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コンサートの感想などを書き連ねます。

紀尾井室内管弦楽団第137回定期(11月17日)

2023年11月18日 | コンサート
コロナ禍で一旦中止になったオッタービオ・ダントーネと紀尾井のアンサンブルの共演が実現した。勿論夫人でコントラルトのデルフィーヌ・ガルーを伴ってのことである。まずはヘンデルの歌劇「アルチーナ」序曲、サラバンド、ガヴォットⅡ、それにアリア「復習したいのです」で始まり、歌劇「ジュリーオ・チェザーレ」よりアリア「花吹く心地よい草原で」、歌劇「リナルド」よりアリア「風よ、暴風よ、貸したまえ」と続いた。さぞかし尖った演奏なのだろうと思っていたが、紀尾井のアンサンブルが穏やかに受け止めてか、とても居心地の良い古楽の響きに驚いた。細かなパッセージでも一糸乱れぬ弦にニュアンス豊かな木管は紀尾井の強みだ。一方ガルーの歌唱は声量こそあまりないが、自在に喉を駆使して見事なアジリタを聞かせた。響きが今ひとつ抜けきらない感もあったが、伴奏はそれを上手くカバーした。続くステージは同時代のナポリ派の作曲家ポルポラのピアノ協奏曲ト長調。この曲は元来チェロのための協奏曲なのだがダントーネが鍵盤楽器のために編曲し、今回はダントーネがピアノで独奏をした。古典派を通り越してロマン派的な響きを聞かせた編曲が面白かった。休憩を挟んで次のステージはヴィヴァルディだ。まず歌劇「テンペのドリッラ」からシンフォニア、歌劇「救われたアンドロメダ」からアリア「太陽はしばしば」、歌劇「狂えるオルランド」よりアリア「真っ暗の深淵の世界に」、そしてガラッとかわってグルックの歌劇「パーリデとエレーナ」よりアリア「甘い恋の美しい面影が」。後半になるとガルーの声は少し前へ届くようになってはきたが、そもそも小さな空間で歌われるべきものなのだろうから、無理のない響きで丁寧に技法を尽くすというスタイルがそもそも音符に合っていうようにも思われた。そして日頃まったく接することのないバロック・オペラの四人の音楽家を一つの舞台に並べて聞くうちに其々の個性が明確に聞き取れて実に楽しい時間が過ぎていった。ここでいい忘れてはいけないのは「狂えるオルランド」のアリアでのコンマス玉井菜採のオブリガード・バイオリンの見事さだ。ガルーと同じ感性をもってピタリと寄り添う音楽にガルーの歌唱ともども惚れ惚れした。そして最後は実に逞しいハイドンの交響曲第81番ト長調で結ばれた。古楽スタイルであるのに決してエキセントリックにならない骨太の音楽に、このスタイルの成熟を聞いた。ここで終わりかと思ったら鳴り止まぬ拍手にダンドーネがついに夫人を帯同して現れてアリアのアンコール二曲。ガルーの技にアジリタの悦楽を味わった一夜だった。

東響第716回定期(11月11日)

2023年11月12日 | コンサート
音楽監督ジョナサン・ノットとドイツの正統派ピアニスト、ゲルハルト・オピッツとの共演によるベートーヴェン・プログラムだ。この二人の共演は一昨年12月のブラームスの2番以来となる。ノットにしてはリゲティがない素直なプログラムで、いささか拍子抜けの感もある。一曲目はピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19。何の衒いもなく弾き進むオピッツのピアノではあるが、その音色は極めて美しくとりわけ二楽章終盤のピアニッシモの美しさには耳をそばだてた。そこから終楽章へ入ってゆく微妙な間合いが私的にはこの演奏のハイライトだった。しかしやはり何となく物足りない印象を残したのは曲のせいか、はたまた演奏のせいか。続く交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」は快速調で始まったが決してセッカチな感じがなかったのは、抑揚のタップリとある歌い回しのせいであろう。とりわけ一楽章のレガートを多様した滑らかな仕上がりに続く二楽章との心的連続性が感じられ、「絵画的というよりは、むしろ感情の表出」という作曲者の言葉をあらためてかみしめた。二楽章ではニュアンス豊かな木管群が多くの聞かせどころを作ったし、美しい音色とニュアンスを聞かせたホルンも讃えたい。全体にビブラートを抑えた極めてスッキリとした仕上がりの中に十分な滋味と精神的高揚を感じさせるノットらしい佳演だったといって良いだろう。

東響第135回オペラシティーシリーズ(10月21日)

