休眠しました。

mem-papaのきままな自分用メモ帳
13年目に突入
固いこと柔らかいことそのとき

ゆるい

2010-09-19 08:45:49 | books
1年の半分をハワイですごす本多直之氏がどうしてハワイだとリラックスできて、東京ではそれができないのか?
当初は気候、リゾート地という土地柄だと思っていたが、本当の理由は、「人」だと気づいた。もっと具体的に言うなら「人の習慣」であり、『人の感情は伝染する』だった。

1 楽しいか楽しくないかで判断する
2 プライベートに論理を持ち込まない
3 物事に白黒つけない
4 ドロップオフのリストをつくる
5 何事も60点主義で考える
6 人生を競争しない
7 物事の「閾値」を下げる (時間・場所・人の満足基準を下げる)
8 言葉で自分を縛らない
(中略)
11 忘れっぽい自分を受け入れる
14 「そういう人」と思ってもらう
15 見た目よりも機能を大切にする
19 プライベートは長期視点で考える
24 ネット環境のないところに行く
30 トレンドに翻弄されない
31 五感のすべてをゆるくする
33 行きつけのゆるい店をつくる
34 趣味を通じて新しい仲間をつくる
60 積極的に他者をほめる

目次を並べてみると、買った理由がよくわかった(笑)し
立ち読みより、ゆっくり読む方が効能あるような。
プライベートは「ゆるい生き方」(タイトル)しましょって本です。。

佐藤優 はじめての宗教論(2)  セルフメモ

2010-08-14 23:26:00 | books
右巻のセルフメモ。

・「まとめ」はない
内容をまとめるのは難しい。重層的。著者が聖書について参照と類比という手法で分析・読み解くことの大切さを説くように、内容もたくさんの概念がお互いを参照し、類比的に進む。6章「宗教と類型 -日本人にとって神学とは何か?- 」でそれらを使って何を言いたいがまとまってくるようなイメージ。

まとまらないのはもう一つ訳があると思う。
subject(p.268)主題/主観/主語のどの意味でもあるようにという本書が主題(人生の価値の問題/超越性に関わる問題)、主観(認識のフレームワークの問題)、主体(個々の瞬間の判断および行動という倫理の問題)を扱うからだろう。あくまで他人事として見聞きするだけなら、自分なりにまとまる必要もない。
  宗教は客観を扱うのではなく、主体がどう生きるかの問題という定義はそのとおりだと思う。「よりよい選択」でお金を超越性とするならば、それも宗教なんだよという比喩は近頃の学生向けか..話がずれた。
セルフメモが散文なのも、自分の中でリンクされていればそれでよいことだから。リンクは自分にしか意味がない。

認識のフレームワーク:前提として「認識を導く利害関心」があることをハーバーマス「認識と関心」は論理的に解説しているよと参考文献まで載せてくれていて、親切だ。実用書を意図しているゆえの配慮の1つ。社会や政治を考えるうえでも、自分の観察とは何に導かれているかを注意するのは大切。実験ができる世界とは違う。

非常に普通の日本人に対して、君らの井の中の蛙的なとこはこーいうところだよと、彼が言いたいのはこんなことだと思う。
・マスコミは宗教を客観記述で説明づけようとするが、全く本質と反対で無意味。
・個別にでなく、全体として宗教とは何かを定義するのはほぼ不能
逆に自分は一生、ローカルな人間だと思うし、関係ないなという場合は読む意味なし。

「キリスト教と言っても、カトリック、プロテスタント、ロシア正教会、ラテン世界やドイツで発展したもの、イギリス国教会、アメリカのピューリタニズムの系統」、みんなその国の文化や歴史性と絡んで土着性を帯びたもの(p.225)。

類型(タイポロジー)については歴史観の説明を織りませていた。ガダマーの解釈学(あらゆる個人は歴史的状況に制約されたものであり、そのような本性上、過去の(ないし異文化の、または異なる個人の)テクストに対峙する際、自分の「先入観」を排除することはできない、と考えます。むしろ、この先入観は、テクスト理解に必要な「解釈者自身の持つ意味連関」として積極的に評価されます。「なければならないものである」ということです。)の概念と同様では。聖書の解釈からスタートしている理論でもあり、そこを知らない訳はないので、省略したのは、章がコンパクトにならない理由ゆえか?


