関係する女 所有する男(斎藤環著)メモ(2)
酔いに任せて、書くには荷が重いのですが、簡単なトピック的に思いつくところを以下。
具体例がないためわかりづらいと思いますが、その辺りは本をお読みくださいということで(^^;
・地図を読めない女、話を聞けない男という本が流行ったが、空間認識能力や言語能力を脳の構造や器質的な差であると説明することが、いかに非科学的な言説であるか...むしろ、能力の問題は、発育した環境の違い...男のコは外での遊びが多く、女のコは濃密なコミュニケーション空間での遊びにより脳がトレーニングされる-基盤である脳もファクターだけれども、むしろ脳の「慣れ」と「学習」という説明のほうがシンプル。(著者が女性は感情を伝え合う能力に優れているが、言語の厳密な適用の典型である哲学に女性が少ないことは、言語能力そのものでなくコミニュケーション能力と理解すべきでは?とガイドラインを示している部分は、あれこれ日常を見回してみると、冷静な見解だと納得。)
・脳の違いということであれば、数ある論文で明確になっているのは生殖能力に関わる部分についてだけ。脳について性によって器質的に差があるのであれば、当然、精神疾患についても男女によって「脳の器質原因による」疾患の差が出るはずだが、実際はそうしたものはない。
ひきこもりや、うつ病による自殺が男性に多いことや、摂食障害が女性に多い(男性の20倍)ことは、器質の差では説明がつかない。(それに対してジェンダー原因の仮説は説得力を持つ)
・「セックス」と「ジェンダー」の定義
ジェンダー理論の文脈では、「セックス」と「ジェンダー」の区分 - つまり何が生物学的に決定されており、何が社会的・文化的に形成されているのか - もまた社会的・文化的に形成された認識であり、そうである以上、両者の区別は絶対ではないという考え方に基づく。この定義において、「ジェンダー」とはただ単に「性別」を形成する一要素ではなく、「性別」に関するわたしたちの認識全体を含むものとして理解される。
・ジェンダーとは心的組織が構成される際に構造的必然として発生してくる過程に大きく影響を受けている。それはヘテロセクシズム(異性愛主義)という最強のイデオロギーを基盤にしているため、強力たりうる。なぜ「ヘテロ」が強力かは、それのみ人類を繁殖させることができるから。ゆえに家庭や社会でその差異を再生産するような形で再帰的に構成される。(家庭や社会の側で性差や性規範として、一度、一般化され、それがループして、再度、個人の前に与えられる。個人の側でジェンダーの選択的自由はない)。 また、ジェンダーについての概念は、さまざまな抽象的レベルと具象的レベルが複合的に混在しているため、脳の機能に還元することはほぼ意味を持たない。
・人の欲望を所有原理と関係性原理という基本的な2種類に分けると、男性は所有原理に基づくことが大多数で女性はその逆(関係性原理が大多数)。言い換えると、ジェンダーは2パターンに分けられるのではなく、たくさんの間(あいだ)のケースがある。
・ジェンダーをどう扱うかについては、ジェンダーセンシティブの立場。どちらか一方の性において、不利益が生じる場合は、そこを考慮する必要があるが、どの程度考慮すべきは、ケースバイケース。 完全な一般化ルール(性別だけを見て、個人を見ない)や、全くジェンダーはない(性別配慮は無視してよい)という立場は、どちらも正しくない。 ある個人とある個人の問題として考える意識が必要。 ジェンダーは個人の属性ではなく、関係性のなかに現れるという考え方も重要。
個人的な感想としては、ジェンダーの問題が意識されなくてはいけないのは、現状の社会の側には例えば「男(女)は..かくあるべし」みたいな性規範は存在していて、つまり簡単な一般化ルールを個人に押し付けていて、その根拠が素朴に生物学的要素にあるみたいな理解は共有されがちなので(実際は、私も「性差」=「脳の差」みたいな説を信じてましたし)そこは、より「その人らしさ」とか「脳の可塑性」「ジェンダーの多様性」という文脈で許容されるべきという、ことを思います。