2023年10月22日 | コンサート
音楽監督ジョナサン・ノットの指揮するブルックナーの交響曲第1番ハ短調を中心とするマチネーだ。ちなみに音楽監督就任2014年の3番以来、これでノット+東響はブルックナーの交響曲(1番〜9番)を、全部演奏したことになる。日頃選曲の妙を楽しませてくれるノットだが、今回も今年生誕100年を迎えたリゲティの「ハンガリアン・ロック」(オルガン独奏版)とベリオの「声(フォーク・ソングII)」との興味深い組み合わせだ。会場のタケミツメモリアル・ホールに入り舞台上に目をやると、そこには日頃のオケ配置と全く違う光景があった。更に正面オルガン側にも、2階バルコニー席のいくつかにも譜面台が置かれているではないか。何か面白い事が起こる予兆を感じた。一曲目はオルガン独奏と書かれているのにオケの団員達も入場し席に着く。この時点で最初の二曲はアタッカで演奏されるのだなと予想した。ノットと共にオルガン席にモンドリアン風(コンポジション)のポップな出立の大木麻理が登場しオルガンにスポットライトが当たりリゲティが開始された。左手が9分の8拍子のフレーズを延々と繰り返す中、右手のメロディの拍子は刻々変わってそのズレが面白い数分の曲だ。元々チェンバロのために書かれた曲だが、今回はオルガンの使用で色彩感が出た妙技だった。ここで予想に反して拍手が出てしまったが、それがなければ雰囲気としてスムーズにベリオのビオラ独奏に繋がっていっただろうに。一方ベリオの方はビオラ独奏にディミトリ・ムラトを迎えた協奏曲風の作りで独奏がシチリア民謡を歌うのだが、それはもう千変万化に変容して原型を全く留めず、様々な打楽器や電子オルガン、チェレスタまで使ったオケの響きの中を浮遊するように出たり入ったり。たまに伝統的なメロディが浮き上がり懐かしさが心をくすぐる。そんなこんなの試みとしては面白い音響空間ではあったが、30分はいささか冗長だった。ムラトの美音は何か他の曲で聴きたい気がした。そしてメインのブルックナーだが、今回はノヴァーク校訂によるリンツ稿を使用した演奏だった。出だしから気力十分のノットと東響は実に豪快に鳴った。しかしそうなると荒削りの若書きの筆致がクローズアップされて響く。それがこの曲の価値と言えば価値だし、これから交響曲の海に船出するブルックナーの心意気はそこに十分に感じられはしたが、一方で「ベートーヴェンの1番は時代的に聴いてもっと革新的だったよな」なんてことを考えながら聴いた。つまり素直に感動はできなかったというのが正直な感想だ。とは言え終演後の大歓声はこれまでのノットのブルックナーで一番だったのではないだろうか。

東京シティ・フィル第364回定期(10月4日)

2023年10月05日 | コンサート
去る8月に急逝した桂冠名誉指揮者飯守泰次郎が指揮する予定であった演奏会であるが、常任指揮者高関健が代わって指揮台に登ることになった。曲目はワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」序曲、楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、そしてブルックナーの交響曲第9番ニ短調という、故人を偲ぶには誠に相応しいラインナップに変更された。高関はプレトークで、故マエストロを慕い追従するというのではなく、その基礎の上に新たな自分たちの音楽を築いてゆきたいと語ったが、その心意気を切々と感じさせる当夜の演奏であった。明晰な音感で開始された「オランダ人」序曲は最後まで透明感に満ちた音色で奏された。それは嘗て話題になったこともあるブーレーズ+ニューヨークフィルの音盤を思い起こさせた。そこに流れたのは飯守独特の溜めのある流れから生まれるウネリとは別次元の音楽で、正直言って飯守のワーグナー節に慣れ親しんだ私にとってはいささか物足りないものでもあった。続いては飯守とはワーグナーでも共演歴のある日本が誇るワーグナー歌い池田香織が登場して、「トリスタン」の”前奏曲と愛の死”だ。高関の紡ぎ出す透明な音感はここでも変わらないが、それがクッキリと音の綾を紡ぎ出し、この曲では最大の効果をあげた。指揮台の傍らで座位のまま歌い出した池田は、音楽の高揚とともに立ち上がり、その歌唱は壮絶を極めた。クリスタルのような輝きをもった歌声は決して嫋々とではなく、意志の力をもってイゾルデのトリスタンに寄せる憧憬の念を表現して聞かせた。それはトリスタンならぬワーグナーへの愛をその歌唱の師匠でもあったであろう故マエストロに示すがごとくのステージだった。聴衆の大声援を受けつつ、最後に天を仰いで上方を指し示した姿は、その見事な歌唱を天から見守り支え、その歌唱を導いたマエストロを心から感じた瞬間だったのだろう。休憩を挟んでのブルックナーは、このところ絶好調のシティ・フィルの機能性を十全に現した堅固さが際立った演奏だった。そして、ここでも透明で細部を明快にあぶり出す方向性は変わらない。まさにこれが飯守の築いた基礎の上に今このコンビが目指している新たな方向性なのだと思った。こうした機会にそれを十分に表現できたことは、この楽団と深い絆で繋がれていた故マエストロへの最大のはな向けになったに違いない。

