2020年に来日を予定をしながらコロナ禍で共演を果たせなかった俊英ミケーレ・マリオッティがついにやってきた。そしてピアノに萩原麻未を迎えたウイーン古典派・ロマン派の演奏会だ。スターターはモーツアルトの21番の協奏曲ハ長調K467。出だしからオーケストラはとても丁寧な音楽を作る。日頃日本のオケでは滅多に聞けないような弱音の緊張感と美しさが印象的だ。その深い音楽に乗せて萩原のソロは時に繊細、時に大胆なほどに力強く幅広いレンジの音を作ってゆく。だからロココの微笑み以上に奥行きの深い立派なハ短調協奏曲に仕上がった。アンコールは最初はBachの平均律かと思ったら、グノーの「アベ・マリア」がしっとりと奏でられ静謐な空気を会場にもたらしてくれた。そしてメインはシューベルトの交響曲第8番ハ長調D944。ここでもマリオッティの棒は丁寧。とりわけ強弱のニュアンスを豊かに引き出すのが大きな特徴だ。もちろんその棒に追従した東響の貢献は大きく、棒弾きをしないとこんなにニュアンス豊かな音楽が立ち上るものなのだと言うことを再認識した。そしてここぞという処では渾身の力が入る。しかしそれは決して粗くならずにあくまでも音楽的なのだ。そんな訳だから同じフレーズの繰り返しが多くて日頃冗長に感じる時もあるこの「ザ・グレート」だが、今回は飽きるところは一刻たりともなくシューベルトの世界にのめり込めた。特筆すべきは東響の木管アンサンブル(荒・Neveu・竹山・福士)の素晴らしさ。そして随所でアクセントを添える硬質なティンパニーも良かった。2019年にペーザロのピットで「セミラーミデ」を聞いて以来素晴らしい指揮者だと思っていたのだが、やはり間違いはなかったようだ。オケからも歓迎されている雰囲気だったので、是非また東響に来てほしいと思う。今度はブラームスの2番あたりを是非聴きたいものだ。
2003年から毎年この時期に東京で開催される恒例の「さくらんぼコンサート」、今回は今年ミュージック・パートナーに就任したチェコの名ホルン奏者にして指揮者のラデク・バボラークを迎えた彼のお国物を中心としたプログラムだ。まずはスメタナの交響詩「ブラニーク」。全6曲の連作交響詩「我が祖国」の終曲であるが、各曲の性格からして二曲ひと組と考えられる構成からこの一曲だけを抜き出すのは珍しい試みなのではないか。コンバス最大4本の小編成のオケを目一杯鳴らした演奏で、弦の厚みがない分金管や木管アンサンブルが強調され、強弱を丁寧につけた弦の表現と相まって、戦乱の後の勝利の凱歌という重厚さよりも、どちらかと言うと爽やかな気分が溢れる仕上がりとなった。とりわけ舞曲調の部分のドライブは本場感に溢れるものだった。続いては有名なモーツアルトのホルン協奏曲第3番変ホ長調と、それに続いてドニゼッティのホルン協奏曲ヘ長調という珍しい佳作。これはもう間違いなくバボラークの妙技を楽しませてくれる選曲だった。繊細で羽毛のように軽やかな弱音から逞しく輝かしい勇壮な強音まで、どこをとっても滑らかさを欠かさない文句のつけようのない音楽に只々聞き惚れるのみだった。そしてメインはドヴォルザークの交響曲第8番ト長調作品88。ここでも爽やかな気分は貫かれ、次から次へと湧き出るメロディを楽しんだ。盛大な拍手にアンコールはスラブ舞曲作品72-71。奏者達の気分的な盛り上がりもあってか、これはこの晩のオーケストラ・ピースでは一番の出来だった。
吉松隆の伝導師を自認する首席客演指揮者の藤岡幸夫が振る予定だった演奏会。しかし肺炎のため入院治療が必要ということで、急遽曲目変更なしで二人の代演者による公演となった。前半は常任指揮者の高関健が引き受けて、まずはシベリウスの「悲しきワルツ」作品44。これは弦のピアニッシモの美しさが秀でた佳演で、丁寧な高関の棒が作品の「影」を薄やかに映し出した。二曲目は俊英務川彗悟を迎えてグリークのピアノ協奏曲イ短調作品16。切れ味と恰幅の良さを同時に持った務川のピアニズムは「響」の美しさを際立たせ、決して暑苦しくないロマンティシズムがグリークの北欧調とベストマッチした。高関のサポートも万全で、とりわけ木管や見事なホルンとの絡みは印象的だった。盛大な拍手に、あたかも弾き足りないといった風情でソロ・アンコールはビゼー作曲=ホロヴィッツ編曲の「カルメン幻想曲」。