたのこのことニヤニヤしながら信長があ
らわれる。大体において信長がニヤニヤしながら近
づいてくるときはよからぬ相談が多い。
「どうされました、殿」
「うむ、一つ頼みがある」
「何なりと」
長秀は露骨にいやな顔をしながらたてまえ上そう答
える。
「五郎左衛門と権六勝家がうまくやってくれたおか
げで駿河勢は自国に逃げ戻るのに必死で、また駿府
の今川氏真もすぐには動けないと思う」
「御意」
「すると今後は手を美濃の国に戻して、義父斎藤道
三殿の弔い合戦を行なうことが重要事となる」
「御意」
「そこでだ。わしとしてはこのたびの合戦で反乱を
起こしそうになった武衛公(斯波義銀)をこのまま
尾張でかくまうわけにはいかんと思う」
「そのとおり」
「できれば五郎左衛門よ、その方の黒田城の情報網
を用いて京都から『武衛公追放』の許可を取っては
くれまいか?」
「なるほど、それは道理。先日の打ち合わせでは、
未だ足利将軍義輝と三好一派の関係がうまくいって
いない様子」
「とすると将軍家へ取り次いでもらってもわけのわ
からないことになる可能性がある」
「そのとおり」
「う~む、どうするか・・・、うむそれならば、父
信秀の時代から山科言継殿にはお世話になっている
から、朝廷から帝に取り次いでもらうかのう」
「筋道としてはそれが一番わかりやすくて問題がな
さそうだ」
「わかった。ではよしなに頼む。貢納金はいくらで
も構わない。応仁の乱以降、朝廷も金には不自由し
ているだろうから」
といって、またニヤニヤしながら去ってゆく。
「ああ、それからもう一つ、三河の無作法者は絶対
に許すな!」
と振りかえって付け加える。
気がついたら『帝に取次ぎを行なう』などという
とてつもない用事を任されてしまった。「だから信
長のニヤケ顔は嫌いなのだ!」と思う反面、自然に
自分の調子に巻き込み、人にとてつもない大事をや
らせてしまう信長の話術の巧みさには舌を巻くので
あった。
織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人は無傷で生
き残った。それぞれ目の前の困難に真摯に取り組む
しかない状況であったが、三人の知らないうちに予
想だにしていなかった状況が発生した。桶狭間で今
川義元を討ち取ってしまったことは京都をはじめ周
辺各国の驚きであったが、それにもまして義元の首
をきちんと死化粧を施した上で岡部元信に持ち戻ら
せたことなど、「大うつけと聞いていたがなかなか
礼儀正しい武将ではないか」という評価が広まった。
また、戦後の商人への支払いや論功行賞についても、
「評価が的確で約束を守りしかもすべて現金決済で
支払ったそうだ」との評判が、尾張国内は当然のこ
と、朝廷をはじめとして京都から駿河に渡る広い地
域で定着した。首実検に招かれた後、宗派に関わり
なく各地に戻った僧侶がこの話を広めたことが大き
な意義を持つ。いわば宗教・朝廷・武家を含めた
『世間』を味方につけてしまったわけで、斎藤道三
の弔い合戦のため美濃を攻めるくらいしか考えてい
ない三人には、果てしない『天下への大道』が自分
たちの前に開けかけたことなど知る由もなかった。
逆にこの三人に疎まれた『三河の無作法者』には
『苦難への道』が開かれていた。
巻一終了
↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いします
にほんブログ村
<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
巻一の九 岡部元信、義元の首を持ち戻ること
清洲城下での首実検が終わると、織田信長は「あ
とはよしなに」とだけ言い残して北やぐらの御座所
に『源平盛衰記』を携えて籠もる。軍と戦後処理で
疲れた体を休めるためである。
丹羽長秀のほうはといえば、休む暇もないほどの
実務が残っている。まずは、近国から集まってもら