性自認の問題は、同時にアイデンティティの問題でもあるので、意外に、「男性は所有原理に基づいていて欲望が単純」とか、こうした科学的説明を読んだうえでも、まだ、価値を上乗せしたいという心理が、人の側にあります。。。
わかったように見せかけて、足下をすくうようにループが繰り返される、著者言うところの「最強のイデオロギー」たりえるのでしょう。
もう1点は、後半ずっと思っていて、著者も案の定、あとがきで書いていますが、欲望のうちの「関係性原理」について、ラカンの説明もあり、勉強にはなるのですが、それでも「所有原理的でないものの集合」という括りでしか、「関係性原理」を想像つかない部分があります。
当の女性においても、他の女性におけるの欲望の在り方について、まったく理解出来ないケースが多々あるわけですから、正直な表現でしょうけれども、同時に五里霧中のような雰囲気です。
(女性にとって自らの体が「擬体」であり、ときに違和感であるが、同時にそれ(身体)が女性性の本質であり、そこに客観的な見られる身体イメージを媒介にしないと成り立たないない女性の複雑なナルシシズムが見られるというポイント~母-娘関係の分析は興味深い)
最後は、価値/嗜好の問題でしょうか。可塑性や欲望の原理にたちかえった説明ができることは強力なのですが、それは逆に外から見ると、ジェンダーは、社会の側で男性(女性)の最も平均的なマスにとって、調和的な享楽を受けられるように調整づけられている過程だと思うのです。
科学がエセ科学になるのは、価値を扱っているように見せかける、そのタイミングなのだみたいな記述がありました。 逆に、では「ここまで、(科学的に)わかったとして、この後どうする? どのような幻想をお互い、相手について見るようにしますか? 古くからの性役割・性規範のなかで、もう調整必要なジェンダーは多数あると思うので、そうしたアプライアンスの部分をどうするのでしょうね?...全体がそこの変更を意識共有しないといけないですよね」 そんなことを思います。
酔いに任せて、書くには荷が重いのですが、簡単なトピック的に思いつくところを以下。
具体例がないためわかりづらいと思いますが、その辺りは本をお読みくださいということで(^^;
・地図を読めない女、話を聞けない男という本が流行ったが、空間認識能力や言語能力を脳の構造や器質的な差であると説明することが、いかに非科学的な言説であるか...むしろ、能力の問題は、発育した環境の違い...男のコは外での遊びが多く、女のコは濃密なコミュニケーション空間での遊びにより脳がトレーニングされる-基盤である脳もファクターだけれども、むしろ脳の「慣れ」と「学習」という説明のほうがシンプル。(著者が女性は感情を伝え合う能力に優れているが、言語の厳密な適用の典型である哲学に女性が少ないことは、言語能力そのものでなくコミニュケーション能力と理解すべきでは?とガイドラインを示している部分は、あれこれ日常を見回してみると、冷静な見解だと納得。)
・脳の違いということであれば、数ある論文で明確になっているのは生殖能力に関わる部分についてだけ。脳について性によって器質的に差があるのであれば、当然、精神疾患についても男女によって「脳の器質原因による」疾患の差が出るはずだが、実際はそうしたものはない。
ひきこもりや、うつ病による自殺が男性に多いことや、摂食障害が女性に多い(男性の20倍)ことは、器質の差では説明がつかない。(それに対してジェンダー原因の仮説は説得力を持つ)
・「セックス」と「ジェンダー」の定義
ジェンダー理論の文脈では、「セックス」と「ジェンダー」の区分 - つまり何が生物学的に決定されており、何が社会的・文化的に形成されているのか - もまた社会的・文化的に形成された認識であり、そうである以上、両者の区別は絶対ではないという考え方に基づく。この定義において、「ジェンダー」とはただ単に「性別」を形成する一要素ではなく、「性別」に関するわたしたちの認識全体を含むものとして理解される。
