虐待を生きぬいて~連鎖を切りたいと願って生きてきた人生と快復~

虐待のサバイバーからガーディナーへ。


大きな樹の根を見つけた。
どんな暴力からも「逃げていい」って伝えたい。

みっちーの活動

1 手話通訳活動を含めたミュージックサインアーティスト   &ピアニスト 2 人権活動(子ども、女性、障がい者、高齢者、メンタル系) 3 里親制度を広めたい 4 復興支援(体と心によいこと始めました) 楽しくて、優しい人に出逢って、自分も嬉しいを手渡しできるそんな活動がしたい。 すべては自分のための四苦八苦。 自分に優しく、他人にも優しくを心がける2014年。 合言葉は nice love song

ミュージックサイン アーティスト みっち~

「ファン」Byミック・サトー

父の心臓が止まった・・・葬儀へ1

2013-11-19 09:22:05 | 快復作業再び~~2013秋から
今、1週間に一度カウンセリングを受けている。

不眠を解消することが出来たらいいなぁ~~というテーマと、父の臨終にどうかかわるかが一番の目標だった。

結果からいうと葬儀にも参加して、自分の意思は表明してきた。

身体のダメージはさほど大きくない。

そして、割と元気。

いいタイミングでカウンセリングを入れていたのが、ラッキーだったかな。







先週の火曜日、風邪と胃痛で近くの病院に行き、カメラを飲んで、ボ~~としながら、今年は冬の靴を買わないとな~~と、お店を歩いていた。

丁度雪がたくさん降っていて、滑って転んだらまた怪我をするのも嫌だし~~~。

喉と鼻には麻酔がかかっているし・・・。

そんな私のところへ、「ひろしさん、亡くなったって」

前回の心肺停止から、いろいろ妹を話すことが多くなってて、妹の気持や、娘の気持を考えると、亡くなったあとに、一度はそこへいかなければならないのかもしれないと思っていた。

だから、
葬儀に参列するかどうかよりは、私の大切な家族を支えに行ければと思い、車に乗って移動しながらどこへ行くべきなのかを考えていた。


娘はけっこう動揺していて、一人では動けない状態になっていて、一つ一つ課題をクリアにして、大学に電話したり、飛行場に電話したり、しながらメールを打った。


娘にとっては優しいおじいちゃんだったしね。

結構子どもが好きで、遊ぶのもうまかった。


私がなりよりも嫌なのは、親戚。

特に父の妹たち。

ずかずかと心の中に入ってくるし、自分中心で、世界が回っていると勘違いしているような人たち。

普段はしらんふりなのに、支持ばっかり。

鬱々してくる。


そうだ、私は「うつ」ってことになってるはず・・・。

そんなことが頭の中を渦巻いていた。



父が植物人間のような状況に・・・。

2013-10-24 08:51:36 | 快復作業再び~~2013秋から
夏に認知症がいがいよいよ、重症化して本人の意思だった「一人暮らし」が難しくなった。


兄弟姉妹の3人の家族がそれぞれ、役割を分けて、徘徊してしまう父を何とかショートステイとか、病院にと、本当に考えてくれた妹。

地元では、どうにもならなく札幌に住民票も移し、認知症専門の病院に入院していた。

つい2週間前、誤飲が原因で肺炎をおこし、熱発。

その後自力で熱をさげ、そこそこ元気だった。


そしてまた誤飲がきっかけで、心肺停止。


私たちは、「蘇生はしないで欲しい」とお願いしていたのだけれど、「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)ができてなくて、内科の先生は30分も心臓マッサージを頑張った結果、その後心臓は動き、自発呼吸もある。

けど麻痺も残り、意識はなく、かろうじて聴覚だけ残っているかも??な状態。

80歳になる人にそんなに長く蘇生(心臓マッサージ)しても、どうなのかな??って私は思うんだけど・・・。

家族が来るまでって思って頑張ったのかな・・・。

精神科のDrには、私たち子どもがどんな思いで過ごしてきたかとか、しっかり伝えていてその先生は、「わかりました」って言ってくれた。

妹は、今の職場で高齢者の方々が、どんな暮らしをしているかを知っているので、家族が誰も逢いに来ないみたいにならないようにとか、若くないのだから、静かに暮らせるようにとか、いろんなことを考えてくれていたのに、残念。