った各宗派の僧侶に対し、供養の度合いに応じお布
施を渡す。当然そのときに「三河の誰ぞが軍の無作
法をした」ことを各地で言いふらしてもらうよう依
頼する。織田家は当時にしては珍しく現金決済が多
かったので、僧侶たちは「喜んで」各地に言いふら
すことになる。つぎに、軍のとき武具・防具の手配
で世話になった桑名・熱田・三河・知多などの商人
に、実費と手数料を支払う。これも近隣他国と異な
り軍の勝ち負けに関わらず約束した分は必ず現金決
済で支払っていたため、商人たちの信任を特に厚く
受けており、各地を回る商人たちの間で『織田の即
金』と評判になりつつあった。加えて言えば、現金
支払いの信用が高くなったために、織田家の発行す
る為替もほぼ割引無しで流通するほど信用が高かっ
た。
翌日の朝から、長秀はまた特に解決すべき面倒な
問題に取り掛かる。まずは鳴海城に籠もり実質上
「撤退できずにいる」岡部元信についての対応を決
める。これは、柴田権六勝家の配下が完全に鳴海城
を攻囲し岡部方も身動きとれない状況であるものの
城外に攻め出て討ち死にするかどうか二の足を踏ん
でいるという微妙な情勢であり、そこに長秀が「義
元殿の首を同朋衆とともに駿河へおくってはくれま
いか。当然人質も全て引き受けていただきたい」と
低姿勢で申し入れさせたものだから、元信も首を三
~四回とも思えるほど頷き、よだれをたらさんばか
りに即諾したのであった。
このときにも長秀は、大高城の松平元康(のちの
徳川家康)には『番五の使い』すら送らない。大高
城では松平元康以下三河衆が、「攻められもしなけ
れば攻め出ることもできない」という武士としては
まことに恥ずかしい状況にあった。このまま何もし
ないで撤退しては、生き恥をさらすようなものであ
る。歯ぎしりして悔しがるだけで人の撤退案を聞か
ない元康を家臣が叱り飛ばし、「ここは織田方に一
戦交えるべく『番五の使い』を送りますぞ!覚悟召
されよ!」と解決案を勝手に決める。おろおろする
だけの殿に代わり家臣団が武士としての威厳を保と
うとしたものである。こういう風に正式に「ひとい
くさを」と連絡されると、織田方もたてまえ上「総
大将の義元殿はすでに討ち取られたし、我等が主織
田信長も清洲に戻ってしまっている。これから軍を
起こす意味がないので早く引き取られよ」と答えざ
るを得ず、大高城勢はそれを『織田方からの撤退勧
告』と受け取り、正式な撤退の印としたのであった。
なんとも優柔不断な恥ずかしい大将ではある。
駿河勢への対応より面倒なのが『論功行賞』であ
る。討ち取った敵将の位によって褒賞の額が変わっ
てくるため、「あの武将は儂が討ち取った。いやあ
の武将はあやつは討ち取っていない」などと、皆自
分に有利な申し出をしてくる。戦国期には基本的に
『証人』(討ち取った現場を見たと証言してくれる
もの)がついていない功績は認められなかったので、
なるべく事前に『証人』として役立ちそうな仲間と
示し合わせておき、集団で敵に立ち向かうことにな
っている。「乱戦となり一人きりで切り込んで行っ
た時の功績はよくわからない」というわけである。
言いたい放題言ってくるものたちを前にして、十分
調べを入れ侍大将の意見も聞いて、誰が見ても文句
のない結論を出さなければならない。どろどろした
人間関係が絡む見るからに面倒な仕事であるが、こ
れは丹羽長秀が数年前から計数能力を見込み清洲城
の帳場の一部を任せていた木下藤吉郎がてきぱきと
対応したのでずいぶん助かった。「面倒な仕事でも、
あまりにもすんなりやる者はありがたみがわからな
い」というが、藤吉郎には「苦労はいとわず、苦労
と見せない」美意識があった。長秀から「なかなか
やりおるのう」とほめられてもしれっとしたもので
ある。足軽の息子であるという生い立ちのわりには、
背は低く体は貧弱で、「いくさ場で役に立たない」
という劣等感から、藤吉郎は「自分は人絡み・計数