超絶技巧を顔色一つ変えずに鮮やかに弾き切ったのには驚いた。休憩を挟んで、この日のメインは吉松隆の交響曲第3番作品75だ。指揮はこの楽団の指揮研究員を務める山上紘生。今回この曲の練習指揮を任されていたところでの抜擢だ。曲は4楽章構成で45分を要する大作。藤岡をして「黒沢明と大河ドラマとシベリウスとチャイコフスキーが全部ごっちゃになった感じ」と言わしめる極めてダイナミックな曲である。このエネルギーに満ちた曲を、山上は決して爆炎になることなく、節度をもってスタイリッシュに仕上げて満場の喝采を誘った。オケも全力で献身的に若き指揮者を支えた。終演後の舞台には作曲者も登壇し、若き才能のデビューを肩を抱いて讃えていた。
尾高忠明が珍しく都響に登場して、得意とするラフマニノフとエルガーを並べた演奏会だ。最初はラフマニノフの絵画的練習曲より第2曲《海とかもめ》作品39-2。今回はピアノ独奏曲をレスピーギが編曲したバージョンだ。静かな中にわずかな感情の昂りもある佳作で、レスピーギの手にかかると洗練された淡い色彩が美しい曲になった。続いてピアノ独奏にアンナ・ヴィニツカヤを迎えて「パガニーニの主題による狂詩曲」作品43。完璧なテクニックの美音で、いとも楽しげにこの難曲をサラリ弾く。オケも完璧に付くのでなんとも気持ちよさそうである。濃厚なロマンよりも爽やかな初夏の風を感じさせるような音楽だった。ソロアンコールは絵画的練習曲集 Op.33 より 第2番 ハ長調。そしてトリは気力十分で臨んだエルガーの交響曲第2番変ホ長調作品63だ。尾高は登場の足取りから気迫に満ちていて名演を予感させるものがあったが、日本人初のエルガー・メダルを英国エルガー協会から授与されているのだから悪いわけはない。とにかく尾高のエルガーに対する並々ならぬ共感がオーケストラに伝播し、実に感情豊かで格調高い(nobilmente)演奏が実現された。エドワード王朝の栄華と憧れの佳人(アリス)への憧憬的な思いがないまぜになった独特の風情を、豊麗かつ密やかに描き切ったオケも実に立派だった。大きな拍手を制して、「実は2ヶ月前に英国のあるオーケストラでこの曲をやったのですが、今日の方が上でした」と指揮者本人に言わしめた程の希代の名演だった。フライングのない実に気持ちの良い拍手と盛大なブラボーの飛ぶ中、最後は尾高一人で呼び出され声援に応えた。
*あるオーケストラとは、日程を勘案するとBBCウエールズ・ナショナル管らしい。
*あるオーケストラとは、日程を勘案するとBBCウエールズ・ナショナル管らしい。
音楽監督ジョナサン・ノットのマーラー交響曲シリーズ、今回は6番イ短調「悲劇的」である。前座として小埜寺美樹のピアノ独奏によるリゲティの「ムジカ・リチェルカーレ第2番」。これは三つの音だけで構成されているピアノ独奏のための小品であるが、今回はマーラーと休みなしで続けて演奏されたので、「前座」というよりも「導入」という意味があったのだろう。まず指揮者が指揮台に立つと舞台照明が落とされ、右奥にあるピアノにスポットライトが当たり独奏が始まる、そして4分程のそれが終わると全体照明に変わってマーラーの弦の刻みが始まるという次第である。この一連の音場設計に音楽的意味を感じ取れたかどうかは個人的には微妙なところだが、決して不自然とは感じなかった。しかしさりとて特段の意味が発見できたかというと、そういうわけでもないというのが正直なところである。しかしピアノだけの響きに耳を凝らすという導入の効果で、以降のマーラーの音響をも高度の集中で聞き進むことができたように自分には思われ、これにより今回は鑑賞上の収穫を得ることができたと思う。そして今回の6番の演奏であるが、それはノットとしては大人しい部類に属する。つまりノットの常である駆り立てたり、騒ぎ立てたりすることがなく、じっくりと腰を据えて曲に取り組んだという感じなのだ。これは「ノットの6番!」というイメージで臨んだ自分にとってはいささか意外なことであった。その半面、内声部というか、普段実演では目立たない音の綾が明快に聞き取れ、マーラーのオーケストレーションの見事さを今更ながらに感じることが出来た。有名なハンマーが合計5回も振り下ろされたのは、楽譜の版違いなのかどうか浅学の私には不明だが、その他にもトランペットも通常と違う音を吹いていた箇所があったように聞こえた。しかしそんなことよりも、純音楽的にマーラーの世界を描ききった今回の演奏に私は新しいノットの魅力を発見した。
