まずニュースを1つ
政治家らしいが「都合のええことしやがって、われい」と、チンピラだな。これが政治家?
人間というのは、特に日本社会では、人々に「ふさわしい」とはなんであるのかが共有されていた。ところが、その「ふさわしさ」が壊されているのが、現代である。
世の中で変な不可解な事件が起きるが、その背後に「非社会性」、つまりは「ふさわしい」ことがなんであるのかが壊されているのだという。この考えを元に観察すると、政治家の「ふさわしい」が壊れていることを暫しみることがある。
その最大の存在は安倍晋太郎だと思うけどね。
加藤諦三先生は「ふさわしい」には、3つの土台があるという。
1暗黙のルールに違反する。
2個々の合意に先立つあらかじめの合意に違反する。
3経験的合理性に違反する。
(加藤諦三『非社会性の心理学』角川書店2009年から)
これは違法性があるという水準とは違う。違法性であれば「反社会性」である。違法ではなくとも、その場や関係性に「ふさわしい」振る舞いが人間にはあるのだが、「ふさわしくはない」振る舞いをしていても、それが問題だとは気にしない。だから法律上問題がないと強弁することができる。
そして、素朴に考えれば、違法ではないと、罰することもできず、非難もしづらい、そういう感覚が生じやすくなる。実はこの「非社会性」こそが社会を壊す力を持つ。「反社会性」であれば、罰することも、避難することも容易いので、逆説的にも社会の安定に寄与さえする。
政治家には、政治家としての「ふさわしさ」がある。なんだか、そういう「ふさわしい」政治家から随分離れた人物が政治家になっていると思うのだが、彼らこそ、政治を、そして社会を壊す張本人だが、気づきづらいと思う。
昭和の昔、戦前であれば”親分さん”が政治家を務めていたこともあったと思う。しかしながら、政治家としての「ふさわしさ」を身につけていて品位があったと思う。小泉さんのお爺さんとか。
「ふさわしくない」政治家を意識化しようではないかと、訴えたいところだ。
辞めたから一件落着なのではない。この風土が問題だ。