紀尾井ホール室内管第136回定期(9月22日)

2023年09月23日 | コンサート
秋のシーズン幕開けは首席指揮者トレヴァー・ピノックを迎えたオール・メンデルスゾーンのプログラムだ。この作曲家は総数750もの作品を生み出したそうだが、そのうち宗教曲が90作品にも及ぶという。しかしそんな宗教曲を我々がコンサートで聞ける機会は意外と少ないのではないだろうか。そした意味で今回はとても貴重な機会だった。どれも主を賛美する内容で統一されており、私自身はキリスト教者ではないのだが、とても満たされた豊かな心持ちになって帰途についた。前半はオラトリオ「聖パウロ」の序曲、それに続いて独唱つきの合唱曲詩篇第42番《鹿が谷の水を慕うがごとく》だった。ピノックの指揮は明快にして良く歌い豊かな感情を紡ぎ出す。ソプラノのラウリーナ・ベンジューナイテの美しくリリカルな歌声が心に染みた。そして新国立劇場合唱団の清澄さと力強さを併せ持った歌声は世界に誇れる出来だった。休憩を挟んではメインの交響的カンタータ(交響曲第2番)《讃歌》変ロ長調。下世話な例えではあるが、「♪箱根の山は天下の剣」のようなメロディで始まるこの曲は個人的にはどうも理解が及ばないところがあったのだが、今回はその神髄を理解できた思いがする。それと言うのも明快にして主を讃える感情を一杯に湛えたオケと独唱と合唱が三位一体となった見事な共同作業の成果であったといって良いだろう。テノールのマウロ・ぺーターはとりわけ後半のエヴァンゲリトを思わせる歌(語り)が見事だったし、代演の澤江衣里もベンジューナイテに対峙して二重唱で実力を発揮した。そして全体を通して、アントン・パラホフスキー率いるこの日の紀尾井は、第二バイオリンのトップにもう一人のコンマスである千々岩英一を据えて万全の体制で臨み、その深く確固たる自信に満ちた生命感に溢れた音楽はヨーロッパを思わせる響きで感動を誘った。黒い僧服のような出で立ちで神への讃歌を紡ぎ出すピノックの姿は、あたかも神に祈りを捧げる牧師を思わせた。


東京シティ・フィル第74回ティアラこうとう定期(9月9日)

2023年09月10日 | コンサート
「かてぃん」こと角野隼斗が登場するということで、発売後間もなく全席売り切れになったプレミアム演奏会だ。だから会場に着くと、いつもは地元ファンが集まるのんびりした雰囲気の土曜午後のティアラこうとうが、殺気だった異様な雰囲気に満ちていたのには驚いた。指揮は、「モーツアルトが向いている」と角野に選曲アドヴァイスをしたという首席客演指揮者の藤岡幸夫だ。最初に先日逝去されたこのオケの桂冠名誉指揮者飯守泰次郎氏を偲んでバッハの「エアー」が献奏された。指揮台を見つつ、亡きマエストロの立ち姿を思い出しながら聴いた。そして一曲目はヴェルディ作曲歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲。藤岡は来年の定期でも一曲目にロッシーニの歌劇「ラ・チェレントラ」序曲を据えているので、なにかイタリア歌劇に思うところがあるのだろうかと勘繰ったのだが、特別なことはない演奏。快速調でおもいっきり鳴らしたヴェルディで、私にはどこかオペラの世界とはかけ離れて聞こえた。そして期待の角野が登場してモーツアルトのピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」。出だしからポロポロとオケに合わせて指慣らし。というよりも音が鳴りだしたらピアノを弾かずにはいられないという感じだ。透明な粒立ちの良い美音はある意味モーツアルトにピッタリで、ピアノと戯れるその姿に作曲者の姿が二重写になった。カデンツも独特の「かてぃん流」なのだが、決して「クラシック」の範囲を踏み外さないあたりが、ジャズに行ってまたクラシックに戻ってくる「小曽根流」とは趣が異なる。これは実に楽しい30分だった。盛大な拍手にアンコールは、最初のフレーズに「キラキラ星変奏曲」かなと思ったら、これも角野流の変奏曲となって、こちらはグランド・マナーのロマン派の世界にまで飛んでいってとても面白かったが、追っかけファンのスタンディングオベーションはいささか異次元の世界だった。最後は藤岡のセレクションによるプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」組曲。全曲から9つのシーンが選ばれた。こちらも一曲目と共通するようなシティ・フィルの機能性を全面に出した骨太で豪快な演奏だった。