ニキティン率いる東響の貢献も大きかった。とりわけ時には勇壮、時には夢見るようなホルンの響き(ソロ&トッティ)の多彩さに心打たれた。
ニキティン率いる東響の貢献も大きかった。とりわけ時には勇壮、時には夢見るようなホルンの響き(ソロ&トッティ)の多彩さに心打たれた。
昨年11月の「サロメ」に続くジョナサン・ノット+東京交響楽団によるリヒャルト・シュトラウスの演奏会形式オペラ公演第二弾である。その二日目にあたるサントリー・ホールでの公演を聴いた。外題役エレクトラにクリスティーン・ガーキ、その母クリテムネストラにハンナ・シュヴァルツ、弟オレストにジェームス・アトキンソン、妹クリソテミスにシネイド・キャンベル=ウオレス、母親の不倫相手エギストにフランク・ファン・アーケン、そして実力派日本人勢と二期会合唱団で脇を固めた超華版キャストだ。そしていつものように演出監修には歌手としての名演が懐かしいサー・トーマス・アレンがクレジットされていた。演奏の方は、とにかく東響音楽監督ノットのテンション高いドライブで一気呵成に駆け抜けた1時間40分という感じだった。出ずっぱりのガーキのスタミナにも感心したし、対するキャンベル=ウオレスも細身ではあるが充分な声量と表現力だった。そして声量こそないものの独特な表現でおおいに存在感を発揮したベテランのシュヴァルツ等、出番が多いだけに女声陣の健闘が目立っていたのはいたしかたないことだろう。脇役の日本勢の中では池田香織と田崎尚美の存在がとりわけ光っていた。ノットの指揮はどろどろとした復讐劇を描くというよりも、より純音楽的にスコアに対峙したといっても良いだろうか。だからとりわけ叙情的な部分(ほどんどないのだが)の美しさが際立った。全体に複雑なスコアに光を当ててあるべき響を求め、颯爽と振り抜いたという印象。それゆえ終演後は陰惨なドラマに疲労困憊するというよりも、爽やかな達成感さえ感じるものだった。そんな演奏を達成するのに120%の力を発揮した東響にも大きな拍手を送りたい。
この4月から京都市響の常任指揮者に就任した沖澤のどかが、一昨年の10月山田和樹代演に引続いて再度読響に登場した。1曲目はソリストに三浦文彰を迎え、エルガーのバイオリン協奏曲ロ短調作品61という大作だ。エルガーにしては明るめの音色で明快なメリハリで音を紡いでゆく沖澤に対して、三浦のストラディバリの音色は豊かで美しく技巧も申し分ないものの、今ひとつ曲に入り込めずに感情が音楽にのりきれていないように聞こえた。それゆえタダでさえ長い曲が更に冗長に感じられる結果になった。休憩を挟んでワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲とR.シュトラウスの「死と変容」作品24。この二つの曲が間を置かずに続けて演奏され、あたかも「死と変容」が「愛の死」と入れ替わったような具合だった。連結部分は調性的にも音色的にも不自然さを感じさせる所はなく、この二人の作曲家の個性を対照的に聴き比べることができたのはとても面白い経験だった。演奏の方は、前半エルガーと比較するとまるで水を得た魚のように生き生きとしたものだった。まさに本拠地をベルリンに置いて勉強している沖澤の面目躍如ということだ。惚れ惚れするような鮮やかで自信に満ちた振りでオケを統率し、そこから一部の隙もない音楽が生まれる。音響と構成の完璧なバランス、そして決して不自然さを感じさせない微妙な速度の揺れから生き生きした音楽が生まれる。そうした意味ではその手腕はもはや熟達の域に達していると言ってもよいくらいだ。そんな指揮に導かれた読響は、まるで日本のオケであることを忘れさせるように意味をもってブリリアントに鳴り渡り、激しい心の闘争とその後の安らぎを描き尽くした。