『具体性を重視するという発想は、たとえば、「白い」という抽象概念が存在しないことと一緒です。思い出してください。第3章で述べたように、中性の普遍論争とは、抽象概念という見えないものをどう捉えるかという論争でした。受に肉論によれば「Xは白い」というところのXは、Xという記号で括れるものではなくて、必ず何か具体的なものになります。』(p.242)

ここでいう、Xの説明は、「白い」(という抽象概念)で括れる集合を考えることはやめよう(メタレベルや絶対を考えるのは神の立ち位置)、抽象概念は与えられるものであり、自ら作るものではないという意味?
見えないものは具体的な形で受肉されていないといけないという文脈はわかってるつもり。しかし比喩の意味が謎。
愛情や友情という見えないものだから、それは具体的に行動で示しなさい..素直にそれだけでいいのか。。
(「実念論」「概念(実在)論」「唯名論」  唯名論は、20世紀の言語論的展開に近い。抽象概念は「ない」のではなく、音声と文字のみ対象として、他音声(文字)間での関係を考察)


キリスト教は実存主義的という一般理解には、4章で啓示とは何か?というサブテーマにて、啓示というものが常に実存の外から本人に与えられる点を強調。ふさわしい人に啓示が現れるわけでもないとこがおもしろい。ここも「見えないもの」を説明づけるのだろう。

地上の権威に対する態度がイエスとパウロで180度違うというのは、目からウロコだった。パウロは仏教でいう対機説法というか・・それも必要だったから聖書には組み込まれたのだろうな。イエスはそれだけ高みにあったし、彼の直面したローマ帝国という時代もあり・・読替えは常に必要だし、なんでも読替えていいわけでもなし。


現代人は、見えるものの世界だけで自らの合理性(自己基準の絶対化)に陥る、自分にとって利害関心のある限定世界のなかだけで「やたらと饒舌」らしい。
とはいえ類比(アナロジー)で考える(生で読みこまない)メリット→多元主義→寛容があるのが大事な点というのは、キリスト教を信仰する佐藤氏も自己基準絶対化に陥っていたという反省(p.214)も大きい様子。


日本における類型を創造して土着させるべく最も大きな総合を目指せという魚木忠一氏を引用しての発想はわかる気がする。救済宗教であるという性格は仏教がすでに素晴らしくドクトリンを広げたあとだったので、理解は早かったとの記述。また創造について神道との類似を説明。ならば儒教、神道、仏教のミクスチャーの風土に載せるのだから、異教排斥の教えは、当時の時代背景と、日本の風土を考えて、地球の小さくなった時代に適切な読み解きになるべきと思うが、神学的にはどう解されているのだろう?  多元主義という寛容さとも相反する。神道も仏教も消えてなくなることが理想というのであれば、日本のここまでの歴史も塗り替えられるという結論なのではないかと。氏のように今の時代になすべきことを志向するには、たとえ一部としても次元が小さいと思う。
それこそ新共同訳がどうのという話でなく、聖書以外も同じ立場の宗教の書ということにならなければいけないわけで、そこまで想像すると、人口的に稀少数の純潔な宗教の立場でいいじゃないですかと門外漢的に思ってしまう。

佐藤優 はじめての宗教論

2010-08-12 19:44:33 | books
休み最初の2日間が雨でもあり、右巻をざっと読んだ。
とても面白い。キリスト教神学を扱う本としては教科書のように適切で丁寧でまともだと思った。そのうえで、正教会とカトリックとプロテスタントの比較、ギリシャ哲学やローマ法やヨーロッパ各地域の文化とのミクスチャー(コンフリクト)での視点、バルトや実存主義と照らしての解説だとか(…セルフメモ的に記事を追加予定)、学説ばかりによらず救済を求めての活動側のことにも目配せがあって、もうすぐ出発で丁寧にまとめる時間がないけど、非常に面白い。「そうなんだ!」と自分の中の地図がつながったところが、たくさんあった。そのようなとこは単なる教科書に収まらない。そのうえで我も(誰も)罪深いものだなと。口罪(汗; アテネではギリシャの死生観ゆえに受け入れられないということがあったように、日本だとマスコミ見てもわかるように悪口に罪意識のない文化というのはキリスト教にとって最大の障壁かもしれない(w)