東京シティ・フィル第363回定期(9月1日)

2023年09月02日 | コンサート
東京シティ・フィルのオータムシーズン開幕は、常任指揮者の高関健によるジェルジ・リゲティ生誕100年に寄せたハンガリー・プログラム。まずはこの8月15日に突然逝去されたこの楽団の桂冠名誉指揮者飯守泰次郎氏を悼んで、故マエストロが敬愛しそのスペシャリストと讃えられたワーグナーから、楽劇「ローエングリン」第一幕への前奏曲が奏された。指揮台で振るのは高関さんなのだが、脳裏には飯守さんのあの決して器用ではない独特の指揮振りと、そこから湧き出たワーグナーのイディオム一杯の音楽が蘇っていた。そして一曲目はリゲティの「ルーマニア協奏曲」だ。民族的な曲想を一杯にあしらった佳作で、どこかメインのオケ・コンと似た響きも聞き取れる。こんな判りやすく親しみやすい曲がリゲティにあるなんて知らなかった。二曲目はこの楽団の客演コンサートマスター新井英治を迎えて同じくリゲティのバイオリン協奏曲。比較的小編成で弦は5部だが極端に少ない。オカリナやらリコーダーやらスワニーホイッスル等々、多種の珍しい楽器が随所で使われる。特段な新規(奇異)な演奏上の趣向はなく、伝統的な「前奏曲」+「アリア」+「間奏曲」+「パッサカリア」+「アパッショナート」の五楽章形式だ。各楽器が色んなところで勝手なこと(リズムも調性も)をやっていると思うと、そのうちに揃ってきて、そうかと思うと超絶技巧のソロが自分を主張し始めるというような不可思議な時間経過と響きの多彩さがとても興味を引いた。そんな複雑な曲をソロもオケも実に鮮やかに弾き切ったが、とりわけ終楽章フィナーレにある新井のカデンツは凄かった。終演後は盛大な拍手が送られてリゲティと演奏者を讃えた。メインに置かれたのはバルトークの「管弦楽のための協奏曲」。プレトークで高関が今回は新しい校訂譜を使用したので音の違いに気づくかもしれないと言っていたが、残念ながら私の耳では判別がつかなかった。それは別として、安定感と明晰さとスリリングさ全てが同居した名演で、このところ調子を上げているこのコンビの現在が見事に映し出されたと言っていいだろう。この曲自体がパートソロが頻出するので、演奏するオケの機能性を映し出さずにはおかないが、弦のアンサンブルと強靭な音色、ニュアンス豊かな木管、強力な金管、切れ味抜群の打楽器、すべてが演奏に奉仕して美しく爽快なバルトークに仕上がっていて、聞き終わって「名曲だな」と、曲の良さをつくづく感じさせてくれた。

第43回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル (8月26日〜30日)