認知症の専門病院だったけれど、いまいち家族の想いまでは、汲み取ってくれるゆとりはないのかもしれない。




どうしようかなぁ??と迷ったけれど、とりあえず札幌に向かったのが、月曜日。


考える時間も欲しかったし、出会ってどうなるかわからない自分もいたし、葛藤もあったし・・・・。


父の子どもとして、生まれてきているのは3人。

そして、内縁関係で育てた子どもが2人。

妹は小さい時に、私と一緒に暮らしているので、父のすさまじい暴力を経験したのは少ない。

私も、50歳にもなれば、暴力からは逃げられるけれど、言葉でぐっさりやられるのは、いまだに痛い。

だから、


2年前くらいに、「最後の別れ」と思い、

「パパ。ありがとう、この世に命をくれて。パパありがとう、殺さないでくれて。パパはもうパパの人生を楽しんでほしいんだ。」

そう伝えたことがあった。

私はこの時に、もうパパと娘の舞台から降板したかった。


したつもりだった。

「心肺停止」と連絡があって、30分が過ぎても、メールが途絶えたままになったとき、「エンドロールは下りなかったんだな~~」って思い、もう少し続く「ざわざわ感」と、この先私に何が待っているのかと、少し気持ちが重くなった。


夜中のJRで函館を出発し、札幌につき地下鉄に乗り換え。

病院があくであろう時間につき、娘であること、函館から今ついたことを告げると、面会時間は15時なんですと言いながら、病室を教えてくれた。



丁度洗面の時間になり、蒸しタオルを差し出され、「家族の方に拭いてもらってもいいですよ」と、言われた。

何気なくそれを受け取り、

「パパ、三千恵だよ、顔拭くね~~」と、介護職だった私にスイッチが入った。(笑)


聴覚だけは残っていると思うというDrの話だったけれど、

自分の伝えたい事、

「お姉ちゃんね、パパの事嫌いじゃないよ」

「でもごめんねって一回聴きたかった」

「パパの子どもたちの家族は、みんな元気だから心配しなくていいんだよ」

「あ!週末にまーなが来ると思うから、それまでは、頑張っててね。まーなには、いっぱいお小遣いくれたり、ほめてくれてありがとう。」

「あーやは、いろいろパパのために頑張ってしてくれているから、あーやが困らない時を選んで、おばあちゃんのところに行くんだよ~~」

「あと、神様に天国に連れて行って・・・ってお願いしているから、大丈夫だよ、ちゃんとおばあちゃんに逢いに行ってね」

などなど。


あとは、念願だった「三千恵、ごめんね」って父の手を借りて、頭を何回もよしよしと撫でてもらい、たくさんたくさん、謝ってもらった。


そのうち、私は父の顔をなでたり、身体をさすったり、80年生きてきた彼の生きざまを言葉で聴きたかったなと思ったり、

もっともっと、普通の会話をしたかったなと思ったり、

「パパ、私はパパが嫌いだったわけじゃなくて、大好きだけど、怖かったからそばに寄れなかっただけなんだよね」

とにかくいろんな言葉を使って、「嫌いじゃないんだよ」「憎んでないんだよ」と・・・・。



帰り際、妹が来てくれて、少しお茶を飲みながら、夏からのでき事を知り、いろんなことがあったけど、


緊急時には、彼が育てたすべての人間が集まって来るというのも、すごいな~~と、思いながら帰ってきた。


私は、帰り道が重たい荷物が取れて、背中が軽かった。


父とあんなに長い時間一緒にいたのは、初体験。

初めて親子になった日なのかもしれない。

私の家族も、妹の家族も、私が苦しくならないようにと、いろいろ手を差し伸べてくれてる。

その優しさにとても感謝。

ありがとう。

もしかしたら、その時間を作るために、戻ってきたのかもしれない。

虐待を受けたままで大人になること、親と対決しないままでいること、親を許容しないままで生きることって、やっぱり辛いなぁ・・・と、私は思う。


いつまでも、自分の人生を左右されてしまうし、できれば子どもの時に、だれか信頼できる大人と出会って、相談したり、一緒に悩んだりしてもらえる愛着対象がある人に慣れることが、