日本のゴールデンウイークに、ロンドンに次ぐ英国第二の都市バーミンガムを訪れたので、何かイベントは無いかなと前日に探していたら偶然に見つけたコンサートである。早速にウェブチケットを押さえて馳せ参じた。何とこの4月から首席指揮者兼芸術顧問となった山田和樹の指揮、そしてソロはベルリン・フィルのコンマス樫本大進である。まさに奇遇な出会いと言って良いだろう。街の中心、立派な公共図書館に隣接するシンフォニー・ホールという会場で開催された水曜日のマチネーである。曲目はブラームスのバイオリン協奏曲とリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェーラザード」という面白い組み合わせだ。(ブラームスは6月末の来日公演にも持って来ることになっているようだ)樫本のソロは滑らかで恰幅の良い音楽で、ことさら重厚を狙うわけでもなく、中庸に構えた自然体。オケもそれに上手く合わせた。演奏が終わって讃え合う二人の光景が眩しく写った。2楽章のオーボエが余りに美しかったのでメンバー表を見たらYurie Aramakiとあった。続くシェーラザードの山田の指揮も中庸を極めたもの。ことさらに華やかさを狙うわけでもなく、甘く歌うわけでもなく比較的あっさりとした音楽だった。なので正直言って私にはちょっと物足りなさが残った。とは言え大向こうからは大きな声援が飛んでいたので、この地での人気は上々なのだろうと嬉しく思った次第である。アンコールはなくサッパリと解散。この時期英国ではマスク姿はほぼ見かけない。ラウンジのカウンターも開いていて休憩時はそれぞれ手にグラスをもっての歓談風景だ。私もひっかけたIPAが喉に染みた。
2023年度幕開きのシティ・フィル定期は何とも渋い選曲だ。しかもいづれも祈るように終わる共通点を持つ曲である。そこに込められたメッセージは誠に時節を反映した”平安の希求”ともいうべきものだろう。一曲目はブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエム作品20。1970年の大阪万博記念演奏会で、来日直前に急逝したバルビローリの代役を務めたプリッチャード+フィルハーモニア管で聴いて以来、いったい幾度この曲を聴いてきたことだろう。その中で今回の高関建の作る音楽ほどこの曲に「動と静」のめりはりを与えた説得力のある演奏をこれまで聴いたことがない。さらに精緻に研ぎ澄まされたシティ・フィルの演奏が曲の神髄を見事に描き出した。続いては俊英山根一仁の独奏を加えてベルクのバイオリン協奏曲。山根の技巧と繊細な音色がガラス細工のように透明で静謐な曲想とがベスト・マッチし、苦渋と魂の浄化を表すような二曲を静かなアーチで結んだ。ソロアンコールはバッハのパルティータ第1番からサラバンドが静謐に奏でられた。そして最後はオネゲルの交響曲第3番「典礼風」。非人間的なるものに対するプロテストと祈りによる癒しを表したような曲である。ここでも高関の棒は正確さを求めつつ、ただそれだけで終わらずに曲の神髄にどんどん入り込んで意味ある音楽を作ってゆく凄さがある。こういった次元の音楽に到達できたのも、9年間自ら鍛え続けて、今や一部の揺るぎもないシティ・フィルがあっての事であろう。
2023年度の期首を飾ったのは、首席指揮者トレヴァー・ピノックを迎えたウイーン古典派の夕べである。まずはシューベルトのイタリア風序曲ニ長調D.590だ。聞いていてどこか聞き覚えがあるようなフレーズだなと思っていたら、「ロザムンデ序曲」の下敷きとなった曲だそうである。明るく屈託のない曲調はスターターにピッタリだった。続いてはモーツアルトの交響曲第35番ニ長調K.385《ハフナー》。ほぼビブラートのないフラットな弦の響きでスッキリとまとめ上げられた演奏だったが、その弦のアンサンブルに紀尾井にしては珍しく少しく力みが感じられる仕上がりで洗練を欠き、ホーネックだったらこんなじゃなかったなと思わせるところもあった。しかしティンパニとトランペットが殊更強奏されるようなことはなかったので、古楽系演奏の初期にありがちだったような尖った聞きにくい感じにならなかったところは好感が持てた。そして休憩を挟んでシューベルトの交響曲第8番ハ長調D.944《ザ・グレイト》。ピノックは77歳になるのだが、音楽の足取りは全く弛緩するところがなく軽快にどんどんと進む。それはある意味たいそう気持ちが良いのだが、4つの楽章の性格付けに明快さを欠いていたように聞きとれた。その結果立派な演奏ではあるのだが、どこを切り取っても同じように聞こえてしまい、いささか冗長な感じを免れることができなかった。