2023年08月31日 | コンサート
毎年恒例になっている晩夏の草津にやってきた。もちろんフェスティバルの一環として草津音楽の森コンサートホールで開催されるコンサートを聴くためである。今年はその終盤の4つの音楽会とアカデミーの優秀な生徒達によるスチューデント・コンサートを楽しく聴いた。まず26日はドヴォルジャークの弦楽六重奏イ長調、スラブ舞曲作品46-1&8と作品72-2(作曲者による四手連弾版)、ブラームスの弦楽六重奏曲第一番というプログラムだ。ここではショロモ・ミンツ(初参加)、高木和弘、般若佳子、吉田有希子、タマーシュ・ヴァルガ、大友肇らの名手によるブラームスの集中力の高い緊密なアンサンブルの演奏がとても素晴らしかった。ブルーノ・カニーノと岡田博美による迫力満点の連弾が二つの弦楽六重奏曲の間にアクセントを添えた。27日は「室内楽の神髄」と題されたプログラムで、ルードルフ太公のクラリネットとチェロの為の「ラルゲット」、その師匠ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「太公」、スメタナの「モルダウ」(カーン=アルヴェルトによるピアノ版)とピアノ三重奏曲ト短調というプログラム。ルードルフ太公はベートーヴェンのパトロンでピアノ三重奏曲等多くの曲を献呈した相手としても有名だが、彼は音楽も嗜みベートーヴェンを師としたと歴史書では知っていたものの、その作品を生で聴ける機会は貴重だった。しかしこの日の圧巻はやはり悲壮な雰囲気に貫かれたスメタナのピアノ三重奏曲であったろう。それはクリストファー・ヒンターフーバー、カリーン・アダム、タマーシュ・ヴァルガらウイーン勢による渾身の演奏だった。その前にヒンターフーバーは超絶技巧の極みと言ってよいであろうピアノ版「モルダウ」を鮮やかに弾き切った。28日はとても多彩なプログラムで、カリーン・アダムスと般若佳子によるマルティヌーのヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲第二番、データー・フルーリー、カリーン・アダムスと高橋アキによるフルートとバイオリンのためのソナタ、高橋アキのピアノ独奏による一柳慧の「限りなき湧水」+「雲の表情I」と武満徹(西村朗編曲)の「さようなら」、若木麻有、大木雅人、四戸世紀、高子由佳、水谷上総、酒井由佳、蛯澤亮、上間善之、村中美菜ら管楽器9名によるF.クロンマーのパルティータ変ロ長調作品78、そして最後はそれにチェロの大友肇とコントラバスの須崎昌枝を加えたドヴォルジャークの管楽セレナードニ長調作品44だった。この日はまずその交響曲群とは趣の異なるマルティヌーの多彩な作風が興味を引いた。そして万感の想いで弾かれた武満に涙し、ボヘミアの郷愁を漂わせつつ最後に生き生きとしたマーチが戻ってくるドヴォルザークのセレナーデに心が弾んだ。今回参加した本公演最後の29日は「パノハ弦楽四重奏団へ感謝を込めて」と題されたオール・ドヴォルジャーク・プログラムだった。1998年以来毎年この音楽祭にハウス・カルテットとして参加してくれていたパノハはメンバー一人の引退による解散のためにもう草津に来ない。「感謝」はそうした彼らの長年の貢献への感謝なのだ。最初にカリーン・アダムと高木和弘と吉田由紀子による「ミニアチュア」作品75、続いてカリーン・アダム、泉里沙、吉田由紀子、タマーシュ・ヴァルガという珍しい組み合わせによる弦楽四重奏曲「アメリカ」作品96、そして最後はピアノのヒンターフーバーにクワルテット・エクセルシオが加わって弦楽五重奏曲イ長調作品81。「アメリカ」はアダムが弦楽四重奏は初めてということでスリリングだった。一方ピアノ五重奏の方は白熱しながらも極めて高い完成度が示された名演だった。今回の最後は30日の朝から開始されたアカデミーの各クラスから選ばれた優秀生によるスチューデント・コンサートだった。今回は8名が成果を発表したが、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番(終楽章)を弾いた星野花(ミンツ・クラス)とシューマンの交響的練習曲(主題〜X)を弾いた今井梨緒(ヒンターフーバー・クラス)とサンサーンスのチェロ協奏曲第1番(1楽章)を弾いた上野玲(ヴァルガ・クラス)の3名に手納基金奨励賞が与えられた。個人的には沼津冬秋(インデアミューレ・クラス)によるモーツアルトのオーボエ協奏曲ハ長調(第1楽章)も天晴れと感じた。とは言え全員が良く弾いていた。この中から将来コンサートホールで出会える音楽家が出て来てくれることを楽しみに待ちたいものだ。

夏の休日、愉悦とロマンの夕べ(8月5日)

2023年08月06日 | コンサート
毎夏恒例のサマーミューザの出張公演が酷暑の中、新百合ヶ丘にあるテアトロ・リージオ・ショウワで開催された。登場したのは広上淳一指揮の東京交響楽団だ。選曲はオケの演奏会では誠に珍しいドリーブのバレエ組曲「コッペリア」、そしラフマニノフの交響曲第2番ホ短調。これらはタイトルである”愉悦とロマン”を見事に実感させるような暑さを吹き飛ばす楽しい演奏だった。まずコッペリア組曲は「マカリスター版」ということで、バレエ全曲の中から「導入とワルツ」、「前奏曲とマズルカ」、「バラードとスラヴの主題による変奏曲」、「人形のワルツとチャルダッシュ」の4曲が演奏されたが、それぞれの曲の持つリズムや雰囲気を独特の動きでピタリと振り分けるのはまさに広上の天性だ。時節がら首席欠員のパートも多いと見受けられる東響だったが、小林壱成の統率の下で実に躍動感に満ちたダイナミックな音楽を奏で、見事な仕上がりを示した。続くラフマニノフの交響曲第二番ホ短調は広上の得意曲で、これまでも日フィルや京都市響との録音がある。どちらかというと暗いスラブ的なイメージのあるこの曲だが、広上はむしろ純音楽的なアプローチでそれぞれの楽章を描き分け、歌に満ちたロマンを強く感じさせるこの曲の魅力を目一杯引き出した。ここでは東響の柔軟性が強く示され、広上のアプローチの特色が色濃く表現されたと言って良いだろう。