ただ読む(読める)人を選んでしまうとも思う。自分の知ってる人でこの本読みそうな人を想像すると1人いるか? テーマとしては何かを信じる人間というのは、好き嫌いや価値観を持つのがあたりまえなように普遍なテーマなんですが。

帰宅したら、このような他の方のブログもいろいろ読みたい。

ジェンダーを考えることに意味があるとすれば(2)

2009-10-25 18:45:04 | books
関係する女 所有する男(斎藤環著)メモ(2)
酔いに任せて、書くには荷が重いのですが、簡単なトピック的に思いつくところを以下。
具体例がないためわかりづらいと思いますが、その辺りは本をお読みくださいということで(^^;

・地図を読めない女、話を聞けない男という本が流行ったが、空間認識能力や言語能力を脳の構造や器質的な差であると説明することが、いかに非科学的な言説であるか...むしろ、能力の問題は、発育した環境の違い...男のコは外での遊びが多く、女のコは濃密なコミュニケーション空間での遊びにより脳がトレーニングされる-基盤である脳もファクターだけれども、むしろ脳の「慣れ」と「学習」という説明のほうがシンプル。(著者が女性は感情を伝え合う能力に優れているが、言語の厳密な適用の典型である哲学に女性が少ないことは、言語能力そのものでなくコミニュケーション能力と理解すべきでは?とガイドラインを示している部分は、あれこれ日常を見回してみると、冷静な見解だと納得。)

・脳の違いということであれば、数ある論文で明確になっているのは生殖能力に関わる部分についてだけ。脳について性によって器質的に差があるのであれば、当然、精神疾患についても男女によって「脳の器質原因による」疾患の差が出るはずだが、実際はそうしたものはない。
ひきこもりや、うつ病による自殺が男性に多いことや、摂食障害が女性に多い(男性の20倍)ことは、器質の差では説明がつかない。(それに対してジェンダー原因の仮説は説得力を持つ)

・「セックス」と「ジェンダー」の定義
ジェンダー理論の文脈では、「セックス」と「ジェンダー」の区分 - つまり何が生物学的に決定されており、何が社会的・文化的に形成されているのか - もまた社会的・文化的に形成された認識であり、そうである以上、両者の区別は絶対ではないという考え方に基づく。この定義において、「ジェンダー」とはただ単に「性別」を形成する一要素ではなく、「性別」に関するわたしたちの認識全体を含むものとして理解される。

・ジェンダーとは心的組織が構成される際に構造的必然として発生してくる過程に大きく影響を受けている。それはヘテロセクシズム(異性愛主義)という最強のイデオロギーを基盤にしているため、強力たりうる。なぜ「ヘテロ」が強力かは、それのみ人類を繁殖させることができるから。ゆえに家庭や社会でその差異を再生産するような形で再帰的に構成される。(家庭や社会の側で性差や性規範として、一度、一般化され、それがループして、再度、個人の前に与えられる。個人の側でジェンダーの選択的自由はない)。 また、ジェンダーについての概念は、さまざまな抽象的レベルと具象的レベルが複合的に混在しているため、脳の機能に還元することはほぼ意味を持たない。

・人の欲望を所有原理と関係性原理という基本的な2種類に分けると、男性は所有原理に基づくことが大多数で女性はその逆(関係性原理が大多数)。言い換えると、ジェンダーは2パターンに分けられるのではなく、たくさんの間(あいだ)のケースがある。

・ジェンダーをどう扱うかについては、ジェンダーセンシティブの立場。どちらか一方の性において、不利益が生じる場合は、そこを考慮する必要があるが、どの程度考慮すべきは、ケースバイケース。  完全な一般化ルール(性別だけを見て、個人を見ない)や、全くジェンダーはない(性別配慮は無視してよい)という立場は、どちらも正しくない。 ある個人とある個人の問題として考える意識が必要。 ジェンダーは個人の属性ではなく、関係性のなかに現れるという考え方も重要。