クシシュトフ・ウルバンスキを指揮に迎えた2023年度定期幕開けは、まず3つの組曲の全20曲から自らストーリー展開に即して12曲を抜粋したプロコフィエフのバレエ組曲「ロメオとジュリエット」(ウルバンスキー版)。1曲目からコンマス小林壱成率いる東響が実に繊細かつ瑞々しく鳴るのに驚いた。全体を通して、どんなフォルテでも決して煩くならない実に美しくスタイリッシュな仕上がりは見事という他に言葉が見つからない。休憩を挟んではギヨーム・コネッソン(1970-)のHeiterkeit(合唱とオーケストラのためのカンタータ)の日本初演。ウルバンスキーが音楽監督を務めたミネアポリス交響楽団からの委嘱作品で、第九の前座として作曲されたので楽器編成が同じだという現代曲としては変わり者ではあるが、ヘルダーリンの4つの詩をもとに作られた静かて美しく、そして人生肯定的な佳作だ。ここでは東響コーラス(冨平恭平指揮)がよく歌った。最後はシマノフスキーの名作「スタバート・マーテル」作品53。ここからソリストとしてシモーナ・シャトウロヴァ(ソプラノ)、ゲルヒルト・ロンベルガー(メゾ)、与那城敬(バリトン)が加わった。悲しみに暮れる聖母の姿と人々の祈り、そしてキリストの慈愛を感動的に歌ったポーランド語の歌詞とそれに寄せた多彩な音楽語法は実に感動的だ。的確なウルバンスキーの捌きゆえにそれらが曖昧な処無しに実にクリアーに仕上がった。ソリストではとりわけシャトウロヴァの繊細で抒情豊かな歌が感動的で印象に残った。それらを支えた暗譜の東響コーラスも会心の出来だった。
桂冠名誉指揮者の飯守泰次郎が指揮するブルックナーの交響曲第8番ハ短調だ。この組み合わせで2015年の5月の定期に取り上げられた記録があるが、その時は弦の薄さや木管のアンサンブルに問題があり、悪くはなかったが手放しで誉められなかった演奏だったような印象がある。今回は、以来常任指揮者高関健の薫陶を得てめきめきと実力を身につけているシティ・フィルがどんな演奏をするか楽しみで出かけた。83歳になって足元が覚束ないマエストロではあるが、その音楽は至って若々しい。(昨年のシューマンチクルスの時の音楽より若々しい印象)老け込んだり、滋味を湛えたりということはなく、楽章間もほとんど間を置くことなく驚くほどの推進力で逞しく前へ進む音楽なのである。8年前に比較して格段に合奏力が向上したシティ・フィルは、コンマス戸澤哲夫のリードの下、そんなマエストロの意を汲んで自律的に逞しく音楽を作ってゆく。だからとうとうと流れる音楽に身を浸しているだけでブルックナーの世界に包まれるという感じである。強靭な弦、豊かな木管、豪快な金管、チェロとコンバスの力強い支え、そしてココぞという時の決めのティンパニ。全てが一体となって老マエストロの音楽に精いっぱい奉仕した結果、作為的なところが一切ない純粋にブルックナーの音楽だけが姿を現したような実に立派な演奏だった。最後の降下音が鳴り終わっても危惧されたフライングブラボーは一切なし。暫く間をおいて久しぶりの大歓声がサントリーホールに響いた。
このところ年度最終の定期に大曲を並べているシティ・フィル、今年も昨年に続いってショスタコヴィッチで交響曲第7番である。その前に置かれたのは、新進気鋭の佐藤晴真をソリストに迎えて、とても珍しいカバレフスキーのチェロ協奏曲第一番ト長調。佐藤のチェロは惚れ惚れするような美音で、滑らかな弓捌きが実に鮮やか。ロシア民謡をフューチャーした曲の楽しさを十二分に引き出した佳演だったと思う。アンコールのバッハの無伴奏も実に素直な美しい演奏だった。これからの活躍を期待したい。メインの交響曲はナチス・ドイツのレニングラード侵攻中に作曲が開始され、国威発揚的な扱いを受けた曲であることが有名だが、今回の高関の演奏はそんなことを脇に置いた理性的なコントロール下の純音楽的な解釈だったと言ったら良いだろうか。そこには力づくの咆吼も涙の感傷もなく、スコアを考え抜いて音にしたという感じだった。