フェスタサマーミューザ川崎2023(7月22日)

2023年07月23日 | コンサート
毎夏恒例になった日本のオケの夏祭りだ。今年のオープニングはチャイコフスキーの交響曲二曲!それも何と3番と4番でジョナサン・ノット+東響だというのだから猛者のコンサートゴアーにとってさえも聴き物だ。東響にはお祭りとあって日頃見慣れない顔もちらほら散見されたが、なにせチャイコなのでニキティンのリードは心強い気がした。滅多に実演で聴く機会のない3番は五楽章構成の曲で、そのせいかどうかバレエ組曲でも聴いているような感じもした。演奏の方はノット臭を排した至って普通の仕上がり。そして4番のほうも取り立てて騒ぎ立てない、泣かない、所謂「ロシア色」を排したごく普通の演奏で、私のようなノット・ファンには独特の煽りさえも最小なので些か物足りなくも感じられた。言い方を変えればそれはスタイリッシュなチャイコフスキーだったとも言えるだろう。ただ決して悪い演奏ではなく、ある意味「チャイコ」とか「運命」とか言った言葉から連想される既成概念を覆した音楽が噴出したわけで、酷暑を払いのける涼風とも感じられる爽やかな音楽は「夏祭り」のスタートには絶好だったかもしれない。いつまでも続く大きな声援にノットのソロ・アンコールがあったが、ノットはこの舞台を最後に東響を去るトランペットの佐藤友紀主席も一緒に連れ出して会場は更に盛り上がった。

 東響第92回川崎定期(7月15日)

2023年07月16日 | コンサート
音楽監督ジョナサン・ノットと独奏に神尾真由子を迎えた重厚なプログラムだ。一曲目はエルガーのバイオリン協奏曲ロ短調作品61。この一年の間にこの決してポピュラーでない協奏曲を聞いたのはこれが何と三度目になる。昨年9月に竹澤恭子+高関健で、今年5月に三浦文彰+沖澤さやかで、そして今回だ。これは決して追っかけて聞いて回っている訳ではない偶然な巡り会いなのだ。更に偶然にも今年5月初旬の英国旅行に際して訪れた街がGreat Malvern。エルガーはこの隣町の生まれで、この街をとりまくMalvern Hillsはエルガー最愛の風景だったのだ。そんな訳で帰国後はエルガーに只ならぬ想いを深めているので、実に楽しみにして当日を迎えた。神尾は真っ向から曲に対峙して、超絶技巧を駆使し、肢体を一杯にくねらせて常に情熱的に音を紡いでゆく。ノットもそれに負けじとその激しい音楽に対峙する。確かに熱量の極めて高い凄い演奏だった。しかし、そうした音楽が50分近くも続くとさすがに辟易としてしまったというのが正直な感想だ。エルガーって、もう少し陰りがあっても良いと思う。とりわけミステリアスな書き込みのあるこの曲なのだから尚更である。そんな中で、2楽章終盤に聞こえてきた一瞬の密やかな音楽が珠玉のように思われた。休憩後はブラームスの交響曲第2番ニ長調作品73。それはノットなのだからさぞかしエッジの立った演奏になるだろうという予想を見事に覆す穏やかな音楽だった。常に穏やかに、楽しげにというのが今回の「テーマ」だったのではないかと思わせる程、指揮するノットは何時も微笑みを絶やさなかった。4曲の中では最も穏やかな曲調であるこの2番だが、それでも激しく厳しく響く部分がないではない。しかしそうした部分でも極力穏やかに円やかに表現しようとしていたように見えた。これは一つの解釈として立派であるが、最後の最後になっていつものノット調が少し顔をだしてしまったことはご愛嬌だった。二日目は「穏やか・円やか」がより徹底されて更に完成された演奏になりそうな気がする。今日はとりわけ上間主席の柔らかなホルンと竹山・荒・吉野の首席陣による木管アンサンブルの美しさが全体の雰囲気を引き立てていた。

紀尾井ホール室内管第135回定期(7月14日)