個人的な感想としては、ジェンダーの問題が意識されなくてはいけないのは、現状の社会の側には例えば「男(女)は..かくあるべし」みたいな性規範は存在していて、つまり簡単な一般化ルールを個人に押し付けていて、その根拠が素朴に生物学的要素にあるみたいな理解は共有されがちなので(実際は、私も「性差」=「脳の差」みたいな説を信じてましたし)そこは、より「その人らしさ」とか「脳の可塑性」「ジェンダーの多様性」という文脈で許容されるべきという、ことを思います。
性自認の問題は、同時にアイデンティティの問題でもあるので、意外に、「男性は所有原理に基づいていて欲望が単純」とか、こうした科学的説明を読んだうえでも、まだ、価値を上乗せしたいという心理が、人の側にあります。。。
わかったように見せかけて、足下をすくうようにループが繰り返される、著者言うところの「最強のイデオロギー」たりえるのでしょう。

もう1点は、後半ずっと思っていて、著者も案の定、あとがきで書いていますが、欲望のうちの「関係性原理」について、ラカンの説明もあり、勉強にはなるのですが、それでも「所有原理的でないものの集合」という括りでしか、「関係性原理」を想像つかない部分があります。
当の女性においても、他の女性におけるの欲望の在り方について、まったく理解出来ないケースが多々あるわけですから、正直な表現でしょうけれども、同時に五里霧中のような雰囲気です。
(女性にとって自らの体が「擬体」であり、ときに違和感であるが、同時にそれ(身体)が女性性の本質であり、そこに客観的な見られる身体イメージを媒介にしないと成り立たないない女性の複雑なナルシシズムが見られるというポイント~母-娘関係の分析は興味深い)

最後は、価値/嗜好の問題でしょうか。可塑性や欲望の原理にたちかえった説明ができることは強力なのですが、それは逆に外から見ると、ジェンダーは、社会の側で男性(女性)の最も平均的なマスにとって、調和的な享楽を受けられるように調整づけられている過程だと思うのです。
科学がエセ科学になるのは、価値を扱っているように見せかける、そのタイミングなのだみたいな記述がありました。 逆に、では「ここまで、(科学的に)わかったとして、この後どうする?  どのような幻想をお互い、相手について見るようにしますか?  古くからの性役割・性規範のなかで、もう調整必要なジェンダーは多数あると思うので、そうしたアプライアンスの部分をどうするのでしょうね?...全体がそこの変更を意識共有しないといけないですよね」 そんなことを思います。

ジェンダーを考えることに意味があるとすれば

2009-10-17 22:34:05 | books
「ジェンダーを考えることに意味があるとすれば、それはまずなによりも、ジェンダーゆえの不利益を最小限にするためである。」(「関係する女 所有する男」斎藤環著)

しごく名言だと思ったので、最初に理解しづらい言葉を置いてしまった(失礼)

男女平等なのだから中学校の更衣室は同室にすべきというのでは、女性が一方的に不利益を被るという例を著者はあげているが、そうしたことはあらゆることに広がっているし、また浸透している。

セクハラはそれが極めて言動として相手に不快感を与える場合に限定されるが、ジェンダーで捕えるとかなり広いことになる。

ジェンダーはその違いを、脳の違いとか体の性差とかそうした器質的な違いに求めるのは意味がないと著者は述べているが、私も同感。
確かに、事実としての差はあるのだけれども、また個体差もある。そして、事実が「たとえば男性とはこのようなものだという」理念へと一般化され、そうして作られた理念が、また事実を作り出していく。そのループこそが、この問題に一番特徴的としている。ここも全く共感。

著者の文脈に載っての下手な推測かもしれないが「一緒にきちんとつながっていければ大丈夫」という関係原理で部下を元気づけるのは、とても女性的であり、同時に、叱るときに「場所/状況/部下の立場」というとこの大きさをあまり意識できないのは女性ということだろう。
とすると思い当たるフシがある。

ジェンダーは人間の心的組織が構成される際に構造的必然として発生するのであり、そこのフレームを理解しておかないと、思わずのところで不意打ちをくらう。そのくらい根源的で強力なイデオロギーである。そこでの欲望の否定というアプローチは、「自分は欲望を否定することで完全に幻想を免れている」という仙人シニシズム的な別の幻想に陥る罠であるというのも明快。

他人のジェンダーを理解し、「そのようなもの」として相対化はできても、それで実生活を(欲望して)生きていくのは私。 世間と隔絶した世界で生きるわけにもいくまい(苦笑

なんであれ、ジェンダー(というより正確には、所有原理or関係性原理の欲望)につき動かされて生きていくのであるから、少し「それ」がどのようなものなのかを理解しつつ、お互いの不利益こうむり状態を少なくする努力が必要なのだと思う。