しかし学者的な真向臭さは一切ないのが良かった。「戦争の主題」の高揚や最後の「人間の主題」の回帰の迫力は並大抵なものではなく、そこから聞かれたのはショスタコの筆致に導かれた凛とした音楽の立派さだった。このところ実力をつけてきたシティ・フィルも力の限りを尽くした演奏だったが、力づくでないので音楽が決して汚くならず、思わず襟を正したくなるような格調の高さを滲ませた。シティ・フィルはこれで充実の2023年シーズンを閉じるわけだが、プログラム上で公知された首席フルート奏者竹山愛の退団は実に残念である。これにより、このオケの数々の美演を支えた鉄壁の木管アンサンブルがどう変容するのだろうか。
四年ぶりに川瀬賢太郎が登場して「怒りの日」で繋ぐプログラム。ソリストにN響のゲスト・コンマスも務める郷古廉を迎えた若き才能の眩しいコンサートだ。一曲目はイギリスの現代作曲家ジェームス・マクミランのバイオリン協奏曲だ。2009年に作られた所謂現代音楽にしては、自己満足的でなく聴衆を普通に楽しませてくれる音楽だ。ラベルのピアノ・コンチェルトを思わせる鞭の音ではじまったのにはいささか驚いたが、全体は決して聴きやすい音楽の垂れ流しではなく、「怒りの日」の引用があったり人の声が使われたりで創意に満ち、聞くものの感性を次から次へと刺激してくれる。華麗なテクニックとストラディバリの滑らかな音色に支えられたしなやかな郷古のソロはこの名曲を引き立てた。アンコールはイザイのバイオリン・ソナタ2番の2楽章。最後にしめやかに「怒りの日」が登場する。メインはベルリオーズの幻想交響曲だ。獅子奮迅の川瀬による爆炎系の演奏になるのではと予想していたのだが、この日の川瀬は実に細やかにオケをコントロールして予想を見事に「裏切」ってくれた。一楽章は少し停滞気味で流れや歌を欠いた所があったものの、2台のハープを舞台前面両側に配置した二楽章あたりから調子が出始めた。イングリッシュホルンやフルートやバスーンのソロも鮮やかだった。ダイナミックの変化や弦のアーティキュレーションへの十分な気遣いが音楽に立体感を与え、時として現れる爆発も決して汚くならずにシャープに決まる。シティ・フィルも絶好調で熱く内部で燃えながらも均整のとれたスタイリッシュな「幻想」だった。
注目の指揮者マクシム・パスカルが紀尾井に登場した。そしてソリストは鬼才ニコラ・アルシュテットだ。まず最初はフォーレの組曲「マスクとベルガマスク」+「パヴァーヌ」。初っ端からフランス的な音色に耳をそばだてた。何とも表現し難いが、透明で軽やかでいつもの重厚な紀尾井の音とは明らかに違う。木管が浮き出てそのニュアンス豊かな表現が心に染みる。2曲目はアルシュテットの独奏でショスタコヴィッチのチェロ協奏曲第1番変ホ長調。ソロは恐ろしく雄弁で技巧的にも完璧。そしてショスタコの機知に富みつつ深刻な内容をも含んだ音楽を実に見事に表現した。第二楽章と三楽章の祈りにも似た内相的な表現、そしてフィナーレの快速な超絶技巧。作曲家の持つ多面的でカメレオン的な要素を包み隠さず引き出した名演だった。それにピタリと追従したパスカルの指揮にも心が踊った。頻出して重要な役割を持つ日橋辰朗のホルンも秀逸な出来だった。アンコールはバッハの無伴奏組曲の中の一曲だったが、そこではしなやかであると同時に、静謐で思索的な深い音楽が溢れ出て、このチェリストの持つ音楽の多面的を知ることができた。休憩を挟んでは、ベートーヴェンの交響曲第4番変ロ長調作品60だ。この交響曲は9つの中で比較的目立たない存在なので、一晩のプログラムのメインに据えられることはまずない。しかしこの演奏を聞いてメインに据えられた理由が分かった。とにかくこれまで聞いたことがないような4番だった。快速で進められる中で、作曲者がこの曲に盛った新奇性が次々に明らかになるのである。例えるならば、まるでベルリオーズの幻想交響曲を聞いているような感触だった。ドイツの伝統に則ったベートーヴェンでは決してないのだが、この曲が秘めた大胆な仕掛けを創意に富む表現でさらけ出し、この曲の価値を明らかにした滅多に出会えない演奏だったと思う。ファゴット、クラリネット、フルート等のソリスト達の鮮やかな名技も聴き映えした。