絡みで生きていく」と心に決めた。長秀のもとで数
々の難事をさばく経験を積み、このすました姿勢が
自然と形作られたのであった。もうひとつ、藤吉郎
は黙々と仕事をし不平不満も言わず気がついたら多
大な成果を挙げる丹羽長秀を心から尊敬していたの
で、「尊敬する五郎左衛門殿の姿勢を真似したい」
という意味合いもあった。
そこにまたのこのことニヤニヤしながら信長があ
らわれる。大体において信長がニヤニヤしながら近
づいてくるときはよからぬ相談が多い。
「どうされました、殿」
「うむ、一つ頼みがある」
「何なりと」
長秀は露骨にいやな顔をしながらたてまえ上そう答
える。
「五郎左衛門と権六勝家がうまくやってくれたおか
げで駿河勢は自国に逃げ戻るのに必死で、また駿府
の今川氏真もすぐには動けないと思う」
「御意」
「すると今後は手を美濃の国に戻して、義父斎藤道
三殿の弔い合戦を行なうことが重要事となる」
「御意」
「そこでだ。わしとしてはこのたびの合戦で反乱を
起こしそうになった武衛公(斯波義銀)をこのまま
尾張でかくまうわけにはいかんと思う」
「そのとおり」
「できれば五郎左衛門よ、その方の黒田城の情報網
を用いて京都から『武衛公追放』の許可を取っては
くれまいか?」
「なるほど、それは道理。先日の打ち合わせでは、
未だ足利将軍義輝と三好一派の関係がうまくいって
いない様子」
「とすると将軍家へ取り次いでもらってもわけのわ
からないことになる可能性がある」
「そのとおり」
「う~む、どうするか・・・、うむそれならば、父
信秀の時代から山科言継殿にはお世話になっている
から、朝廷から帝に取り次いでもらうかのう」
「筋道としてはそれが一番わかりやすくて問題がな
さそうだ」
「わかった。ではよしなに頼む。貢納金はいくらで
も構わない。応仁の乱以降、朝廷も金には不自由し
ているだろうから」
といって、またニヤニヤしながら去ってゆく。
「ああ、それからもう一つ、三河の無作法者は絶対
に許すな!」
と振りかえって付け加える。
気がついたら『帝に取次ぎを行なう』などという
とてつもない用事を任されてしまった。「だから信
長のニヤケ顔は嫌いなのだ!」と思う反面、自然に
自分の調子に巻き込み、人にとてつもない大事をや
らせてしまう信長の話術の巧みさには舌を巻くので
あった。
織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人は無傷で生
き残った。それぞれ目の前の困難に真摯に取り組む
しかない状況であったが、三人の知らないうちに予
想だにしていなかった状況が発生した。桶狭間で今
川義元を討ち取ってしまったことは京都をはじめ周
辺各国の驚きであったが、それにもまして義元の首
をきちんと死化粧を施した上で岡部元信に持ち戻ら
せたことなど、「大うつけと聞いていたがなかなか
礼儀正しい武将ではないか」という評価が広まった。
また、戦後の商人への支払いや論功行賞についても、
「評価が的確で約束を守りしかもすべて現金決済で
支払ったそうだ」との評判が、尾張国内は当然のこ
と、朝廷をはじめとして京都から駿河に渡る広い地
域で定着した。首実検に招かれた後、宗派に関わり
なく各地に戻った僧侶がこの話を広めたことが大き
な意義を持つ。いわば宗教・朝廷・武家を含めた
『世間』を味方につけてしまったわけで、斎藤道三
の弔い合戦のため美濃を攻めるくらいしか考えてい
ない三人には、果てしない『天下への大道』が自分
たちの前に開けかけたことなど知る由もなかった。
逆にこの三人に疎まれた『三河の無作法者』には
『苦難への道』が開かれていた。
巻一終了
↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いします
<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>