一番の解決なんじゃないかな。

虐待している親のことも、包み込めるそんな制度が早くできてほしいけど・・・。


この一年で本当にいろんなことがあって、そのたびに浄化されて、どんどん気持ちが楽になってきた。

その準備をずっとしてきたんだな…って思うと、どんなことも無駄じゃない。

そんな風に昨日はマルシェにいて思った・・・・。(^_^)v

私の名前の三という字は、三途の川の三でもあり、あの世ともこの世ともつながっていると教えてもらったことがあった。

その名前を付けたのは父であり、その当時は「名前辞典」を一生懸命みて、名前を考えてくれたとも、聞いたことがある。

少なくとも、その時点では私は望まれた子どもだった。

当時ではめったにないカメラがあり、小さい時からの写真はたくさんある。

年齢に応じて、表情が暗くなっているけれど、3年くらいはかわいい娘と、子煩悩の父だったんじゃないかなと、最近思うようになった。

どこで、歯車がくるってしまったのかわからないが、父は墓穴をほったあと、どんどんその穴を広げていくタイプの人なので、きっと収拾がつかなくて、こまっていたのかもしれない。(笑)


そんな父だけど、横たわっている姿はかわいそうだった。
不本意だろうね。

けど、私が一歩前進できているのは、やっぱり今命があるからこそ。

私は、私の道へ進んでいく。

そんな力をくれて、ありがとう。

そして、お疲れ様。

辛い思いをする子どもはもう、私たちの家族にはいないから、安心してね。バイバイ~~

そして、いってらっしゃい。

自分を心地よく感じるには・・・。

2013-10-16 11:01:50 | 快復作業再び~~2013秋から
家族ともコミュニケーションもかなり、よい状況になってしばらく経つけど、どうも「父親」の姿がちらちらすると心がおだやかなじゃくなる。

不安定というほどではないけれど、似たような状況のニュースにも弱く、動揺している自分を感じる。

今までのパターンは、複数いる人格・・・つまりはいつもの私ですが、

総合的にお話をする担当していました・・・・。


カウンセリングを受けてある気付きがありました。

それぞれの人格さんたちは、話したりない~~~って思っているのかもしれないということ。

頭の中で会議をして、どうする?という相談はできるけれども、それぞれが自分の大変さや、体験を話すことって、したことがないなぁ~~と思い、カウンセラーさんも「自由に話したいことを話してもいいですよ」と勧めてくれたので、トライすることにしました。


ちょっと痛みも伴うと思うけれども、それでそれぞれの心が軽くなるのであれば、意味があるかもしれない。

私はあまり人格を統合したいとか、考えた事はなくて、それぞれが仲良くできるのであれば、寄り添っていたいと思う。

そのことをカウンセラーさんに話したら、

「みちえさんは、それぞれの人格を尊重して、自分も尊重されるそんな関係を自分の中で作りたいと思っているんですね」とまとめて下さり少し安心した。

10年経つと治らない病気も治るように変わるのだろうし、心理士さんの状況も変化しているのかな??みたいに思った。

10年前は、過去の事を話すと、泣いてしまわれたり、へんに同情されたり、超に同調されて、嫌な想い出しかない(笑)

唯一淡々と話を聞いてくれたのか森田ゆりさん。

次に服部雄一さん。


父親の病状の変化によっては、出向くことにもなるかもしれないけど、気乗りがしない。

私はどうしたいか?がわかるまで、待っててもらいたい。

けど、超忙しい時に肺炎で熱を出してて、急変するかもしれない・・・と連絡が入っていたが、妹が出向くとわかったら翌日には熱が下がるという超スペシャルな人だから・・・・。(笑)


もう降参するのがいいのかな・・・。

特別対立しているつもりはないけれどね。

父のしたことを正しいなんて思わないけど・・・・・・・。

関わるのやめたいかもしれないね。