2023年07月14日 | コンサート
2020年に共演予定があったが、新型コロナ禍のために来演が延期されて今回になった待望の公演である。指揮のリチャード・ドネッティは、オーストラリア室内管弦楽団(ACO)をもう30年以上も率いて挑戦的な音楽を作り続けているバイオリニスト/指揮者である。その意気込みは現代曲2曲とウイーン古典派の大交響曲2曲を組み合わせた今回の選曲にもうかがうことができるだろう。まずは映画音楽の分野で多く作品を生み出しているポーランドの現代作曲家ヴォイチェフ・キラル(1932-2013)の「オラヴァ」だ。名称はポーランドの地方名で、この地方の民族音楽に由来すると言うことだが、ヴァイオリンが繰り返す音形が少しづつ変容しながら様々な形で広がったり纏ったりする10分余の佳作である。リズムに乱れが生じた瞬間もあったが、トネッティの自由奔放な音楽が大きくプラスに作用してとても面白く聴くことができた。ACOではチェロを除いて全員立奏なので、今回はKCOもそれに倣った。表現の自由度が大きくなったのはそのせいもあったのかも知れない。続いて200年時代を遡ってヨゼフ・ハイドンの交響曲第104番ニ長調「ロンドン」だ。ここでは管楽器も立奏でトネッティは前曲にひき続いての弾き振り。現代楽器を使用しているがビブラートは一切かけずストレートな弦で、管楽器とティンパニは強めのバランスだ。ここまでだと所謂古楽的奏法ということになるのだが、弦のアンサンブルが”革新的”なのだ。聞き合って纏めるというよりも其々が皆野放図に弾きまくるという感じに聞こえるのである。その結果極めて「開放的」な、悪い言い方をすれば「乱雑な」ハイドンになってしまって、私にとってはとても居心地の悪い30分だった。「ウイーン古典派」の固定観念があるからだと言われればそれまでだが、美しさがないのは困りものである。休憩を挟んで武満徹の「ノスタルジア〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」+J.S.バッハ「われ汝に呼ばわる、主イエスキリストよ」BWV639が通して演奏された。これは予想に反して実に面白かった。静的な音の間と色彩の綾を聴くのではなく、もっと動的でダイナミックな音の変化と力のぶつかり合いを武満から聞いたのは初めてだ。これは西洋人(非日本人)の感性だとつくづく思った。続いてアタッカでバッハのコラールを据えたのも酔眼だった。続き具合が心地よいのみならず、武満のタルコフスキーへの深い想いを更に増幅させた効果があった。そして最後はモーツアルトの交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551。ハイドンにガッカリしたのでどうなるかと思ったら、これが実に楽しかった。アンサンブルの作り方は基本的に変わらずで、互いに聞き合いながらあるところに調和してゆくというのではなく、弦楽奏者達を見ていると開放的に個々に存分に楽しみながら、しかし今回は齟齬が生じないような別種の”アンサンブル”が出来上がっているのである。更に演奏に絡む因習を捨ててゼロから曲を見直したといった感じで、新鮮なイントネーションがそこかしこから聞き取れる。その結果伸び伸びとした自由闊達な音楽が生まれるというわけだ。まさにドネッティ・マジックを聴いたということだろう。(ACOの現メンバーである後藤和子氏を今回のメンバーに加えるという徹底ぶりだ)これは手に汗握るほど湧々してとびきり楽しい時間だった。もしかしたらドネッティの自由奔放な音楽作りを受け入れられるか否かは、モーツアルトとハイドンの音楽の資質の違いなのかも知れないなとも思った次第。勉強になった。

東京シティ・フィル第362回定期(7月7日)

2023年07月08日 | コンサート
定期へは7年ぶりの登場になる重鎮秋山和慶を迎えてのロシア音楽プログラムだ。とは言いながら名曲揃いのそれではなく、当夜の選曲はシティ・フィルらしく実に凝ったものだった。まずスターターはリャードフ作曲の交響詩「キキモーラ」作品63。精細なオーケストレーションを秋山が見事に捌いた。82歳を超えて振りこそ往時よりだいぶ小さくなっているが、正確極まりない精緻な棒が威力を発揮した。続いて周防亮介をソロに迎えてプロコフィエフのバイオリン協奏曲第2番ト長調作品63。1678年製のアマティを駆使して構えの大きい図太さと繊細さを使い分けた見事なソロだ。約30分間ほぼ弾きっぱなしなのだが、決してフォルムが崩れることがないのは見事の一語に尽きる。それに寸分の狂いもなくピタリと付けるオケも超絶的な凄さだった。ソロ・アンコールは超絶技巧満載のシュニトケ作曲「ア・パガニーニ」の壮絶な演奏。これも凄いの一語に尽きた。そしてメインはスクリアービンの交響曲第4番「法悦の詩」作品54。名前は有名な割にオケのプログラムには滅多に乗らない曲だ。私自身も生では初めて聴いたのではないか。神秘和音を用いた怪しげな曲のようだが、名手秋山の手にかかると、すべての音符が見事に整理されて洗練を極めた曲になるから不思議だ。夢幻的・陶酔的な音楽を美しく響かせながら、最後はオルガンも加えて圧倒的なクライマックスを築いた。トランペットが随所で頂点を導き大活躍するが、首席欠員のところを副主席の阿部一樹が立派に役割を果たした。

バーミンガム市響(6月29日)