・ジェンダーとは心的組織が構成される際に構造的必然として発生してくる過程に大きく影響を受けている。それはヘテロセクシズム(異性愛主義)という最強のイデオロギーを基盤にしているため、強力たりうる。なぜ「ヘテロ」が強力かは、それのみ人類を繁殖させることができるから。ゆえに家庭や社会でその差異を再生産するような形で再帰的に構成される。(家庭や社会の側で性差や性規範として、一度、一般化され、それがループして、再度、個人の前に与えられる。個人の側でジェンダーの選択的自由はない)。 また、ジェンダーについての概念は、さまざまな抽象的レベルと具象的レベルが複合的に混在しているため、脳の機能に還元することはほぼ意味を持たない。
・人の欲望を所有原理と関係性原理という基本的な2種類に分けると、男性は所有原理に基づくことが大多数で女性はその逆(関係性原理が大多数)。言い換えると、ジェンダーは2パターンに分けられるのではなく、たくさんの間(あいだ)のケースがある。
・ジェンダーをどう扱うかについては、ジェンダーセンシティブの立場。どちらか一方の性において、不利益が生じる場合は、そこを考慮する必要があるが、どの程度考慮すべきは、ケースバイケース。 完全な一般化ルール(性別だけを見て、個人を見ない)や、全くジェンダーはない(性別配慮は無視してよい)という立場は、どちらも正しくない。 ある個人とある個人の問題として考える意識が必要。 ジェンダーは個人の属性ではなく、関係性のなかに現れるという考え方も重要。
個人的な感想としては、ジェンダーの問題が意識されなくてはいけないのは、現状の社会の側には例えば「男(女)は..かくあるべし」みたいな性規範は存在していて、つまり簡単な一般化ルールを個人に押し付けていて、その根拠が素朴に生物学的要素にあるみたいな理解は共有されがちなので(実際は、私も「性差」=「脳の差」みたいな説を信じてましたし)そこは、より「その人らしさ」とか「脳の可塑性」「ジェンダーの多様性」という文脈で許容されるべきという、ことを思います。
性自認の問題は、同時にアイデンティティの問題でもあるので、意外に、「男性は所有原理に基づいていて欲望が単純」とか、こうした科学的説明を読んだうえでも、まだ、価値を上乗せしたいという心理が、人の側にあります。。。
わかったように見せかけて、足下をすくうようにループが繰り返される、著者言うところの「最強のイデオロギー」たりえるのでしょう。
もう1点は、後半ずっと思っていて、著者も案の定、あとがきで書いていますが、欲望のうちの「関係性原理」について、ラカンの説明もあり、勉強にはなるのですが、それでも「所有原理的でないものの集合」という括りでしか、「関係性原理」を想像つかない部分があります。
当の女性においても、他の女性におけるの欲望の在り方について、まったく理解出来ないケースが多々あるわけですから、正直な表現でしょうけれども、同時に五里霧中のような雰囲気です。
(女性にとって自らの体が「擬体」であり、ときに違和感であるが、同時にそれ(身体)が女性性の本質であり、そこに客観的な見られる身体イメージを媒介にしないと成り立たないない女性の複雑なナルシシズムが見られるというポイント~母-娘関係の分析は興味深い)
最後は、価値/嗜好の問題でしょうか。可塑性や欲望の原理にたちかえった説明ができることは強力なのですが、それは逆に外から見ると、ジェンダーは、社会の側で男性(女性)の最も平均的なマスにとって、調和的な享楽を受けられるように調整づけられている過程だと思うのです。
科学がエセ科学になるのは、価値を扱っているように見せかける、そのタイミングなのだみたいな記述がありました。 逆に、では「ここまで、(科学的に)わかったとして、この後どうする? どのような幻想をお互い、相手について見るようにしますか? 古くからの性役割・性規範のなかで、もう調整必要なジェンダーは多数あると思うので、そうしたアプライアンスの部分をどうするのでしょうね?...全体がそこの変更を意識共有しないといけないですよね」 そんなことを思います。