右巻のセルフメモ。
・「まとめ」はない
内容をまとめるのは難しい。重層的。著者が聖書について参照と類比という手法で分析・読み解くことの大切さを説くように、内容もたくさんの概念がお互いを参照し、類比的に進む。6章「宗教と類型 -日本人にとって神学とは何か?- 」でそれらを使って何を言いたいがまとまってくるようなイメージ。
まとまらないのはもう一つ訳があると思う。
subject(p.268)主題/主観/主語のどの意味でもあるようにという本書が主題(人生の価値の問題/超越性に関わる問題)、主観(認識のフレームワークの問題)、主体(個々の瞬間の判断および行動という倫理の問題)を扱うからだろう。あくまで他人事として見聞きするだけなら、自分なりにまとまる必要もない。
宗教は客観を扱うのではなく、主体がどう生きるかの問題という定義はそのとおりだと思う。
「よりよい選択」でお金を超越性とするならば、それも宗教なんだよという比喩は近頃の学生向けか..話がずれた。
セルフメモが散文なのも、自分の中でリンクされていればそれでよいことだから。リンクは自分にしか意味がない。
認識のフレームワーク:前提として「認識を導く利害関心」があることをハーバーマス「認識と関心」は論理的に解説しているよと参考文献まで載せてくれていて、親切だ。実用書を意図しているゆえの配慮の1つ。社会や政治を考えるうえでも、自分の観察とは何に導かれているかを注意するのは大切。実験ができる世界とは違う。
非常に普通の日本人に対して、君らの井の中の蛙的なとこはこーいうところだよと、彼が言いたいのはこんなことだと思う。
・マスコミは宗教を客観記述で説明づけようとするが、全く本質と反対で無意味。
・個別にでなく、全体として宗教とは何かを定義するのはほぼ不能
逆に自分は一生、ローカルな人間だと思うし、関係ないなという場合は読む意味なし。
「キリスト教と言っても、カトリック、プロテスタント、ロシア正教会、ラテン世界やドイツで発展したもの、イギリス国教会、アメリカのピューリタニズムの系統」、みんなその国の文化や歴史性と絡んで土着性を帯びたもの(p.225)。
類型(タイポロジー)については歴史観の説明を織りませていた。ガダマーの解釈学(
あらゆる個人は歴史的状況に制約されたものであり、そのような本性上、過去の(ないし異文化の、または異なる個人の)テクストに対峙する際、自分の「先入観」を排除することはできない、と考えます。むしろ、この先入観は、テクスト理解に必要な「解釈者自身の持つ意味連関」として積極的に評価されます。「なければならないものである」ということです。)の概念と同様では。聖書の解釈からスタートしている理論でもあり、そこを知らない訳はないので、省略したのは、章がコンパクトにならない理由ゆえか?
『具体性を重視するという発想は、たとえば、「白い」という抽象概念が存在しないことと一緒です。思い出してください。第3章で述べたように、中性の普遍論争とは、抽象概念という見えないものをどう捉えるかという論争でした。受に肉論によれば「Xは白い」というところのXは、Xという記号で括れるものではなくて、必ず何か具体的なものになります。』(p.242)
ここでいう、Xの説明は、「白い」(という抽象概念)で括れる集合を考えることはやめよう(メタレベルや絶対を考えるのは神の立ち位置)、抽象概念は与えられるものであり、自ら作るものではないという意味?
見えないものは具体的な形で受肉されていないといけないという文脈はわかってるつもり。しかし比喩の意味が謎。
愛情や友情という見えないものだから、それは具体的に行動で示しなさい..素直にそれだけでいいのか。。
(「実念論」「概念(実在)論」「唯名論」 唯名論は、20世紀の言語論的展開に近い。抽象概念は「ない」のではなく、音声と文字のみ対象として、他音声(文字)間での関係を考察)
キリスト教は実存主義的という一般理解には、4章で啓示とは何か?というサブテーマにて、啓示というものが常に実存の外から本人に与えられる点を強調。ふさわしい人に啓示が現れるわけでもないとこがおもしろい。ここも「見えないもの」を説明づけるのだろう。
地上の権威に対する態度がイエスとパウロで180度違うというのは、目からウロコだった。パウロは仏教でいう対機説法というか・・それも必要だったから聖書には組み込まれたのだろうな。イエスはそれだけ高みにあったし、彼の直面したローマ帝国という時代もあり・・読替えは常に必要だし、なんでも読替えていいわけでもなし。
現代人は、見えるものの世界だけで自らの合理性(自己基準の絶対化)に陥る、自分にとって利害関心のある限定世界のなかだけで「やたらと饒舌」らしい。
とはいえ類比(アナロジー)で考える(生で読みこまない)メリット→多元主義→寛容があるのが大事な点というのは、キリスト教を信仰する佐藤氏も自己基準絶対化に陥っていたという反省(p.214)も大きい様子。
日本における類型を創造して土着させるべく最も大きな総合を目指せという魚木忠一氏を引用しての発想はわかる気がする。救済宗教であるという性格は仏教がすでに素晴らしくドクトリンを広げたあとだったので、理解は早かったとの記述。また創造について神道との類似を説明。ならば儒教、神道、仏教のミクスチャーの風土に載せるのだから、異教排斥の教えは、当時の時代背景と、日本の風土を考えて、地球の小さくなった時代に適切な読み解きになるべきと思うが、神学的にはどう解されているのだろう? 多元主義という寛容さとも相反する。神道も仏教も消えてなくなることが理想というのであれば、日本のここまでの歴史も塗り替えられるという結論なのではないかと。氏のように今の時代になすべきことを志向するには、たとえ一部としても次元が小さいと思う。
それこそ新共同訳がどうのという話でなく、聖書以外も同じ立場の宗教の書ということにならなければいけないわけで、そこまで想像すると、人口的に稀少数の純潔な宗教の立場でいいじゃないですかと門外漢的に思ってしまう。