2023年06月30日 | コンサート
2016年にもこのオケを引き連れて来演している山田和樹だが、今回は首席指揮者/アーティスティック・アドヴァイザーとしての”凱旋公演”である。バーミンガムと言えばロンドンに次ぐ英国第2の都市なのだから、なかなか凄いポジションであることは確かだ。前任者にはラトルやネルソンズの名前があるところを見ると巨匠への登竜門かもしれない。さて、この日の曲目はピアノにチョ・ソンジンを迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21と、山田が熱望したというエルガーの交響曲第1番変イ長調作品55だ。まずショパンだが、2015年ショパン国際コンクール覇者のチョのピアノは繊細を極めた外連味のない率直な表現でとても好感の持てるものだった。それは巷で言われる「ショパン弾き」とは一線を隔する音楽だ。ただこの日のピアノ(スタインウエイ)の音はどこか冴えがなく、実力を発揮できていたかどうかは私には疑問だ。一方山田のサポートもそのピアノに対峙すべく微細を極め行き届いていた。更に凡ゆる声部のバランスが見事に整っていて表情づけも丁寧なので、ショパンのオーケストレーションの不満を感じる瞬間はひと時もなかった。アンコールは何とラヴェルの「道化師の朝の歌」だった。こんな曲を持ってくること自体、自分はショパン弾きではなく「ピアニスト」なんだと主張していることではないか。繊細さはもちろん、シャープな切れ味もある文句のない出来栄えなのだが、何故か私にはここでも色彩が感じられなかった。休憩を挟んでのエルガーは「お国もの」だけあって誠に共感に満ちた出来栄えだった。作曲者の生地であり、最愛の場所でもあったMalvernのなだらかな丘の続く風景が目にみえるような懐の深い豊かな音楽が続く50分。とりわけ深くウエットな叙情を湛えたアダージョから輝かしいフィナーレにかけての盛り上がりには心が躍った。決してヴィルティオーゾオケではないが、(だからこそ)このオケの音は実に親しみやすい雰囲気を持っている。それは山田とオケの現在の最良の関係を物語っているようで、聞いているこちら側にも幸福をもたらせてくれる時間だった。アンコールは音が厚いのでエルガーかなと思いつつ聞いていたのだが、HPで調べたらウオルトンの映画音楽「スピット・ファイヤー」から威勢の良い前奏曲だった。(譜面の赤い表紙には「前奏曲とフーガ」と書いてあった)これには会場は大盛り上がり。バイバイと奏者全員が観客に手を振って捌けた後に山田のソロ・アンコール一回でお開きになった。実に心楽しい良い時間だった。

東響第91回川崎定期(6月25日)

2023年06月26日 | コンサート
2020年に来日を予定をしながらコロナ禍で共演を果たせなかった俊英ミケーレ・マリオッティがついにやってきた。そしてピアノに萩原麻未を迎えたウイーン古典派・ロマン派の演奏会だ。スターターはモーツアルトの21番の協奏曲ハ長調K467。出だしからオーケストラはとても丁寧な音楽を作る。日頃日本のオケでは滅多に聞けないような弱音の緊張感と美しさが印象的だ。その深い音楽に乗せて萩原のソロは時に繊細、時に大胆なほどに力強く幅広いレンジの音を作ってゆく。だからロココの微笑み以上に奥行きの深い立派なハ短調協奏曲に仕上がった。アンコールは最初はBachの平均律かと思ったら、グノーの「アベ・マリア」がしっとりと奏でられ静謐な空気を会場にもたらしてくれた。そしてメインはシューベルトの交響曲第8番ハ長調D944。ここでもマリオッティの棒は丁寧。とりわけ強弱のニュアンスを豊かに引き出すのが大きな特徴だ。もちろんその棒に追従した東響の貢献は大きく、棒弾きをしないとこんなにニュアンス豊かな音楽が立ち上るものなのだと言うことを再認識した。そしてここぞという処では渾身の力が入る。しかしそれは決して粗くならずにあくまでも音楽的なのだ。そんな訳だから同じフレーズの繰り返しが多くて日頃冗長に感じる時もあるこの「ザ・グレート」だが、今回は飽きるところは一刻たりともなくシューベルトの世界にのめり込めた。特筆すべきは東響の木管アンサンブル(荒・Neveu・竹山・福士)の素晴らしさ。そして随所でアクセントを添える硬質なティンパニーも良かった。2019年にペーザロのピットで「セミラーミデ」を聞いて以来素晴らしい指揮者だと思っていたのだが、やはり間違いはなかったようだ。オケからも歓迎されている雰囲気だったので、是非また東響に来てほしいと思う。今度はブラームスの2番あたりを是非聴きたいものだ。